第三回 講義ノート (工事中)
 



§4 カントの自由論についての補足説明

           <<第一批判より>>

<超越論的自由と実践的自由>
「超越論的自由」:
@自然現象を説明しようとすると、原因の原因の原因の・・・と無限遡行することになるので、「自然法則とは異なる別の因果性が想定されねばならない。かかる因果性は、何かあるものを生起せしめるけれども、しかしこの生起の原因はもはやそれよりも前にある原因によって、必然的自然法則に従って規定されることがない、――換言すれば、かかる因果性は原因の絶対的自発性であり、自然法則に従って進行する現象の系列を自らはじめるところのものである。従ってそれは超越論的自由である」(A446=B474)
A「超越論的自由は、因果法則Kausalgesetzに反する」(A446=B474)
B「我々は、およそ生起するものに関して二通りの因果性しか思いみることができない。すなわち自然による因果性か、それとも自由による因果性か、二つのうちのいずれかである。」(A532=B560)
「私が宇宙論的意味において自由と言うのは、ある状態を自らはじめる能力のことである。従って自由の因果性は、自然法則にしたがってこの因果性を時間的に規定するような別の原因にもはや支配されることがない、この意味において自由は純粋な超越論的理念である。」(A532=B561)

 「超越論的自由」が「超越論的」であるのは、自然の因果性は、原因の原因を遡って無限に遡行するので、自然の全体を説明することができない。そこで、最初の原因には、「絶対的自発性」を祖打てせざるを得ない。この絶対的自発性によって、現象界が可能になるのだから、この自発性=自由は、「超越論的」と呼ばれるのである。 

「実践的自由」:
@「自由の実践的概念は、自由の超越論的理念にもとづいている。・・・・・・実践的意味における自由とは、選択意志Willk{rが感性の衝動による強制N{tigungに関わりがないということである。選択意志は、受動的にpathologisch(感性という動因によって)触発されるaffiziert限りでは、感性的sinnlichであり、また選択意志が受動的に強制されるnecessitiertうる場合には、動物的と呼ばれる。ところで、人間の選択意志は、なるほど感性的意志ではあるが、しかし動物的意志ではなくて自由な意志である、というのは、感性が行為を必然的に作り出すのではなくて、感性的衝動の強制から独立して、みずから自分自身を規定するという能力が人間にはそなわっているからである。」(A534=B562)
A「もし感覚界における因果性がまったく自然的な因果性だけだとしたら、どんな出来事も他の出来事によって、時間において必然的(自然)法則に従って規定されるだろう、――このことは極めて明白である。従って現象が意志を規定する限り、現象は意志から生じる自然的結果としての行為をすべて自然必然的なものとせざるをえないから、超越論的自由の不成立は同時に一切の実践的自由を滅却するにいたるであろう。」(A534=B562)
 

<主観の二つの性格:経験的性格と可想的性格>
「可想的原因intelligible Ursacheとその因果性とは、現象の系列のそとにある。しかしこの可想的原因から生じた結果は、経験的条件の系列のうちにある。したがってかかる結果は、その可想的原因にかんしては自由であると見なされ得るが、しかしそれと同時に現象に関しては、自然必然性に従って現象から生じた結果と見なされるのである。」
(A537=B565)

「現象は、それ自体、物ではないから、現象を単なる表象として規定するためには、現象の根底に先験的対象が存在しなければならない。してみると、我々が、この超越論的対象に、現象として現れるという性質の他に、一種の因果性――つまりその結果は現象の内に見いだされるにせよ、それ自身は現象ではないような因果性を認めたところですこしも差し支えないわけである。しかし、およそ作用原因は、性格Charakterをもっていなければならない――なおここで性格というのは、原因の因果性の法則のことである、この法則がないと、原因はまったく原因でなくなってしまうだろう。そこで我々は、感性界の主観に、経験的性格をみとめることにしよう。・・・また、第二に、我々は、この同じ主観に可想的性格を認めねばならないだろう。」(A539=B567)

「かかる主観が可想的存在者であるかぎりこの主観においてはなにものも生起しないし、また力学的な時間規定を必要とするいかなる変化も、したがってまた原因としての現象とのいかなる結びつきも見いだされないから、かかる行為的存在者は、一切の自然必然性にまったく関わりがなく、これによって束縛されることはないであろう。」(A541=B569)

「このようにして自由と自然とは実に同一の行為について、我々がその行為を可想的原因と比較するか、それとも感性的原因と比較するかに応じて、自由あるいは自然という語の完全な意味において、同時にまたいささかも矛盾することなく両立することになるだろう。」(A541=B569)

・「可想的性格」という以上は、可想的原因もまた法則をもつということである。
可想的原因は、自然因果性から自由であるが、それ自体は法則をもつ。ちなみに、『宗教論』には、「法則がいっさいなくて作用する原因を考えるのは、自己矛盾である」訳56という発言がある。

・可想界で行われる意志決定を、我々は認識することはできない。このことは、『道徳形而上学の基礎付け』の次の発言と結びついている。
 「我々がどんなに厳格に自己吟味を行っても、ある善い行為とそれに伴う大きな犠牲との動機となりえたほどに有力な根拠は、義務という道徳適根拠以外にまったくみあたらない、というような場合がときどきはたしかにあるけれども、だからといって、自愛に基づくかくれた衝動がかの理念の単なる見せかけの下に意志の本当の限定原因となることは実際なかったのだと、確実に結論するわけにはいかない。・・・隠れた動機の底まで見通すことは決してできないのである」訳249
 「われわれはしかし、この場合いかなる実例についても、意志が他の動機無しに法則によってのみ限定せられていることを、たとえそう見えはしても、確実に示すことはできないのである。・・・経験の教えるところはわれわれが一つの原因をただ知覚しないということだけである場合に、そういう経験をもとにしてその原因の非存在を証明することなど誰に出来ようか。」(A49)(264)

         <<『宗教論』から>>
                   理想社版『カント全集』第9巻
「善もしくは悪の心術を生得的性質として生来所有しているということは、この場合もまた、その心術が決してそれを、内に抱く人間によって獲得されたのではない、つまり人間がその創始者ではない、ということを意味しはしない。そうではなくて、このことはただ、その心術が時間のうちで獲得されたのではない、(人間は幼児からずっと善か悪かである)、ということを意味するにすぎない。心術、すなわち格律採用の最初の主観的根拠は、ただ一つのものでしかありえず、そしてそれは自由使用全体に普遍的に関係する。しかし、心術そのものは、自由な選択意志によっても採用されているのでなければならない。さもなければこの心術に責任が帰せられることはできないであろう。この採用について、さらにその主観的根拠ないしは原因が認知されることは不可能である。(それを問うことは不可避であるにしても。認知されないというのは、もし認知されるとすれば、この心術がそのうちに採用されたある格律がこれまた挙げられねばならず、その格律が同様にしてこれまたその根拠をもたねばならないことになろうからである。かくして、我々はこの心術を、あるいはむしろこの心術の最高の根拠を、選択意志の何かある最初の時間活動から導出することができないので、われわれはこの心術を選択意志に生来属する性質(この心術は、実際は自由のうちにその基礎をもつのであるが)と呼ぶのである。」(A25)(訳42)

 ここに§1に述べたアポリアの露呈と、苦し紛れの<解決>が読める。

§5 カントの自由論のもう一つのアポリア <意志の自由とはなにか?>

 まず、意志の定義を確認しよう。

          <<『基礎づけ』から>>
            "Grundlegung zur Metaphysik der Sitten"(1785
          『人倫の形而上学の基礎づけ』野田又夫訳 中央公論社

<意志の定義>
「自然のすべての物は法則にしたがって作用する。ただ理性的存在者vern{nftiges Wesenのみが、法則の表象に従ってすなわち原理に従って行為する能力、言い換えれば、意志Willeを持つ。ところで法則から行為を導き出すためには、理性が要求される故、意志とは実践理性に他ならない。もし理性が意志を不可避的にきていするのならば、そのような存在者の客観的に必然的なものとして認識される行為は、また主観的にも必然的である。つまり、意志とは、理性が傾向Neigungからは独立に、実践的に必然的なものとして、つま善いものとして認識するものだけを選択するw{hlen能力であるということになる。」(A36)(255)
「しかし、もし理性がそれだけでは意志を充分に限定せず、意志は理性以外になお主観的条件(一定の動機Triebfeder)にも従っており、かつこの主観的条件は必ずしも客観的条件と一致しないとすれば、すなわち一言で言って、意志はそれ自体では必ずしも完全には理性に従わないとすれば(人間ではまさにそうである)、客観的に必然的と認めれらる行為が主観的には偶然的であることになり、客観的法則に従ってそういう意志を規定することは強制N{tigungである。・・・ 
 客観的原理の表象は、それが意志にとって強制的なものである限りで、命令Gebotと呼ばれる。命令の形式は、命法Imperativである。」(A37)(256)

 我々は、
    「意志は、理性が傾向からは独立に、実践的に必然的と認めるものすなわち善と認め     るものをのみ選ぶ能力である」
と定義することはできない。なぜなら、人間の意志は、「必ずしも完全には理性に従わない」からである。そこで、意志については、
    「法則の表象に従って、すなわち原理にしたがって、行為する能力」
であると定義できるだけである。ところで、この能力は、法則から行為を導出する能力(理性)を含んでいなければならないだろう。そうだとすると、この定義の「意志」は「理性」を含んでいることになる。
 しかし、このような理解は、意志と理性を区別している記述と矛盾している。つまり、ここでの<意志の定義>は、自己矛盾していると言わざるをえない。

             <<『第二批判』より>>
<理性→意志→行為>
「理性の実践的使用において、理性が関係するのは、意志の規定根拠である。
意志Willeは、表象に対応する対象を産出する能力であるか、さもなければかかる対象を産出するように自分自身を規定する能力、すなわち意志の因果性を規定する能力であるか、二つのうちのいずれかである。この場合に理性は、少なくとも意志を規定するに足りるし、また意欲Wollenだけに関する限りでは、常に客観的実在性をもつからである。」(A29)

意志は、次の二つのうちのいずれかである。
  @表象に対応する対象を産出する能力である
  Aかかる対象を産出するように自分自身を規定する能力
   すなわち意志の因果性を規定する能力である
ここでのAは、対象が産出できないときには、意志は「対象を産出しようとする能力」として理解できるという意味であろう。このAは、「どの表象に対応する対象を産出するかを決定する能力」という意味ではないだろうと思われる。
 ここでは、<理性が意志を規定し、意志が行為を規定する>、つまり<理性→ 意志→行為>というように考えられているように読める。

          <<道徳形而上学>>
「欲求能力Begehrungsverm{genとは、表象を通じて、この表象の対象であるものの原因となる能力である。ある存在者が、自己の表象に従って行為しうる能力は生Lebenと呼ばれる。」(A1)(332)
「快が原因として必然的にそれより前に先行していなければならないような欲求能力の規定が、狭義における欲望Begierdeであり、習性的な欲望は、傾向性Nei-gungと呼ばれる。」(A3)(333)
「概念に従う欲求能力は、これを規定して行為にいたらせる根拠がそれ自身の中にあって、客体の中にはないかぎりにおいて、任意に振る舞う能力 Verm{gen,
nach Belieben zu tun oder zu lassen と呼ばれる。その行為によって客体を産出することができるという意識と結びついている限りにおいて、こうした欲求能力は、選択意志Willk{rと呼ばれる。しかし、もしそうした結びつきが無い場合には、こうした欲求能力の働きは、願望Wunschと呼ばれる。ある欲求能力の内的規定根拠が、したがってまた任意性それ自体が主体の理性の中に見いだされる場合、その欲求能力は、意志Willeと呼ばれる。だから、意志は、行為との関係においてみられた欲求能力であるというよりは、むしろ選択意志を行為へと規定するその規定根拠との関係において見られた欲求能力である。そして、意志はそれ自体としては、本来何等の規定根拠ももたないのであって、それが選択意志を規定しうるかぎりにおいて、実践理性そのものなのである。
 意志のもとには、理性が欲求能力を規定しうるかぎりで、選択意志と単なる願望が含まれうる。」(A5)(334)

ここでの定義では、
 「意志とは、理性が欲求能力を規定しうる限りでの、選択意志と願望である」

この後に、第一批判と同じ様な記述がつづく。
「理性が欲求能力一般を規定しうる限りで、意志のもとには選択意志だけでなく単なる願望もまた包括されうる。選択意志は、それが純粋理性によって規定され得る場合には、自由な選択意志とよばれる。単に傾向性によってだけ規定されているような選択意志は、動物的選択意志であろうだろう。これに反して、人間的選択意志は、次のようなものである。すなわち、なるほどそれは衝動によって触発されはするが、しかし規定されることのないものである」334
「選択意志の自由とは、上のように感性的衝動による規定から独立であるということであるが、これは自由の消極的概念である。積極的概念としては、自分自身だけで実践的でありうるという純粋理性の能力である。」335

 <理性→意志→行為>という系列において、「意志の自由」というときには、意志と行為の関係が考えられているのではない。意志が行為を規定するときの、規定が自由なのではないだろう。意志と行為の関係は、おそらく因果関係で考えられている。
 ここでは、理性による意志決定について「自由」が語られているのであろう。

 理性はあるときには、意志を決定するが、つねに規定するのではない。この時には、傾向性によって規定されているのであろうか。そうではない。傾向性によって規定されているのであれば、そこには自由もなく、また責任もなく、また悪もない。この時には、傾向性によって触発されているのである。しかし、触発は規定とはことなる。では、この時には、意志を決定しているのは何なのか。理性でも、感性でもない。また、意志でもない。なぜなら、「意志の中には、規定根拠がない」とカントは述べているからである。

 次の例を考えてみよう。
 私は、ミートスパゲッティをつくるか、タラコスパゲッティをつくるか、しばらく迷ったのちに、タラコスパゲッティをつくることに決めた。そして、15分後にイメージ通りのタラコスパゲッティをつくり上げた。

 ここでの意志は、「タラコスパゲッティ」の表象に対応する対象を産出する能力である。意志の自由とは、<タラコスパゲッティをつくることに決めた>という出来事が、自然因果性によって決定されていない、ということである。この意志決定が結果であり、それが何らかの原因によって生じ、その原因の因果性の法則が、格律であるとすると、原因は、理性ではなくて、状況認識であることになる。
 理性は、(上に引用したように)「法則から行為を導出する」、つまり格律(主観的原理)にしたがって、意志(意志が実現すべき表象)を決定する。この導出は、つぎの実践的三段論法になる。
       格律(「もっと幸せを」)
       状況判断(タラコの香りと味の記憶)
      「タラコスパゲッティをつくろう」
 カバー法則モデルに対応させて、格律が法則であるとすれば、結論(意志)の原因となるのは、状況判断である。しかし、この法則は、自然法則のように機能しているのではない。
 ここでは、タラコの香りと味が、意志決定の原因だろうか。それが原因となりうるためには、格律が必要であった。触発するものは、原因というよりもむしろ誘因と呼ぶべきではないだろうか。

 感性が意志を触発するとはどういう意味だろうか。
  @ある格律を採用するときに、感性は我々をある行為へと<触発>するのだろうか。
  A感性が、我々をある格律の採用へと<触発>するのだろうか。
    Bタラコスパゲッティが、ミートスパゲッティと比較して意志をより多く触したのだろうか。

次の場合には、どうだろうか。
       格律(「もっとスマートに」)
       状況判断(二つのスパゲッティのカロリーの判定と比較)
      「タラコスパゲッティをつくろう」