第7回講義  第二部 社会体系と知の体系の類似性



          

第二部 社会体系と知の体系の類似性


 第一部の課題は、
  論点1:「社会制度では、認識と存在が不可分に結びついていることが、
        社会制度に特有の<あやうさ>と<堅固さ>をあたえている」
を説明することでした。これまで講義によって、論点1の前半部分は十分に理解できたと思います。ここでは、後半部分の説明をしましょう・・・・・
  といいたいところですが、これはレポートの課題ですので、みなさんが、これまでの議論をふまえて
よく考えて文章にしてください。(ユニークな指摘を待っています。)

 さて、論点1の前半部分から帰結することは、その後半部分だけではありません。次の論点2もそれから帰結することだと言えるでしょう。
  論点2:「社会体系は、知の体系と似た構造を持つ」

(従って、我々は論点1、2をつぎのように整理したほうがよいかもしれない。
  テーゼ1:「社会に関しては、その認識と存在が不可分に結びついている」
  テーゼ2:「テーゼ1により、社会は特有の<あやうさ>と<堅固さ>をもつ」
  テーゼ3:「テーゼ1により、社会体系は、知の体系と似た構造を持つ」        )

 この論点2(テーゼ3)を説明するために、まずは、ボッブズとロックの社会思想を説明したい。

         

§7 ホッブズの国家論


ホッブズ(Thomas Hobbes,1588-1679)の主著である『Leviathanリヴァイアサン』(1651)(引用は、中央公論社『世界の名著、ホッブズ』の頁数を占めす)をもとに彼の国家契約論を解説し、それをもとに、「ホッブズ問題」を考えたい。

1 ホッブズの年譜
ホッブズは、
1588年4月5日、国教会牧師トマス・ホッブズ(同名)を父に、ヨーマンの娘を母に、
      次男として、イギリス、ウィルトシャー州ウェストポートに生まれる。
1592年、ウエストポートの教会学校におくられる。
1600年、父の死後、兄、シスターとともに、叔父に引き取られる。
      ロバート・ラティマーの私立学校に入学。
1603年、オックスフォード大学に入学。
1608年、ウィリアム・キャベンディッシュ男爵の長男の家庭教師になる。
1610年、家庭教師としてフランス、ドイツ、イタリアに旅行する。
1613年、キャベンディッシュ伯爵の秘書になる。
1629年、イタリア旅行中、ユークリッド本を見て、幾何学的・数学的方法を学び、方法への眼を開く。
1640年、パリに亡命、その期間に『リヴァイアサン』を執筆。
1642年、パリで、『市民論』を匿名出版する。
1650年、『法学要綱』を二つにわけて、『人間本性』『政体論』を出版。
1651年、『リバイアサン』をロンドンで出版。
      キリスト教会からの非難が高まり、イギリスへ帰国。
1655年、『物体論』出版
1658年、『人間論』を出版。
1679年12月4日、91才で死亡。

 <イギリス政治史>
 1642ー49年、ピューリタン革命
     1642ー47年、第一次内乱
     1648ー49年、第二次内乱 
 1649.1、国王チャールズ一世を処刑し共和制Commonwelthを樹立
1653年、クロムウェル独裁
 1660年、王政復古
 1688年、名誉革命
 
 ホッブズ政治論の革新的意義は、国家を神の是認から、人間自身の要求へと転換したことにある。彼は、神が命ずるがゆえに、政治的支配権に服従すべきであるという「王権神授説」を、人間自身に有用であるから人間によって国家が制度化されたという理論におきかえた。

    神
  /  \
animal   natural man
        |
      natural man
      /    \
  automata   artificial man
          (Body of Politique)

神が動物を造るように、人間は自動機械を造り、
神が人間を造るように、人間は人工人間(政体)を造る。

2、ホッブズの人間観

「欲望」 This Endeavour ,when it is toward something which causes it,is      called Appetite ,or Desireこの努力が、それを引き起こすものに向     かっているとき、それはappetiteとかdesireと呼ばれる。
「嫌悪」 And when the Endevour is fromward something,また努力がなにもの     かから逃れようとするものの場合には、一般にaversionと呼ばれる。
「善 Good」:欲望の対象
「悪 Evil」:嫌悪の対象

<力、価値、名誉、位階について>
人の力powerは、present means,to obtain some future apparent goodである。
1、自然的力original naturall powerは、身体や精神の能力の卓越性である。
   異常な強さ、優れた容姿、深慮、技芸、雄弁、気前のよさ、高貴など。
2、手段的力instrumentall powerは、自然的力に依って得られた力で、より多く   の力を得る手段、道具である。富、評判、友人、幸運、。力は、名声に似   ており、高まるにつれ、いよいよ増大し、また重い物体の運動に似て、進   むにつれて、いよいよ速度を増す。

・人の「価値value」は、彼の価格である。価格は、彼の力の使用にたいして支払われるであろう額である。価格は、売り手ではなく、買い手によって決定される。
  {人間の価値が、市場における商品の価値のようにして、計られる。}
・人を高く評価するのは、彼に「名誉honour」を与えることである。
・common-welthによって人に認められた価値が、「位階dignity」である。

<至福=力の無限追求>
「至福 felicity」:「ひとがしばしば要求しているものを獲得するに際しての「継続的成功」つまり絶えざる繁栄は、至福と人が呼ぶものである。それはこの世における至福である。なぜならば、生それ自体が運動 motion にほかならず、また生は感覚なしではありえないように、意欲や恐怖なしにもありえない。」(100)
 「人間のこの世における至福は満ち足りた精神の休息状態ではない。・・・というのは、「究極の目的」とか「最高善」とか、むかしの道徳哲学者たちが書物のなかで述べたものは、まったくありえないからである。さらにまた欲求がなくなった人間は、感覚と想像力が停止した人間と同じく、もはや生きることはできないのである。 
 至福とは、ある対象から他の対象への欲求が絶えず進んでゆくことであり、さきの対象の獲得はあとの対象の道程にすぎない。それというのも人間の欲求の目的は、ただ一度だけのあるいはただ一瞬間の享楽ではなく、将来の欲求への道を永遠に確保することにあるからである。・・・
 人間には、死にいたってはじめて消滅する権力への不断のやみがたい欲求
(perpetuall and restlesse disire of power after power)という一般的な傾向がある。その原因はかならずしも人がすでに得ているより強烈な喜びを望むことにあるのではない。・・・その理由は、生きてゆくために現在所有している力や手段を維持しようと思えば、人はさらに多くの力や手段を獲得しなければならないという点にある。」(132,133)

(注解:ホッブズの描くこのような「人間」は、いかにも近代的な人間像のように思われる。「初めに行為ありき」というファウスト的な人間を想起させる。しかも、ホッブズはそのような「人間」の成立の、社会的な基盤を指摘している。つまり、権力の維持のためにはより多くの権力を獲得しなければならないということである。これは、「攻撃は最大の防御なり」あるいは、「自転車操業」という言葉を思い起こさせる。つまり権力の獲得・維持は、他者との競争であり闘いなのである。近代の競争社会が、ファウストを生み出すのである。)

3.ホッブズの自然状態論

<自然状態=戦争状態>
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      ・能力の平等 → 希望への平等 → 不信 → 戦争・
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)人間は本来平等である。
   「<自然>は人間を心身の諸能力において平等に作った。」154
    肉体的にも、
    精神的にも、
 {デカルト『方法序説』の冒頭を思い出す。}

(2)平等から他に対する不信が生じる
  「この能力の平等から目的達成に際しての希望の平等が生じる。それゆえ、
   もしも二人のものが同一の物を欲求し、それが同時に、享受できないものであれば、
   彼らは敵となり、その目的にいたる途上において、互いに相手を滅ぼすか、
   屈服させようと努める。」155
(3)不信から戦争が起こる
  (a)「このような相互不信から自己を守るには、機先を制するほど適切な方法はない。」155
  (b)「人によっては、自己の安全のための必要を越えて征服を追求し、征服行為における
    自己の力をながめて楽しむ者がある。」156
  (c)「もしそのようなことがなければ、謙虚に限界の中で安楽を楽しむであろう他の人々も、
    侵略によって自己の力を増大させない限り、守勢にたつだけでは、長く自己を存続させる
    ことができなくなる。であるから、他に対する支配の増加は、自己保存のために必要であり、
    許されるのが当然である。」

ホッブズは、戦争状態になる原因について、次のように説明しているところもある。

  「人間の本性には、争いについての主要な原因が3つある。」156
     (1)競争は、人々が獲物を求めて、
     (2)不信は、安全を求めて
     (3)自負は、名声を求めて、
           いずれも侵略を行わせる。

 彼がこの3つの原因の中の「不信」を上のところで特に論じていたのは、生命の安全を求めることが、当時の内乱の続く時代にはなにより必要なことであり、それゆえにこそ国家を必要とする、と彼が考えていたことの証左であろう。

<戦争状態とはなにか>
 「戦争とは、闘いつまり戦闘行為だけではない。闘いによって争おうとする意志が十分に示されてさえいれば、その間は戦争である。・・その他の期間はすべて平和である。」(156)
 「戦争状態においては何事も不正ではない。正邪とか正義不正義の観念はそこには存在しない。共通の権力が存在しないところ法はなく、法が存在しないところには不正はない。・・・そこには管理権も支配権もなく、「私の物」と「あなたの物」の区別もない。」(159)
 「人々に平和を志向させる情念には、死の恐怖、快適な生活に必要なものを求める意欲、勤労によってそれらを獲得しようとする希望がある。また、人間は理性の示唆によって、互いに同意できるような都合のよい平和のための諸条項を考え出す。そのような諸条項は自然法とも呼ばれる」(159)

 ホッブズのこの<自然状態=戦争状態>論で、重要なのは、自然状態では人間が理性的に行為しないから戦争状態になる、と考えるのではなく、人間が理性的であるがゆえに戦争状態になる、と指摘している点である。つまり、ホッブズには、人間が理性的に振る舞うことによってよりよい社会になる、といった啓蒙主義的な理性に対する信頼はない。
 しかし、彼が、平和のために期待するものもまた理性(理性による約束)である。理性批判をするからといって、感情を重視したり、非合理主義になるのではない。

  
<理性もことばも持たぬある種の動物が、強制力なしに社会生活を営むことができるのはなぜか?
   逆に言えば、理性や言葉をもつ人間が、戦争状態に陥るのはなぜか?>

「第一に、人間は名誉と威厳を求めて競いつづける。しかし、これらの動物にはそれがない。その結果、人間の間には、羨望と憎悪が生まれ、ついには戦争となる。
 第二に、これら動物のあいだでは、共通の利益と私的なそれが一致している。・・・しかし、人間の喜びは、自分と他人とを比較することにあり、優越感以外のなにものをも楽しむことはできない。
 第三に、これらの動物は理性をもちいない。したがって、共同の仕事を行うにあたって、なんら過ちを見いだすことはなく、またそのようなことがあるとは考えもしない。ところが人間の中には、公共体を治めるにあたって、他人よりは自分が賢明であり、有能であると考える者がきわめて多い。彼らはそれぞれ違ったやり方で改革と革新を行い、その結果、公共体を混乱と内戦におとしいれる。
 第四に、人間の中には、言語の術によって善をあたかも悪のごとく、悪をあたかも善のごとく示すことのできる者があり、彼らは善悪の見かけの大きさを加減することによって、人々に不満をいだかせ、意のままに平和を撹乱する。
 第五に、理性を持たないこれらの動物は、「権利侵害」と「損害」をくべつできず、したがって、自分が安楽であるかぎり、他の仲間にたいして腹を立てることはない。」(195)

 今日知られているところによれば、動物は、復讐をしない。人間は復讐をする。復讐は復讐を呼び、復讐のドミノ現象が戦争を引き起こす。