第二回 講義ノート (工事中)
第一章 ドイツ観念論の自由論
ここで検討したいことは、<近代的主体>が、実際には存在しないフィクションであるということのみならず、実は、<近代的主体>概念が、単に概念としても自己矛盾しているのではないか、ということである。<近代的主体>概念の中心は<自由>であるが、その<自由>の概念自体が、実は自己矛盾した概念なのではないだろうか。
§1 カントの自由論のアポリア
テーゼ:「カントの「自律」の立場は、自己矛盾している」
証明:このテーゼは、以下のカントの発言にもとづいて、証明することが出来る。
カントによれば、
「意志決定は、つねに何らかの格律(主観的な意志決定の規則)に基づいて
行われる」
ところで、道徳法則を自分の格律に採用することを、命じるのが、カントの定言命法であった。しかし、道徳法則を格律に採用すること自体も、自由な意志決定によるものである。そして、この決定自体もまた何らかの格律に基づいて行われることになる。かくして、格律の決定についての格律の決定についての・・・というように、無限に反復する。
このような事態を、カントは『単なる理性の限界内における宗教』のある注で明確に述べている。
「道徳的格律の採用の最初の主観的根拠が極めがたいということは、すでに
次のことからあらかじめ察知されるであろう。すなわち、この採用は自由
であるから、採用の根拠は、自然の動機のうちにではなく、いつでもある
格律のうちに求められねばならない、そして、この格律もまた同様にその
根拠をもたねばならないが、格律のほかには自由な選択意志のいかなる規
定根拠をも挙げるべきではなく、また挙げることもできないから、ひとは
主観的規定根拠の系列を無限にどこまでも遡行させられて、その最初の根
拠にいたりつくことはできないのである。」(A21=B20、理想社『カント全集』9巻、36頁)
格律の決定のためには、その決定が自由な決定であるためには、それが別の格律に従っていなければならず、その別の格律の採用決定また、別の格律に従っていなければならず、無限遡行するということである。したがって、カントの「格律」概念や、自ら自己に法則を課するという「自律」の概念が、自己矛盾している、ということになる。
もっとも、実際には、我々は格律の採用の格律の採用の・・・という遡行を無限につづけることはできません。それどころか、2、3回遡れば、大抵の場合には、行き詰まるでしょう。
カントは、この後で、つぎのようにいう。
「われわれの格律は、それはそれとしていつでも自由な選択意志のうちに存
するはずであるが、この格律を採用する最初の根拠は、経験のうちに与え
らえるような事実では有り得ないから、人間の内の善もしくは悪(道徳法
則に関してこのあるいはかの格律を採用する主観的な最初の根拠としての)
が生得的であるというのは、善悪が経験のうちに与えられたすべての自由
使用に先だって(出生にまで遡る最幼少期において)根底におかれており、
そこで出生と同時に人間のうちに存在すると表象されるという、単にそう
した意味においてであって、出生がまさしく善悪の原因であるという意味
においてではない。」20
§2 検討
テーゼ1「我々が、意志決定をするときには、その背後に一般的な規則がある」
証明:意志決定は、二通りに分けられるので、そのおのおのについてに証明しよう。
(1)意志決定が、「・・・すべきだ」という判断に基づいている場合。
我々が、U1「・・・べきだ」と判断するときには、その背後には、法則があるはずである。それは、「べきだ」という語の意味から、帰結する。この法則は、「・・・ならば・・・すべきだ」という形式をとるだろう。
<証明>ある状況Xで「Aをなすべきだ」、と判断した者は、それと非常ににた状況X’でも、「Aと非常によく似たA'をなすべきだ」と判断するであろう。もし、そのように判断しないのであれば、彼は如何なる根拠にもとづいて、上のように判断したのか、理解できないことになるだろう。
「・・・すべきだ」と判断するときには、根拠をもっているはずである。だとすれば、その根拠と非常によく似た事情がある時には、おなじような判断が帰結するはずである。
事実に関する因果関係の場合には、「・・・の状況では・・・となるはずだ」という形式の判断、あるいは、「・・・であるから、・・・となる」という判断の場合も同様である。
(参照:ダント『物語としての歴史』)
(2)意志決定が、不決定の決定である場合。
我々が、意志決定をするとき、AとBとの選択で、Aを選択するときに、「Aを選択すべきだ」と考えて選択したのではなくて、AとBがまったく同じ条件であるにもかかららず、一方を(いわば心の中でサイコロをふるようにして)偶然的に選択したのだとしよう。このような場合、偶然的な選択の背後には、選択しないことよりどちらにしろ選択した方がよいという判断があるはずである。つまり、「・・・べきだ」という判断である。なぜなら、もしそのような判断がなければ、彼はそもそも選択しなかっただろうからである。我々は何の必要もないところで決断したりはしない。そうすると、このばあいにも、上の(1)と同じように、背後には一般的な法則があることになる。
<テーゼ1から意志決定のアポリアが生じる>
(1)意志決定が、「・・・すべきだ」という判断に基づいているとき
・我々が、U1「・・・べきだ」と判断するときには、その背後には、法則がある はずである。
この法則は、「・・・ならば・・・すべきだ」という形式をとるだろう。
・この法則をいまR1とすると、U2「R1を採用すべきだ」と判断するのでなければ、我々は、
R1の適用結果としての、U1を主張することは、できないだろう。
・上の二つが言えるならば、U2を主張するときには、その背後に法則があることになる。
これは無限に反復する。
(2)意志決定が、不決定の決定であるとき。
・我々が、意志決定をするとき、AとBとの選択で、Aを選択するときに、それがまったく同じ条件であるにもかかららず、一方を偶然的に選択したのだとすれば、そのような偶然的な選択の背後には、選択しないことよりどちらにしろ選択した方がよいという判断があるはずである。つまり、「・・・べきだ」という判断である。そうすると、上と同じ無限反復が生じる。
「ここから何が帰結するのか?」
ここから帰結するのは、「テーゼ1からは事実を説明することが不可能である」ということである。そうすると、そこから帰結するのは、次のどれかである。
a、テーゼ1は、間違っている
b、テーゼ1は正しいが、事実を説明するには、それに何かを加えなければならない。
c、テーゼ1は正しいが、現実に意志決定と思われているものは、我々がテーゼ1で想定
したような、意志決定とは別のものである。
注:規則の<適用のアポリアと採用のアポリア>
ある行為をある格律にしたがって選択するとき、格律は、行為の選択の根拠ないし理由になっている、といえるだろう。上のアポリアは、行為の根拠の根拠の根拠・・・を遡ってゆくこと、あるいは、行為の理由の理由の理由・・・を遡ってゆくこと、であるといえるだろう。
このアポリアは、規則に関するもう一つのアポリアと類似している。それは、規則の適用のアポリアである。規則を適用する時に、適用の規則が必要であるとすると、その適用の規則を適用するのに、またメタレベルの規則が必要になる。
規則の適用の規則の適用の規則の適用の規則の・・・というようにこれもまた無限に反復する。
このような規則の適用のアポリアについては、『第一批判』の中に指摘がある。
「一般論理学は、判断力のための規則を含み得ない。なぜなら、一般論理
学は、認識のあらゆる内容を捨象してて、形式だけを扱うからである。
・・・もし、一般論理学が、規則の下に包摂する仕方を一般的に示そう
とすると、これは、ある規則によって以外にはおこりえない。しかし、
この規則はさらに新たに、判断力の教示を必要とする。」(A132f=B171f)
「悟性は、教えたり規則を備える事ができるが、判断力は、教えることが
できず、ただ練習だけが求められる特殊な才能である。」(A133=B172)
では、「どのようにして規則の適用を練習するのか」といえば、「事例」Beispielによってである(Vgl.ibid.)。 これは、ウィトゲンシュタインやクワインが指摘した「規約主義のパラドクス」と同じ問題である。
§3 後期シェリングにおける<解決>
//////////////////////『ドイツ観念論を学ぶ人のために』のための原稿から
<後期の自由論> 『私の哲学体系の叙述』(Darstellung
meines Systems der Philosopie, 1801)で同一哲学を展開して以来、F.シュレーゲルやF.ケッペンによって、シェリング哲学は汎神論であり、それゆえに宿命論であり、ニヒリズムである、と非難されていた。シェリングはそうした批判へに答えようとして『人間的自由の本質 およびそれと関連する諸対象に関する、哲学的諸研究』(Philosophische
Untersuchungen {ber das Wesen der menschlichen Freiheit und die damit zusammenh{ngenden
Gegenst{nde, 1809)を書いた、と言われている。
まず彼は、実在論と観念論の相互浸透ないし統合としての「真の汎神論」を主張する。つまり、一方で、決定論であり実在論であるスピノザの汎神論を、真の汎神論ではない批判し、他方で、フィヒテの主観的観念論を退け、その自由概念を批判した。
<選択の自由の批判> シェリングは、フィヒテのいう選択意志の自由をつぎのようにとらえる。「通常の概念にしたがえば、自由とは、二つの矛盾的に対立するもののうちの一つのあるいは他を、何の規定根拠もなしに、全くただそれが意欲されるから、意欲するのだ、というような具合の、完全に無規定的な能力の内にあるものとされているのである。」(中央公論社『世界の名著』渡辺二郎訳、456頁)このような自由観を、シェリングは、スピノザと同様に、「規定根拠を知らないということから、その規定根拠が存在しないということを(誤って)推論している」(同書、457頁)と批判する。さらに、偶然の存在を否定して、「偶然というのは、ありえなことであり、理性にもまた全体の必然的統一にも、矛盾することである」(同書、457-8頁)と言う。
かりに、偶然があり、自由というのが、全く偶然の選択なのだとしても、我々は、そのような偶然の選択の結果に対して、善悪の責任を問うことはできないだろう。
<内的必然性としての自由> シェリングは、選択意志の自由を主張する観念論と、決定論を主張する実在論を統合する真の汎神論という立場から、「英知的存在者の内的本性から発する絶対的必然性としての自由」を主張する。「行為というものは、英知的存在者の内奥から、ただ、同一性の法則にしたがって、また絶対的な必然性をともなってのみ、生じてくることができるのであって、このような絶対的必然性のみが、また絶対的自由でもあるのである。」(同書、459-460頁)しかも、この自由な決定は、時間の外にあるとされる。「人間の生が時間の内で規定されるゆえんの所業は、それ自身は、時間に属さず、永遠に属する。つまり、その所業は、時間上でも生に先行するのではなく、時間を貫き通して、本性上永遠的な所業として、生に先行する。」(同書、461頁)
このような議論は、現代の我々からみるならば、あまりにも不十分な論証にもとづく乱暴な議論であるが、選択の自由を否定するとき、そこからする<内的必然性=自由>という発想の道筋は、重要な論点を含んでいるといわざるをえない。ただしシェリングは、何を内的必然性と見なすかという手だてとして、「信仰」しか示していない。
<根源悪> 後期シェリングは、フィヒテよりもむしろカントを高く評価している。シェリングは、怠惰を根源悪とみるフィヒテの思想を、世間の博愛主義に影響されたものとして批判し、むしろ、カントの『宗教論』(Die
Religion innerhalb der Grenzen der blo@en Vernunft, 1793)における根源悪の思想を高く評価している。つまり、カントとバーダーにみられる「悪とは、諸原理の積極的な転倒もしくは逆転に基づくものである」という考え方を採用するのである。カントでは、悪とは、自分の格律の選択において、道徳法則ではなくて、他の法則を優先させるという転倒である。シェリングでは、悪とは、人間が自分の自我性(我意)を全意志にまで高めて、精神的なものをそれの手段にしようとする転倒である。
カントは、『純粋理性批判』の第三アンチノミー論において、人間が自由であるかどうかについて、従来よりも明確な議論を提示したが、そこでは道徳とは無関係に自由について論じられた、シェリングは、自由の定義や可能性を考察するときに、つねに善悪の可能性と関係づけて論じており、そのことによってカントの『宗教論』をより深めることに成功している。
/////////////////////////////////////////////////////////ここまで
注1:カント年譜
1724年 4月22日生まれ。東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現在ロ
シア共和国内カリーニングラード)で生まれる。
父は、馬の革具職人、三人の妹は、職人と結婚。一人の弟は、牧師。
1737年、母死亡。
1740年、ケーニヒスベルク大学入学
1746年、父死亡。
1747年、『活力測定考』を出版。学生生活をおえ、これより1754年まで
家庭教師時代。
1755年、ケーニヒスベルク大学私講師。
1764年、『美と崇高の感情に関する観察』
1766年、『視霊者の夢』
1768年、『空間の方位区別の第一根拠について』
1770年、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学の正教授に任命。就任論
文『可感界と可想界の形式と原理』
1781年、『純粋理性批判』初版
1783年、『プロレゴメナ』
1784年、『世界市民的見地での一般歴史考』
1785年、『道徳形而上学の基礎』
1786年、『自然科学の形而上学的原理』
1787年、『純粋理性批判』第二版
1788年、『実践理性批判』(1787末に公刊)
1790年、『判断力批判』
1793年、『単なる理性の限界内における宗教』
1795年、『永久平和論』
1797年、『法論の形而上学原理』
1797年、『徳論の形而上学的原理』
1799年、「フィヒテに関する声明」
1804年2月12日、老衰により死亡