2008年度第2学期 共通教育科目「哲学基礎B 
「認識するとはどういうことか?」

                    第三回講義(2008.10.16)
      §3究極的に根拠付けられた知は存在するのか?(その2)            

1、ミュンヒハウゼンのトリレンマの議論への批判と検討
(1)批判
 
V. クラフトは、ミュンヒハウゼンのトリレンマを次のように批判している。
 
<ミュンヒハウゼンのトリレンマの議論は、論理学を前提している。具体的には、「単純構成的トリレンマ」と呼ばれる推論が妥当であることを前提している。
  p⊃s&q⊃s&r⊃s
  pvqvr    
      ∴ s
しかし、他方で、「単純構成的トリレンマが妥当な推論である」という命題について、その根拠を問うならば、それはミュンヒハウゼンのトリレンマに陥り、根拠付けを失うだろう。ゆえに、ミュンヒハウゼンのトリレンマの議論は、自己論駁的である。>
 
 
あるいは、別の言い方をすると次のようになる。
 
<ミュンヒハウゼンのトリレンマの論証は、次のようなものである。<推論T(単純構成的トリレンマ)が妥当であり、前提D(p⊃s&q⊃s&r⊃s と pvqvr)が真であるならば、命題S「いかなる知も窮極的な根拠付けを持たない」は真である。> この結論は、「推論Tが妥当である」を前提している。この前提は、命題Sと矛盾する。>
 
 
(2)反論
この批判に対しては、次のように反論することが出来る。ある前提から帰結する結論が前提と矛盾するならば、そこから論理的に帰結することは、前提の少なくとも一つが間違っているということであって、結論がまちがっているということではない。したがって、この批判は、無効である。もっとも、この反論もまた論理法則を前提している。
より一般的に言うと、論理法則を前提すると命題Sが帰結することになり、論理法則を前提しないと、そのときには何でも帰結する(矛盾からはどのような命題も帰結する)ので、命題Sが帰結する。したがって、いずれにしても、命題Sが帰結する。
もっとも、この反論もまた論理法則を前提している。
 
 
2、ミュンヒハウゼンのトリレンマから何が帰結するか?
 
(1)懐疑主義
ミュンヒハウゼンのトリレンマの帰結が、命題S「いかなる知も窮極的な根拠付けを持たない」であるとしよう。知とは、根拠のある真なる信念であるとすれば、根拠を失った知は、もはや知ではなくて、信念にすぎない。
K1の根拠が知K2であり、知K2の根拠がないとしよう。そのとき、知K2は独断ないし信念に過ぎないことになるので確実に真であるとはいえない(もちろん、その人が根拠を知らなくても真である可能性はのこる。)しかし、その人にとっては、K2が知ではないなら、K1もまた根拠を失うことになる。なぜなら、信念は知の根拠とはなり得ないからである。
つまり、「究極的に根拠付けられた知は存在しない。それゆえに、そもそもいかなる知も存在しない」ことになる。これは懐疑主義と呼ばれる立場である。
 そもそも、ミュンヒハウゼンは、古代懐疑主義の懐疑の方式の一つに大変よく似ている。古代の懐疑主義は、このような懐疑の方式から、懐疑主義を主張した。
(a)懐疑からの帰結(古代の懐疑主義の場合)
判断中止”epoke-“epochと不動心”ataraxia” “apatheiaapathy
 
(b)帰結としての懐疑主義とそれへの批判
命題S2「いかなる知も存在しない」というのは、懐疑主義と呼ばれる立場である。懐疑主義は、命題S2を主張するが、それを知だということはできない
なぜなら、命題S2が知であるならば、それは命題S2の内容に矛盾するからである。懐疑主義は自己矛盾する。
もし命題S2が知ではないとすれば、命題2は何だろうか。信念だろうか?
 
 
2、批判的合理主義
では、H・アルバートはどのように考えたのだろうか。彼はポパーにならって、批判的合理主義を主張した。ポパーの批判的合理主義とは次のような立場である。
 
<我々は、知を根拠付けることはできないが、しかし根拠がなくても、我々はある信念を知と見なすことができる。それは、その信念を経験のテストにかけて、テストによって反証されていない限りにおいて、その信念を真であるとみなすこと、つまり知とみなす。>
 
この立場なら、論理法則もまた経験のテストにかけて、反証されない限りにおいて真であると見なすことができるだろう。では、上述の「批判的合理主義」の立場そのものの正しさを、批判的合理主義で正当化できるだろうか?それが可能であるためには、「批判的合理主義」そのものを経験のテストにかけることが出来なければならない。しかし、非合理な立場を採用する者に対して、批判的合理主義を採用すべきであるということ、批判的合理主義それ自身によって可能だろうか。そのようには思えない。そこでポパーは、批判的合理主義そのもの選択は、非合理な決断に基づくのだと考えた。
 ポパーの立場は、決断主義の一種である。
 
 『開かれた社会とその敵』(小河原誠、内田詔夫訳、未来社、第二部、第24章)より
 「包括的合理主義は、「私には、論証あるいは経験という手段によって弁護され得ないような考えや仮定を受け入れる用意はない」という人の態度として表現できよう。」212これを自己自身に適用すれば、放棄されるべきものであることになる。「それゆえに、論理的に支持できない。」212したがって、我々は合理的に弁護された仮定から出発することは出来ない。そこで、出発点となる仮定は、いわば何でもよく、テストに掛けることが重要になる。
 「誰であれ、合理主義的態度を採用する者が、まさにそうするのは、論拠もないのに、ある種の提案あるいは決心または信念もしくは習慣ないしは行動――これらもまた翻って非合理的とよばれざるをえないのだが――、を採用したからであるということである。いずれによせ、それは非合理な理性信仰としるされよう。」213「根本的な合理主義的態度は、非合理的な決定、あるいは理性への信仰によって基礎付けられる、という事実を承認する批判的合理主義の態度に存する」213
 
 
 
 
、ミュンヒハウゼンのトリレンマからの帰結
 
 
「基礎づけ主義」が批判されるとき、帰結するのは次の3つの立場であろう。
 
(1) いかなる主張も行わない「懐疑主義」(skepticism)
 
(2) 何かを主張するが、それが誤謬である可能性を認める「可謬主義」(falibilism)
 
例えば、ポパーやアルバートの「批判的合理主義」は、「基礎付け主義」をとらず、「可謬主義」をとる。可謬主義は、確実に真であることが証明された命題を学問の出発点にするのではなく、とりあえず真らしい命題を出発点にし、その命題をテストにかけ、テストによって反証・反駁されない限りで、その命題を採用し続けようとする立場であり、すべての命題につねに誤謬の可能性を認める立場である。
 
(3) それでも、「基礎づけ主義」の可能性をなおも追及すること
 
(2)の立場は、どのようにしてある主張を行うのか、どのようにしてある主張を正当化するのかによって、つぎのように区別されるだろう。
   (a) 決断主義(decisionim)K・シュミット、実存主義、ポパー、)
   (b) 規約主義(conventionalism)
  約束主義(あるとき、ある人々による、自覚的な約束)
            慣習主義(いつ、誰によるのかわからない、慣習)