大阪大学共通教育、副主題「社会とひと」
科目「存在と認識」 第一回講義
(1998。10。07)
授業のねらい:
自然の場合と異なり、社会については、その存在とそれの認識が密接に不可分に関係している。そのメカニズムの解明をとおして、社会についての理解を深めることを目標とする。
授業の概要:
1、翻訳文化の問題
2、予言の自己実現
3、社会システムと相互予期
4、コミュニケーションにおける相互知識
成績評価の方法:
2、3回の小レポートを課す。最後にレポートを課す。
テキスト、参考文献等:
教科書は無し。参考文献は、授業中にその都度指示する。
シラバスには上のように書きました。授業のねらいについては、変更はありませんが、
講義の予定は、シラバスとはすこし違ったものになるとおもいます。
§1 懐疑主義について
1 古代懐疑主義の再発見
[参考文献]
1、ジュリア・アナス、ジョナサン・バーンズ『懐疑主義の方式』岩波書店
2、フィリップ・デ・レイシー「懐疑主義(古代における)」
(『西洋思想大事典』平凡社)
3、ポプキン「懐疑主義(近代思想における)」(『西洋思想大事典』平凡社)
西洋哲学の流れは、次のように概括されることが多い。
(1)古代・中世哲学 �「 存在論
(2)近代哲学 �「 意識哲学(認識論)
(3)現代哲学 �「 言語哲学
近代哲学の特徴の一つは、認識論が支配的なテーマになることである。
その原因としてさまざまな事柄が想定できるが、《近代自然科学の誕生》と《古代懐疑主義の再発見》はとくに重要である。
古代懐疑主義の再発見についていえば、1562年に、エンペイリコス著『ピュロン哲学の概要』のラテン語訳が、フランス人アンリ・エティエンヌによって出版された。それまで世に知られていなかったこの書物はそれによって急速に注目をあび、続く300年間の哲学の進路を決定したともいわれている。
古代ギリシャ哲学はふつう3期に分けられる。
(1)ソクラテス以前
(2)ソクラテス、プラトン、アリストテレス
(3)アリストテレス以後
この(3)アリストテレス以後の時期は、さらに二期に分けられる。
(1)ヘレニズム時代(ストア派、エピクロス派、懐疑派)
(2)古代ローマ時代(新プラトン派、教父哲学)
懐疑主義は、このヘレニズム時代の哲学である。
・ピュロン(BC.360-270)
・アイネシデモス
・セクストス・エンペイリコス(紀元後2世紀の半ば頃活躍)
2 現代哲学の状況:<ミュンヒハウゼンのトリレンマ>
(H.アルバート『批判的理性論考』御茶の水書房)
ある命題pの根拠づけを行おうとすると次の3つのどれかになる。
(1)根拠の根拠をもとめて無限後退する
(2)根拠の探求がどこかで循環する
(3)根拠の探求がどこかで独断的な主張に行き着く。
ところで、このいずれの場合にもpを合理的に根拠づけることは出来ない。ゆえに、命題pの合理的な根拠付けは不可能である。これを「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」という。
このような問題状況において、理論的な解決案としては、次のようなものがある。
――懐疑主義
skepticism
――決断主義 ――信仰主義 fideism
decisionism ――批判的合理主義 ――可謬主義
critical rationalism fallibilism
――規約主義
conventionalism
――基礎付け主義 ――デカルト(内省主義、直観主義)、
foundationalism ――討議倫理 Diskurs Ethik
3、デカルトの発見
ルネ・デカルト Rune Decartes 1596-1650は、「方法的懐疑」によって、学問の体系のための基礎である確実な真理を発見した。それは、「我思う、ゆえに我あり」cogito
ergo sum ということである。
[著作]
1628年 『精神指導の規則』(1701に出版)
1633年 『世界論』(死後出版)
1637年 『方法序説および試論』
1641年 『第一哲学についての省察』
1644年 『哲学の原理』
根は形而上学、幹は物理学、枝は全ての諸学(医学、力学、道徳)
1649年 『情念論』
4、ポパーの批判的合理主義
参照箇所 1、K.Popper『開かれた社会とその敵』(第24章)
2、『探求の論理』(第5章)基礎言明の決断
<「包括的合理主義」=「無批判的合理主義」と「批判的合理主義」の区別>
「包括的合理主義」:「私には、論証あるいは経験という手段によって弁護され
得ないような考えや仮定を受け入れる用意はない」212
このことを、それ自身に適用すれば、包括的合理主義は受け入れられなことになる。「それゆえに、論理的に支持できない。」212が帰結する。
「誰であれ、合理主義的態度を採用する者が、まさにそうするのは、論拠もないのに、ある種の提案あるいは決心または信念もしくは習慣ないしは行動――これらもまた翻って非合理的とよばれざるをえないのだが――、を採用したからであるということである。いずれによせ、それは非合理な理性信仰としるされよう。」213
「根本的な合理主義的態度は、非合理的な決定、あるいは理性への信仰によって基礎付けられる、という事実を承認する批判的合理主義の態度が存する」213
したがって、我々は合理的に弁護された仮定から出発することは出来ない。そこで、出発点となる仮定は、いわば何でもよく、テストに掛けることが重要になる。ここで、「可謬主義」という立場が帰結する。
5 アーペルの討議倫理Diskurs Ethik
「知識の根本的基礎づけ」(『哲学の変貌』岩波)
Otto Apel, Das Problem der philosophischen Letztbegruendung im Lichte
einer transzendentalen Sprachpragmatik,
in B.Kanitschneider(Hrsg.),Sprache und Erkenntnis ,Innsbruck,1976.
・懐疑主義批判――全てを疑うことはできない。
「『確実性の問題』の115節において、ウィトゲンシュタインは、「あらゆることを疑おうとする者は誰でも、疑いを始めることすら出来なくなるだろう。疑いというゲームそのものが確実性を前提しているのである」とのべている。換言すれば、不可疑的な確実性を同時に原理的に前提しているのでなければ、懐疑も、したがってまたポッパーやアルバートのいう意味での批判も、有意味な言語ゲームとして説明することが出来なくなる、ということである。」(213)
・可謬論批判
「もし可謬論の原理がそれ自身可謬であるなら、その限りでその原理自身はまさに可謬でないことになる。また、その逆も言える。・・・このようにして、いまや、相互主観的に妥当な哲学的批判並びに自己批判を可能にする、それ自身は批判さえない条件という、超越論的遂行論的次元が、十分に根底的なかたちで開示される。これらの条件とはいったいいかなるものであろうか。」(231)
・超越論的語用論の前提
「私が、あるものについて、現実に自己矛盾に陥ることなくしてはそれを否認できず、また形式論理的な意味で論点先取におちいることなくしてはそれを否認することができない場合、このあるものとは、論証という言語ゲームがその意味を失わずに存在することを望むならば、必ず受け入れていなければならない、論証の超越論的遂行論的な諸前提である。」(237)
・言語ゲームの規則=範型的明証性=相互主観的な妥当性
「範型的明証性は原初的経験が証示する認識の明証性と、そのまま同一であるのではない。範型的明証性は、むしろ直接にもろもろの規約へと遡って捉えることの出来るものであるし、またそうでなければならない。・・・ただしこのような範型的明証性としての諸規約が、恣意的な決断に還元されてしまうようなことはない。・・・しがたって、意識の明証性が、言語ゲームの公的に認められた範型としてのみ相互主観的な妥当性を獲得する、という自体は、超越論的遂行論の観点からみると、論証的な基礎付けが認識の明証性に訴えざるを得ない、という事態に対応しているのである。」(225f)
・例証:最小論理
「レンク(H.Lenk)は「少なくともある種の論理的規則は、合理的な再 検討から原則的にのぞかれなければならない」と述べている。」
(232)
:「我あり」
:誠実性or相互承認
6 「なぜ」質問の分類
「なぜsはpなのか」という質問は、次の3つに区別できるだろう。
(1)「sがpである」という事実や出来事の<原因>を問うもの。
(2)「sがpする」という行為の<理由>を問うもの。
(3)「sがpである」という発話行為の<根拠>を問うもの。
「なぜ、なぜ」と問い続けられたときに、
討議倫理学は、「それが語用論的必然だから」
決断主義は、「そのように決断したから」
規約主義は、「そのように習ってきたから」
とこたえるだろう。これは、根拠の「なぜ」を原因(ないし理由)の「なぜ」にすり替えるものである。(では、どうするか? それは皆さんが考えて下さい)