では、狭い意味の自由には、問題がないのだろうか。次にそれを検討しよう。
§6 定言命法の採用根拠をめぐって
<定言的命法>
『基礎付け』にある定言命法の5つの方式は、次の通りである。
@ "handle nur nach derjenigen Maxime, durch
die du zugleich wollen kannst, da@ sie ein allgemeines Gesetz
werde."
「汝の格律が普遍的法則となることを汝が同時にその格律によって意志しうる場合に のみ、その格律に従って行為せよ」A52
さてこの唯一の命法を原理としてそこから、義務の命法のすべてが導き出されうる 。」(265)
A "handle so, als
ob die Maxime deiner Handlung durch deinen Willen zum
allgemeinen Naturgesetze werden sollte."
「汝の行為の格律を汝の意志によって普遍的自然法則とならしめよう
とするかのように行為せよ」(A52)(266)
B "Handle so, da@ du
die Menschheit, sowohl in deiner Person, als
in
der Person eines jeden andern, jederzeit zugleich als Zweck,
niemals blo@
als Mitte brauchest."
「汝の人格の中にも他の全ての人の人格の中にもある人間性を、汝がい
つも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、と
いうようなふうに行為せよ」(A67)(274)
C "da@ der Wille durch
seine Maxime sich selbst zugleich als
allgemein gesetzgebend betrachten k{nne."
「意志がその格律によって自己自身を同時に普遍的立法者ともみなし得
るような仕方でのみ行為すること」(A76)(280)
D "Demnach mu@ ein
jedes vern{nftige Wesen so handeln, als ob es
durch seine Maximen jederzeit ein gesetzgebendes Glied im
allgemeinen Reiche der Zwecke w{re."
「すべての理性的存在者は、みずからが、その格律によって常に、普
遍的な目的の国の立法者であるかの如くに、行為せねばならない。」
(A83)(284)
次に、定言命法がどのようにして、証明されているのかを確認しておこう。
<『基礎付け』での定言命法の証明>
証明のプロセスはつぎのように整理できる。
(1)道徳法則は、普遍性・必然性をもつべきである。ゆえに、道徳法則は、アプリオリに
純粋な実践的な理性から生まれるもの
「われわれが道徳の概念に対して、真理性をすなわち何等かの可能な対象への関係を、全く拒もうとするのでなければ、われわれは、道徳法則がきわめてひろい意味を持ち、単に人間に妥当するのみでなく、あらゆる理性的存在者一般に対し、しかも単に偶然的条件の下で例外をゆるしてではなくて、全く必然的に妥当せねばならぬ、ということを拒むわけにはゆかない。」(251)
「もしわれわれの意志を限定する法則が単に経験的なものであって、全くアプリオリに純粋なかつ実践的な理性から生まれたものでないのならば、そういう法則を、理性的存在者一般の意志を限定する法則――とみとめることが、どうして許されるのか。」訳251
(2)道徳法則は、命法となる。
「しかし、もし理性がそれだけでは意志を充分に限定せず、意志は理性以外になお主観的条件(一定の動機Triebfeder)にも従っており、かつこの主観的条件は必ずしも客観的条件と一致しないとすれば、すなわち一言で言って、意志はそれ自身では必ずしも全面的に理性に従わないとすれば(人間ではまさにそうである)、客観的に必然的と認めれらる行為が主観的には偶然的であることになり、客観的法則に従ってそういう意志を限定することは強制N{tigungである。・・・
客観的原理の表象は、それが意志にとって強制的なものである限りで、命令Gebotと呼ばれる。命令の形式は、命法Imperativである。」(A37)(256)
(3)定言命法のみが、実践的法則になりうる。
「全ての命法は、仮言的に命令するか、定言的に命令するかである」257
「仮言的命法は、行為が可能的または現実的な何らかの意図のために善であること、をのみ示すのである。そしてそれが可能的意図に関する第一の場合、命法は蓋然的な実践的原理であり、現実的意図に関する第二の場合、それは実然的な実践的原理である。しかし定言命法は、行為を、何らかの意図へ関係させることなしに、すなわち何か他の目的がなくとも、それだけで客観的必然的である、と告げるものであって、必然的な実践的原理と認められる。」(258)
{命法の区別を整理するとこうなる。
仮言命法 熟練の命法(仮言的) 分析的
利口の命法(実然的) 分析的
定言命法 道徳の命法(必然的) アプリオリで綜合的}
「定言的命法のみが実践的法則と呼ばれるのであり、他の命法はすべて意志の原理とはよばれても、法則とは呼ばれ得ない、ということである。なぜなら、ただ何らかの意図の達成のためにのみ必然的になさねばならぬことは、(そういう意図とは独立に)それ自体としては偶然と見られることができ、したがってわれわれがその意図を放棄すればいつでもその指図(命法)から自由になりうるが、これに反して、無条件な命法は、意志が勝手に反対のことをする自由を全くゆるさないのであって、したがってこの命法のみが、法則というものに当然要求される必然性を備えているのだからである。」264
(3)定言命法の内容は、必然的に・・・となる。
「私が定言的命法のことを考えるときには、それが何を内容として含むかを直ちに知るのである。なぜなら、定言的命法は、その内容として、法則の他には、格律がこの法則に合致せねばならぬという必然性をのみ含むのであり、かつ法則は何らかの条件に限られるものではなく、したがって法則はそういう条件を内容として含むことはないから、行為の格律が合致せねばならぬものとしては、法則一般のもつ普遍性しかなく、もともと定言的命法は、そういう普遍性との合致のみを、必然的なものとして示すのである。
それゆえ、定言命法はただひとつしかなく、それは次のごとくである。
汝の格律が普遍的法則となることを汝が同時にその格律によって意志
しうる場合にのみ、その格律に従って行為せよ」A52、訳265
<『第二批判』での証明>
定理1「欲求能力の客観(実質)を意志の規定根拠として前提するような実践的
原理は、すべて経験的原理であって、実践的法則にはなりえない。」52
定理2「およそ実質的な実践的原理は、がんらい実質的なものとして、すべて同
一種類に属し、自愛あるいは自分の幸福という普遍的原理のもとに総括
される。」54
定理3「理性的存在者が、彼の格律を普遍的な実践的法則とみなしてよいのは、
彼がその格律を、実質に関してでなく形式に関してのみ、意志の規定根
拠を含むような原理と見なし得る場合に限られる。」64
「純粋実践理性の根本法則」
「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するよ
うに行為せよ。」72
「この実践的規則は、無条件的であり、従ってまたアプリオリな定言的−実
践的命題と見なされるのである。」73
「我々は、このような根本的法則の意識を理性の事実と見なしてよい。その
理由は――我々はかかる根本法則を、理性に先立て与えられているものか
ら、例えば自由の意識から(しかし自由の意識は、我々に前もって与えら
れているのではない)勝手に作り出すことができないからというのではな
くて、この法則は如何なる純粋直観にも、まだいかなる経験的直観にも基
づかないアプリオリな綜合命題として、それ自体だけで我々に迫ってくる
からである。もし我々がここで意志の自由を前提するとしたら、この命題
は分析的命題になるであろう。しかもそうなると、積極的概念としての、
意志の自由を認めることになり、そのためには知性的直観を必要とするで
あろう。」74
系 「純粋理性は、それ自体だけで実践的であり、我々が道徳的法則となづけ
るような普遍的法則を(人間に)与える。」75
定理4「意志の自律は、一切の道徳的法則と、これらの法則に相応する義務との
唯一の原理である。これに反して意志の一切の他律は、責務にいささか
の根拠をも提供しないばかりでなく、むしろ責務の原理と意志の道徳性
とに背くものである。」78
以上からわかることは、カントの証明の出発点であると同時に中心点になっているのは、「実践的法則は、普遍的法則でなければならない」ということである。定言命法は、この出発点とほとんど同じことを述べているように思われる。つまり、カントの証明は、循環論証になっているように思われるのである。
この循環論証は、次の循環と関連しているようにおもわれる。
カントによれば、行為の格律の採用は、定言命法に従っていなければ、善い行為とはいえない。ところで、定言命法の採用もまた、意志決定であるとすれば、別の格律に基づいているはずである。しかし、その格律が、定言命法以外のものであるならば、その行為は、善い行為ではないことになる。つまり、善い意志が成立するためには、最終的な格律が、定言命法でなければならない。ということは、定言命法の採用の格律自体が、定言命法でなければならない。このような循環によってこそ、「善い意志」あるいは「意志の自由」が成立するのである。
この二つの循環がどのように関連しているのかは、ここでは論じない。
狭い意味の自由は、このような循環において成立するのである。これは、法則の採用が法則によっておこなわれ、その法則の採用もまた法則によっておこなわれ、・・・という無限反復が成立していること、つまり徹底的に法則に支配された状態である。カントにとって、自由=実践的法則、なのである。
このような状態を「自由」と呼ぶことには違和感を感じる。「道徳的」とよぶことにすら違和感を感じる。なぜなら、善が可能であるためには、悪の可能性が保証されていなければならないが、この状態では、悪の可能性が閉ざされているからである。
「カントが『実践理性批判』で提出した概念のすべて、たとえば、法則、強制、尊敬、義務といった概念のすべてが抑圧的である。自由からの原因性が自由を損なって、それを服従と化してしまうのである。
カントは、彼以後の観念論者と同様に、強制なき自由に耐えられない。そうした歪みの無い自由を考えるだけですでに、彼には無秩序の不安が生じてくる(後にこの不安に駆られて、ブルジョア的意識はおのれ自身の自由を清算した。)」
(アドルノ『否定弁証法』作品社、「第三部、いくつかのモデル T 自由
――実践理性批判へのメタ批判」282)
<カントの実践哲学の限界>
『基礎付け』後半の「あらゆる実践哲学の最後の限界について」という章で、カントは、次のように述べる。
「次の場合には理性はそのすべての限界を越えでることになるであろう。すなわち、いかにして純粋理性は実践的となりうるかを説明することを理性があえてする場合である。そしてこれは、いかにして自由が可能であるかを説明する課題と全く同じものなのである。」訳306
「英知界とは、感性界に属するすべてのものを、私の意志の決定根拠からのぞいたあとになお残っているところのあるもの、を意味するにすぎない。」310
「純粋な知性界の理念、すなわち我々自身が、理性的存在者として所属するところの、あらゆる知性の全体という理念は、あらゆる知識がその世界の入り口のところで終わるにしても、理性的信仰のために、どこまでも有用なかつ許された理念であることに変わりはないのであって、我々は目的それ自体の普遍的な国というこの壮大な理想によって、道徳法則に対する生き生きした関心を我々の内によびおこすことができるであろう。」311
カントは、人間には、自由がそもそもどうして可能なのか、を説明することはできない、という。これは、感性が選択意志を触発する、ということがどういうことなのかを説明できない、ということ、格律の採用の格律の採用の・・・という無限遡行がどのように解決されるのかが、説明できないということを意味するだろう。カントは、おそらくこのようなさまざまなアポリアがあることを予想しつつも、人間には答えられない問題とみなしていたのだとおもわれる。
§7 間奏
問い:「意志決定が自由であるとは、どういうことか?」
条件1、予定されていないこと
神によって、あるいは自然法則によって、我々の意志決定が、予め決定されているなら ば、我々の意志決定は、自由ではない。
<ただし>
これだけでは不十分である。神の決定が予定されておらず、神が自由に我々の意志決定を決定するとき、我々の意志決定は、予め決定されていないが、しかし自由ではない。また、自然の振る舞いが、たとえば量子力学の不確定性原理が主張するように、予め決定されていないとしても、自然の振る舞いによって、我々の意志決定が決定されているのならば、我々の意志決定は、予め決定されていないが、自由ではない。
条件2、意志決定が、意志以外のものによって、決定されていないこと
神や自然法則などの意志以外のものによって、我々の意志決定が、決定されているなら ば、我々の意志決定は、自由ではない。
<ただし>
これだけでは不十分である。我々の意志決定が、それ自体ある法則をもっていて、(落下する物体が万有引力の法則に従うように)その法則にしたがって意志決定が生じているのだとすると、我々の意志決定は、自由ではない。
(ただし、カントは、自由を実践法則に従うことと考えているので、この条
件1と2で充分なのだろう)
(かりに、ある種の法則に従うことを「自由」と呼ぶにしても、そのような
「自由」は、我々が普通に考えている「自由」ではない。)
条件3、意志決定が、規則性をもたないこと。
我々の意志決定が、事後的に見て、あるいは第三者の立場からみて、厳格な
規則性をもっているのならば、我々の意志決定は、自由ではない。
<ただし、>
これだけでは、不十分である。我々の意志決定に、まったく規則性がないとするとき、我々は、自分の意志決定に責任をもつことができない。
感想:我々は自由を重要なものと考えているが、しかし、それが何なのかを明確
に定義することが、むづかしい。
しかし、「自由」が曖昧であれば、「道徳」も「責任」も曖昧になる。