第10回講義 §8 ロックの所有論
ここではロックの『市民政府二論』をもとに彼の所有論を紹介検討する。
[ロックの紹介]
John Locke(1632ー1704)は、イギリスのリントンにうまれた。オクスフォード大学では哲学および主として医学を修めた。
「ピューリタン革命、王政復古、名誉革命と、激動していく時代に生活し、人民主権に基づく代議制民主政治の理論を基礎づけることによって、名誉革命の指導的理論家となった。」(『哲学事典』平凡社、「ロック」の項)
著作
『寛容論』(1666)
『医術について』(1669)
『人間知性論』(1690)(岩波文庫)
『市民政府二論』(1690)(岩波文庫)
ここでは『市民政府二論』をもとに彼の所有論を紹介検討する。
『市民政府二論』(1689)の前編は、王権神授説を主張したフィルマーの『族父論』(1679ー80)を批判している。フィルマーは、王党派トーリー党の理論家であり、ロックはホイッグ党のシャフツベリーのブレーンであった。後半は、同じく王権神授説を批判していたホッブズの理論を絶対王政の理論として批判する。
[ロックの自然状態論]
<1、自由で平和>
「自然状態は、完全に自由な状態である。そこでは、自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらないのである。それはまた、平等の状態でもある。そこでは、一切の権力と権限とは相互的であり、何びとも他人以上のものはもたない。」(10)
<2、自然法が支配>
「自然状態には、これを支配する自然法があり、何人もそれに従わねばならぬ。この法たる理性は、それに聞こうとしさえするならば、すべての人類に、一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない、ということを教えるのである。人間はすべて、唯一人の全智全能なる創造主の作品であり、すべて唯一人の主なる神の僕であって、その命により、またその事業のため、この世に送られたものである。・・・各人は自分自身を維持すべきであり、また自己の持ち物を勝手に放棄すべきではない。同じ理由からして、彼は自分自身の存続が危うくされない限りできるだけ他の人間をも維持すべきであり、そうして、侵略者に報復する場合を除いては、他人の生命ないし生命の維持に役立つもの、他人の自由、健康、肢体、もしくは財貨を奪いもしくは傷つけてはならないのである。」(12ー13)
[ロックの所有論]
ロックは、「生命、自由、財産possesions」を「所有property」と名付けている。ロックは、所有の確保のために国家を作るという。ロックのいう所有は、単なる所有権というよりも、むしろ今日、基本的人権と呼ばれるものに相当するからである。(松下圭一はこのpropertyを「固有権」と訳することを提案している。)
ちなみに、この「生命、自由、財産」は『アメリカ独立宣言』において、「生命、自由、幸福の追求」
となり、『日本国憲法』において
13条「全て国民は個人として尊重される。生命、自由および幸福追
求にたいする国民の権利については、公共の福祉に反しない
限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
となって、受け継がれている。
平等と財産については、次の通り。
第14条「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、
社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関
係において、差別されない。」
第29条「財産権は、これを侵してはならない。」
<1 最初は共有>
「自然の理性が教えるように、人間は、ひとたび生まれるや生存の権利を持っており、したがって食物飲料その他自然が彼らの存在のために与えるものを受ける権利を持つのだと考えることができる。」31
「あるいは、天啓のしめすように、この世界は神がアダム、ノアおよびその子たちに与えた賜であると解することもできる。」31
<2 利用のためには占有が必要>
「世界を人間に共有のものとして与えたところの神は、同時にそれを生活の最大の利益と便宜とに資するように利用すべき理性をも彼らに与えた。」(32)
「本来、何人も、それらがこのように自然状態にある限り、それに対して他の人々を排斥して私的支配権をもたない。けれども人間の役に立つようにあたえられたのであるから、それが何らかの役に立つことができ、あるいは、誰か特定の物に何かの利益をあたえるに先だって、まず何らかの方法でそれを占有する手段が必ずなければならない。」
<3 労働所有説>
<身体は、彼のものである → 労働は、彼のものである
→ 労働生産物は、彼のものである>
「たとえ大地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかし人は誰でも自分自身の一身については所有権を持っている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものは何でも、彼が自分の労働を混じえたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。それは、彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。」(§32)
以上が、ロックの「労働所有説」と呼ばれる所有論である。ロックにおけるこのような労働の高い評価は、おそらく彼のピューリタニズムに由来する。
注1:現代のロック主義者ともいうべきR・ノージックNozickは、所有に関して「権限理論
Theory of Entitlement」という立場を主張している。それは、以下の通りである。
「もし世界が総体として正しいのであれば、次の帰納的定義が、保有物の正義という主題全体をカバーするであろう。
1、獲得の正義の原理に従って保有物を獲得する者は、その保有物に対する資
格(権限)をもつ。
2、ある保有物に対する資格(権限)をもつ者から移転の正義の原理に従って
その保有物を得る者は、その保有物に対する資格(権限)をもつ。
3、1と2の(反復)適用の場合を除いて、保有物に対する資格(権限)をもつ者はない。」
(ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』上、下、島津格訳、木鐸社)
注2:(ロックを離れて)自由と所有の関係
1、活動の所有
・身体の所有、および身体活動の所有から、以下の権利が帰結する
「労働力の所有は、職業選択の自由の基礎である。」(吉田民人)
憲法22条、居住・移転・職業選択の自由、外国移住、国籍離脱の自由
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転および職
業選択の自由を有する。②何人も、外国に移住し、または
国籍を離脱する自由を侵されない。」
・精神活動の所有は、思想、良心、宗教の自由、およびそれらの表現の自由の基
礎である、といえるだろう。
憲法19条「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」
憲法20条「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」
憲法21条「集会・結社・表現の自由、通信の秘密」
憲法23条「学問の自由」
2、雇用契約について
精神と肉体の所有ということが、雇用契約の前提条件として必要である。
雇用契約は、一定時間の一定範囲の肉体および精神の使用権の譲渡契約だといえるだろう。これは、肉体と精神の所有を前提する。
とりわけ、精神(労働力)の使用権の譲渡契約が可能であるためには、精神の所有が前提されねばならない。しかし、精神(精神活動)は、(自我が実体でもなく、能力でもなく、活動そのものだとすれば)自我そのものである。これを説明するには、精神ないし自我を二重化する必要がある。
<自我の核心は、純粋な自己意識である。純粋な自己意識は、他の精神活動を、私の意識であると意識している。それゆえに、純粋な自己意識が、他の精神活動を所有している>と考えてはどうだろうか。
注3:人格について
ホッブズの人格論を思い出してみよう。彼によれば、人格とは、基本的に二重構造をしていた。人為人格の場合には、<本人-代理人>という二重構造であり、内容的には<所有者-彼の言葉と行為>という二重構造であった。自然人格もまた、同じく<所有者-彼の言葉と行為>という二重構造をそなえている。
(このことは、次の引用から推測できることである。「人格化する(Personate)とは、
彼自身や他のものを行為したり代表することである」( To Personate is to Act
or Represent himselfe or an other.)」)
ホッブズの考えた人格の二重構造は、自己を所有するという二重構造である。ホッブズの「人格」概念の本質は、「所有者」ということである。
このことは、平等派のオーヴァトンに、よりはっきりと見られる。
「自然におけるあらゆる個人には、いかなる人にも侵されたり奪われたりさるべきでないある個人的所有権が、自然によって与えられている。というのは、誰もが、彼は彼自身であるように、彼は自己という所有をもっており、さもなければ彼は彼自身ではありえないからである。」(オーヴァトン『すべての圧制者に報いる一矢』1646年10月12日、マクファーソン『所有的個人主義の政治理論』合同出版、155からの引用)
さらに、平等派は、所有権から、市民的自由(市民的権利)、経済的自由(経済的権利)、宗教的自由、政治的自由を根拠づけた。(158)
[まとめ]
近代的な権利論では、さまざまな基本的な人権は、身体と精神の所有(行為と言葉の所有)基づいている。そして、所有は、最終的には、「自己所有」という曖昧な概念によって、正当化されることになる。
ところで、これは、様々な意識を可能にするものとして「自己意識」を想定するという構造に似ている。しかし、そもそも「自己所有」や「自己意識」というものは、可能なのだろうか。