綜合科目「ことばの研究最前線」1999年後期 第6回(11・24) 入江担当
相互知識論は、言語学では、グライスの意味論への批判、修正のために登場しましたので、その経緯から説明します。
参考文献 :Paul Grice,'Meaning'(1948), in "Studies in the Way of Words",
1989, Harvard U.P.
グライス『論理と会話』けい草書房
グライスは、「自然的意味」と「非自然的意味」を区別している。
前者の例:「それらの斑点は、風疹を意味している」
「最近の予算案は、我々が厳しい年を迎えること、を意味している。」
後者の例:「バスのベルが3度鳴るのは、バスが満員であることを意味している」
前者は、出来事の因果関係に基づいている。
後者は、因果性関係に基づいていない。
グライスによる「非自然的意味」の定義の最初の提案は、次の通りである。
「”xが何かを非自然的に意味した”が真であるのは、
xが、xの発話者によって、
ある”聞き手”にある信念を生じさせる
ように意図されていたときである」
この第一提案の欠点をしめすために、グライスは次の例を挙げている。私が、
B氏が殺人者であるという信念を刑事に生じさせるために、B氏のハンカチを殺
人現場の近くに残す場合に、我々は、私が、そのハンカチを残すことによって、
B氏が殺人者であることを意味した、とは言わないだろう、とグライスは言う。
(グライスはこれを自明と考えたのか、なにも説明していないが)我々は次のよ
うに説明できるだろう。刑事がそのハンカチを見て、B氏が殺人者だと考えたと
すると、そのときそのハンカチは、刑事にとって、B氏が殺人者であることを
「自然的に」意味しているといえるが、「非自然的に」意味しているのではない。
さらに、この場合の私は、刑事にとって、そのハンカチが「B氏が殺人者である」
ことを「自然的に」意味することを、意図している。それゆえに、私は、その行
為によって、何かを「非自然的に」意味しているとは言えない。
このようなケースを除外するために、
グライスの考えた第二の提案を整理すると次のようになる。
条件1「発話者が、聞き手にある信念を生じさせようと
意図して発話する。」
条件2「発話者が、
<発話者が 聞き手にある信念を生じさせようと
意図していること>を、聞き手が認知すること
を意図する。」
上のハンカチの例で「非自然的意味」が成立しないのは、条件1は充たされて
いるが、条件2が充たされていないからである。
さて、グライスは、第二の提案にもまだ欠点があることを、次の例で示す。
ヘロデは、洗礼者ヨハネの頭をお盆に載せてサロメにプレゼントした。この場合、ヘロデは、ヨハネが死んだことをサロメに信じさせようと意図しており、かつ、そのように意図していることをサロメに認知させようと、意図している。しかし、この場合、ヘロデが、洗礼者ヨハネの頭をお盆に載せてサロメにプレゼントすることによって、ヨハネが死んだことを意味していた、とはグライスは考えない。
なぜだろうか。サロメは、ヨハネが死んだことをサロメに信じさせようとヘロ
デが意図しているのを認知するだろう。しかし、サロメが、ヨハネが死んだこと
を信じるのは、目の前のお盆の上の首がヨハネの死を「自然的に」意味している
からである。
グライスは、この例は、「何かを思わせること」ではあっても「何かを告げる
こと」ではない、という。そして、「非自然的意味」とは「何かを告げること」
なのだという。
そこで、グライスが最終的に提案するのは、次の規定である。
発話には、主張型発話のように、ある信念を生じさせるものだけで
なく、約束や命令の発話のように、聞き手にある行為をさせるもの
もあるので、グライスとストローソンにならって、より一般的に、
「聞き手にある反応rを生じさせる」と言い替えて、整理すると次
のようになる。
<S(speaker)が、行為xによって、何かを非自然的に意味する>
ための条件は、次の3つである。
条件1、Sが、行為xによって、
A(addressee)にある反応rを生じさせよう
と意図1している。
条件2、Sは、AがSの意図1を認知することを意図2する。
条件3、Sは、Aによる意図1の認知にもとづいて、
Aにある反応rが生じること
を意図3する。
P.F. Strawson, Intention and Convention in Speech Acts, in
Philosophical Review, vol.73, 1964, pp.439-460.
ストローソンは、グライスの3つの条件を充たしているが、それだけでは、S
が何かを非自然的に意味しているとは言えないような反例を示す。
住宅販売人Sは、顧客Aが買おうと思っている家がネズミに荒らされているこ
とをAに信じさせようとしている。Sは、Aを家のなかにつれて行き、自分がわ
ざと放った大きなネズミを見せることによって、Aにこの信念を生じさせようと、
決めた。しかも、Sは、Sがネズミを放つのをAが見ていることを知っており、
かつ、Aに見られていることにSが気づいていないとAが思っていること、を知
っている。
ここでSが意図しているのは、Aが次のように考えることである。「こっそり
ネズミを放す行為によって、Sは、<私(A)が家に到着し、ネズミを見て、ネ
ズミを本当に住んでいるものとみなし、そこから、その家はネズミに荒らされて
いると推論すること>を意図しているのだろう。しかし、Sには、その家がネズ
ミに荒らされていると私が信じるように企む理由がない(むしろ、それは彼の利
益に反することだ)。きっと、その家は本当にネズミに荒らされており、Sはそ
のことを私に信じさせようと意図しているのだ。その家は、ネズミに荒らされて
いるのだ。」
ここで上のグライスの3条件は、次のように充たされている。
1、Sが、ネズミを放つ行為によって、「その家がネズミに荒らされている」こ
とをAに信じさせようと意図1している。
2、Sは、(ネズミを放つ行為をAが見ることによって)AがSの意図1を認知す
ることを意図2する。
3、Sは、Aによる意図1の認知が、Aの信念pの理由ないし理由の一部として、
機能することを、意図3する。
しかし、ストローソンによれば、これはグライスが説明しようとしてるコミュ
ニケーションのケースではない。SはAに何かを気づかせようとしているが、知
らせようとしているとは言えない、とストローソンはいう。
もし、Aは、Sがネズミを放つ行為から、「この家はネズミに荒らされている」
ということを理解するのであるから、Aにとっては、その行為は、「この家はネ
ズミに荒らされている」を「非自然的に」意味しているのである。しかし、Aは、
<Aがネズミを見てそこから「この家はネズミに荒らされている」という「自然
的意味」を引き出すこと>をSが意図している、と理解しているのであるから、
AはSから「非自然的意味」をもつメッセージを受け取ったとは考えていない。
したがって、SがAに何かを知らせようとしているとは言えない。
そこで、このような事例を排除するために、ストローソンは、グライスの3つ
の条件に次の条件を加えることを提案する。
条件4、Sは、Aに反応rが生じるようにSが意図1していることをAが認知
することをSが意図2していることをAが認知することを意図4する。
S.R. Schiffer, Meaning, Clarendon Press, Oxford, 1972, pp.17-26.
シファーは、さらに
条件5「Sが、Aが意図3を認知すること、を意図5する」
を加えなければならないような事例を示して見せる。
原理的にはどんなに意図の認知の意図の認知の意図の・・という繰り返しの条
件をつけ加えても、不十分なケースが有り得るので、シファーは、このような意
図の系列の反復とは別の仕方で、このようなケースを排除しようとする。そこに
登場するのが、「相互知識」(mutual knowledge)である。
シファーは、まず「相互知識*」を次のように定義する。
「K*SAp」=df.「SとAが、pを相互に知っている*」
とすると、次のように言うことが出来る。
K*SAp iff
KSp [Sがpを知っている]
KAp
KSKAp
KAKSp
KSKAKSp
KAKSKAp
KSKAKSKAp
KAKSKAKSp
・
・
シファーは、これを用いてグライスの分析を次のように修正する。グライスの
3条件をもう一度あげて説明しよう。
条件1、Sが、行為xによって、Aにある反応rを生じさせようと意図1して
いる。
条件2、Sは、AがSの意図1を認知することを意図2する。
条件3、Sは、Aによる意図1の認知にもとづいて、Aにある反応rが生じる
ことを意図3する。
このグライスの条件1と3が相互知識になれば、意図の認知の意図の・・・と
いう条件の無限系列は、不必要になる。そこで、シファーは、グライスの条件1
と3と、それらが相互知識になることを意図するという条件を、提案するのであ
る。従って、こうなる。
<Sが、xの発話によって、何かを非自然的に意味する>
のは、次の3条件充たされる場合である。
(1)Sが、Aの中に反応rを生み出すことを意図1する。
(2)Sが、意図1をAが認知することを介して、
意図1を実現することを意図する。
(3)Sが、(1)と(2)が相互知識になることを意図する。
「君と私が一緒に食事をしており、我々は互いに向かい合わせに座っており、我々の間のテーブルの上にはかなり目だつ蝋燭があるとしよう。
私は、蝋燭と君に向かっており、君は蝋燭と私に向かっているという状況にいる。
(Sと蝋燭に向かっているAと蝋燭に向かっているSと蝋燭に向かっているAと蝋燭に向かっているSと蝋燭に向かっているAと・・・)
テーブルの上に蝋燭があることを君と私は相互に知っている*。
私は、テーブルの上に蝋燭があることを知っている。
Ksp
私は、君がテーブルに蝋燭があることを知っていることを知っている。私はどのようにしてこのことを知るのだろうか。第一に、「普通の」人(普通の感覚能力と知性と経験を持つ人)ならば、彼の目が開いており、彼の顔が対象の方を向いているならば、彼はその対象をみるだろうと、私は考える。第二に、君が「普通の」人であることを私は知っている。そして、君が目を明けて蝋燭に向かっていることを私は知っている。したがって、
KsKap
さらに、私は、私だけが、上に述べた法則に気づいている人であるとは仮定しない。それゆえに、私は、君が、普通の人は彼の開いた目の線上にあるものをみる、と考えることを知っている。そして、私は、君が私の目が開いており顔が蝋燭に向かっているのを知っているのを知っている。そこで、
KsKaKsp
私が君が普通の観察者についての当該の法則を知っていることを知っている。そこで、私は、君が私と同じように考えることを知っている。そこで、
KsKaKsKap
以上から、次のことが明きらかだろう。
(1)わたしは、これを永遠に続けることができる。
(2)この遡行は無害である。
(3)このケースで得られた現象は一般的なものである。
ここでの条件を明確にしておくと、
条件1 Sが、「ふつうの人」はこうした状況でpを知る、と知っていること
条件2 Sが、相手が「ふつうの人」である、と知っていること
ベイトソンは、人間は、「相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが相手を知覚している事実をわきまえている」というの事実の重要性に注目し、それを「相互知覚の相互覚知」と名付けた。
ベイトソンは、このような相互覚知がコミュニケーションにおいて生じるとき、「コミュニケーションについての相互覚知」を「メタコミュニケーション」と呼んだ。そして、メタコミュニケーション機能を、二つに分けた。コード化に関するメタコミュニケーションと、参加者の関係についてのメタコミュニケーションである。我々は、これに対応する形で、「コード化についての相互知識」と「参加者の関係についての相互知識」を区別できるだろう。
(a)コード化についての相互知識
*語の意味の相互知識
ベイトソンは、全てのコミュニケーションは同時に、コード化についてのメタコミュニケーション機能をもつと考える。例えば「『猫がいる』というとき、"猫"という言葉は、私がみたものを表す、という命題を暗に確認している」という。つまり、xを発話して、pという信念を生じさせようとしているときには、「xはpを意味する」というコードについての確認をしている。つまり、xが「非自然的意味」を持つならば、そこには必ずコード化があるはずであり、その確認が行われいるといえるだろう。
*貨幣・権力というコミュニケーション・メディアは、その妥当性についての相互知識を必要とする。
例えば、お金が通用するためには、人々がお金が通用すると思っているだけではなく、人々が、人々がお金が通用すると思っている、と思っていなければならない。これは、さらに反復する必要があるかもしれない。ようするに、お金が通用するには、そのことについての相互知識が成立していなければならないのである。
*法や道徳などの規範の妥当性も、それについての相互知識の成立によって、機能するようになる。
例えば、みんなが赤信号で止まらなければならないと考えていたとしても、そのことが相互知識になっていなければ、赤信号でも反対側の青信号の人は安心してわたれない。赤信号は、赤信号としての役目を果たさない。つまり、規範は、相互知識によって規範として機能する、つまり規範として成立するのである。
もう一つ例をあげると、約束が拘束力を持つためには、人々が約束が拘束力を持つと考えるだけでなく、人々が、人々が約束が拘束力をもつと考える、と考えることが必要であり、さらにこれを反復する必要があるかもしれない。要するに、約束が拘束力を持つためには、それについての相互知識がなければならないのである。
(b)参加者の関係についての相互知識
*誠実性についての相互知識
誠実な話し合いが成立するためには、互いに誠実に話すだけでなく、互いに相手が誠実に話していることの知が必要であり、さらにその知についての知が必要である。たとえば、自分の発話の誠実性を相手が知っていることを知っていることが必要である。なぜならば、もし、そのような知がなければ、相手が自分の発話を誠実なものとして理解しているかどうか解らないことになるからである。また、相手の発話の誠実性を自分が知っていることを相手が知っていることを知っていることも必要である。なぜならば、もしそのような知がなければ、相手の発話を誠実なものとして理解してそれに応じようとしていることを相手が知って話しているのかどうかが解らないことになるからである。このような議論は、更に続けることも出来るだろう。誠実な話し合いが成立するためには、誠実性についての<相互知識>が必要である。
*対話者の人間関係についての相互知識
先輩ー後輩、上下関係、男女、医者患者、店員と客、等
両者の関係が、非対称的ないし相補的であるとき、あるいは対称的であるとき、この関係についての相互知識を予期しつつ、振る舞うことが必要になる。下の者は、上のものに対して、自分が下の立場であると考えていることを、相手に知らせなければならない。上の者も同様である。対等の者も、そのことを互いに確認しておかなければ、親しい態度が、卑屈な態度や、横柄な態度として理解されてしまう可能性が生じる。
上下関係の自己理解は、謙譲表現や敬語などの言葉遣いで表現することが出来る。それが相手の期待と食い違ったときには、相手はおれは上役だと威張った口調で上下関係に付いての彼の理解を表現したり、親しい口調で仲間であることを強調したりする。
このことは、様々な権力関係についてもいえる。たとえば、イスラエルとPLOの相互承認が成立するためには、両方が相手の存在を承認することだけでは不十分であり、そのことを両者が知っていなければならない。つまり、「両者が、相互に互いを承認するものとして、互いを承認する」(ヘーゲル)のでなければならない。
*排除、差別と相互知識
逆にいえば、社会的排除というのは、コードを知らない者に対して行われるだけではなく、コードを知ってはいるが、コードについての<相互知識>があることを知らない者(みんながコードを知っており、かつ、みんなが、みんながコードを知っていること、を知っている、ということを知らない者)に対しても行われる。
コミュニケーションは、つねに相互知識を作りだし、それはつねに排除の可能性を作り出す、ということもできる。
*癌を告知すると、その人との会話が少なくなってゆく。その理由は、相互知識が何かが曖昧になると、自分の発言がどう理解されるかが、より不確実になり、発言が少なくなる。
*差別されている人との会話が少なくなるとすれば、その理由は、相互知識が何かが曖昧になるためではないか。
他の内部の相互知識が解らないから、そこに入っていけないだけではなく、他の集団のメンバーとの間に相互知識が成立していないから、仲間になれないのである。知識の内容の違いではなく、ある知識を共有しているという知識の成立が問題なのである。
二人の間に、差別の切断が入ることによって、相互知識の成立に対して疑念が生じるのである。
(1)バック&ハーニッシュの相互知識への批判
「相互知識の定義は、信念の三レベルに限定されず、無限につづく。より高次の信念は、原理上は可能であり、スパイ同士や欺瞞的な親友同士の間では、・・・可能かもしれないが、共同体全体、ないし大きな集団では、より高次の信念は不可能である、と我々は考える。」Bach
and Harnish(1979,p309)
「心理学的な限界がある。・・・おそらくたいへん賢いひとでも、6レベル以上の想定をすることはできないだろう。」Harder
and Koch (1976,p62)
(2)入江の批判
シファーの定義するような相互知識は有り得ないだろう。なぜなら、例えば、
K*sap iff
これが成立するとすれば、例えば、
KsKaKsKap
が成立しているというのだが、これが成立するためには、
KaKsKap
を知らねばならない。しかし、このことを予想することは出来るし、予想しているとしても、これを知ってはいない。なぜなら、それを知るには、相手に問い尋ねて確認するしかないからである。そして、そういうことはやってはいない。
だから、シファーの定義するような相互知識はありえない。
(3)「相互予期」への修正
このような批判を考えるならば、現実に存在するのは、もし解い尋ねるならば、シファーのいうような相互知識が成立するだろう、という予期である。このような予期を両者がしているのであり、予期の予期もしており、
Eapを Aはpを予期する、と言う意味に定義すれば
相互予期をつぎのように定義できるだろう。
E*sap iff
Ksp あるいは Ksp
Kap Kap
KsKap KsKap
KaKsp KaKsp
EsKaKsp KsKaKsp
EaKsKap KaKsKap
EsEaKsKap EsKaKsKap
EaEaKaKsp EaKaKaKsp
・ EsEaKaKaKsp
・ EaEsKaKsKap
・ ・
・ ・
というように定義できるだろう。
しかし、この場合にも相手が予期していることを予期する程度であればよいが、
予期が5、6回つづくとそのような予期を相手がしているとはとうてい予期できない。(そのような予期を相手がなし得るということは、予期できるとしても。)
この予期をどのように定式化するかは問題であるが、
しかし、ここに成立しているのは、知識である、というよりは予期と呼ぶべきものであるだろう。これを「相互予期」と呼ぶことにしたい。