第六回   講義ノート



 

§8 これまでの議論をふりかえって

 先週は、風邪のために急きょ休講にしてすみませんでした。(哲学徒の呟き:病気のために与えた損害の責任は、病気になった者にあるのだろうか。病気になることは、意図的な行為ではない。病気にならないようにする注意義務を怠ったという責任だろうか。では、不可避の病気の場合ならば、責任はないことになる。)
 先々週は、番外編の授業をしました。暫く話が中断してしまいましたので、まず、これまでの議論を振り返って、もう一度まとめ直しておこうとおもいます。

 §1では、テーゼ「カントの「自律」の立場は、自己矛盾している」の証明を行いました。重要なのは、テーゼよりもこの証明です。カントの考えでは、「意志決定は、つねに何らかの格律(主観的な意志決定の規則)に基づいて行われる」ということでしたが、我々は、これをテーゼ1「我々が、意志決定をするときには、その背後に一般的な規則がある」と書き換えて、§2でその証明を行いました。そうすると、<意志決定のためには、格律が必要であり、その格律の採用の決定には、さらに別の格律が必要であり、・・・>という無限遡行が生じることになります。つまり、これでは、意志決定の成立が説明不可能になります。

 そうすると、「テーゼ1からは事実を説明することが不可能である」ということになり、ここから帰結するのは、次のどれかである、というところまで、問題を詰めました。
   a、テーゼ1は、間違っている
  b、テーゼ1は正しいが、事実を説明するには、それに何かを加えなければ    ならない。
  c、テーゼ1は正しいが、現実に意志決定と思われているものは、我々がテ    ーゼ1で想定したような、意志決定とは別のものである。

§3では、シェリングによる<内的必然性=自由>という解決を簡単に紹介しましたが、これは、カントによる<英知界の因果性=自由>という考えと非常に似たものになっています。§4は、§1の主張を文献的に再確認したものですが、それを通して、同時に、カントの自由論における「英知界」の重要性が明確になったと思います。結局は、自由の成立する領域としての「英知界」という概念が、後にフィヒテとシェリングでは、カントのいう「理性の限界」を越えて、展開されたのだ、といえるとおもいます。

§5では、<感性の傾向性による意志の触発>およびその際の意志の自由の意味を明確に規定しようとすると、カントの中では限界があることを確認しました。

 残された問題1「感性の傾向性による触発において、意志が自由であるとは、         どのような意味であるのか?」

§6では、定言命法の意味の確認と、テーゼ1の応用として、<善い意志が成立するためには、最終的な格律が、定言命法でなければならない。ということは、定言命法の採用の格律自体が、定言命法でなければならない>という結論を導出しました。§6の結論から気付くことは、§1のテーゼの証明は、不十分であったということです。格律の格律の・・・という無限遡行を回避する手段として、格律の自己適用という可能性が残っていました。これは、上のa,b,cの内のbになるでしょう。

 しかし、定言命法の自己適用ということを、カント自身が明言しているわけではありません。定言命法の採用の根拠に関する無限遡行の問題を解決する可能性としては、カントの内部では、次の二つが考えられます。
  @定言命法の自己適用
  A英知界のことは不可知である。
カントが明言しているのは、Aであって、おそらくはこれがカントの答になるだろうと思われます。

しかし、我々が、@とAのいずれを採用しても、英知界についての議論は、残りますから、次の問題が残ります。

  残された問題2「英知界における決定は、現象界における時間とどのように          関係するのか」

 例えば
     明智光秀が「敵は本能寺にあり」と決断するためには、信長による      「本能寺に移る」という意志決定とその実行という出来事が時間的に     先行していなければならない。
 英知界には、時間がないとすると、これらの意志決定や、出来事は、いかなる秩序をもっているのだろうか。その意志決定が合理的なものであるためには、英知界でもやはり、現象界で先行している意志決定や行為や出来事が、何らかの意味で先行しているのでなければならないのではないか。そして、この前後関係が、現象界での時間的前後関係と常に一致するのならば、英知界での前後関係も、時間関係であると見なしてよいのではないだろうか。さもなければ、「すべてが予定調和である」といわねばならないだろう。

<カントを離れて>
 テーゼ1から生じるアポリアを、我々が解決しようとすると、どうなるでしょうか。意志決定の格律を遡ぼろうとしても、現実には、我々は無限に遡行しないで、つぎのどれかになるでしょう。
  @ある命題に遡るが、それの根拠を特に考えたことはなく、また考えてもす   ぐには思いつかず、今までそのように考えてきた、という<思考の習慣>   に従って、そう考えていたという場合。
  Aある行為を行ったが、理由に基づいて意志決定したというよりは、余り考   えず、<行為の習慣>に従って、そうしたという場合。
  B決定という行為の格律が、<自然的な欲求>である場合。
  Cある命題に遡るが、それが決断によって絶対的なものとして選択されてい   る場合。
  Dある命題に遡るが、それが決断によって暫定的に選択されている場合。

@ABの場合には、行為の説明には成功しても、自由や道徳は成立しなくなります。CDの場合には、決断において何を採用するかについては根拠がなくても、決断しないよりも決断する方を選んだ尺度があるでしょう、あるいは決断せざるを得ないと考えた尺度があるのではないでしょうか。
 
 

 §9 フィヒテにおける道徳の超越論的論証

                      (フィヒテについての解説は、ここをご覧ください。)

 カントの道徳論は、道徳の存在を前提し、もし道徳が存在するとすれば、それはどのようなものでなければならないか、という問いに答えたものだといえる。
 これに対して、フィヒテの道徳論は、自己意識を前提し、もし自己意識が存在するとすれば、自己意識は、・・・という道徳原理を採用せざるをえない、というしかたで、道徳原理の証明を行っている。

 フィヒテは、道徳論についての体系的な書物を、二度書いている。『道徳論の体系』1798と『道徳論の体系』1812である。フィヒテの思想は、無神論論争を境にして、大きく変化する、と私は考える。この変化およびその原因については、後で述べることにして、ここでは、前期の道徳論を考察したい。

<『道徳論の体系』1798の「第一部、道徳の原理の演繹」の抜粋>
    (数字は、Fichtes Werke, hrsg. von I.H. Fichte, Bd.IV. の頁数
     訳文は、藤沢訳を参照、一部変更。)

---------------------------------------------------------------ここから
        第一部 道徳性の原理の演繹
          この演繹への序論13
 外的目的から全く独立した若干のことがらを行うという強制Zunoetigungが、人間の心の中に現れ、端的にただそれだけで、そのことが起こる。あるいは、外的目的から全く独立した若干のことがらを行わない強制Zunoetigungが、人間の心の中に現れ、端的にただそれだけで、そのことが中断される。人間が人間であるかぎりは、このような強制が人間に必然的に現れる限りで、この人間のこの性質は、道徳的あるいは人倫的本性とよばれる。13

 この根拠の叙述Darstellungは、それによって、何かが、最高の絶対的原理つまり、自我性の原理から導出され、それから必然的に帰結することとして証明されるのであるから、導出Ableitungないし演繹Deduktionである。14

§1 課題「自己自身をもっぱら自己自身として、すなわち我々自身ではないも      のすべてから切り離されたものとして、思考すること。」18

解決(1)定理「私は私自身を、私自身として見いだす。もっぱら欲するものと        して見いだす」
証明
証明は次のように遂行することができる。
  自我の特徴は、行為するものとそれに対して行為がなされるものとが一にし  て同じである、ということである。22
さて、思考されるもの、つまり客観的なものは、もっぱらそれだけで思考からま  ったく独立に、自我であるべきであり、また自我であると承認されるべきで  ある。というのも、それは自我として見いだされるはずだからである。22
ゆえに、思考されるものなかには、行為するものと行為されるものとの同一性が   生じなければならない。それは、自己自身による自己自身の実在的自己規定で   ある。これは、意欲das Wollen である。
   したがって、<私が私を意欲するものとして見いだす限りで、私は私を見いだ  す>そして<私は私を見いだすかぎりにおいて、私は私を必然的に意欲するも  のとして見いだす>。22

(2)けれども、意欲そのものは、自我とは異なったものを前提にしてのみ考    えることが可能である。23
(3)したがって私は、私の本質を見いだすためには、意欲のなかに含まれるあ   の疎遠なものを捨象して考えねばならない。この捨象の後に残るものが私   の純粋な存在である。24

結論「自我の本質的な特徴、すなわち自我をそれの外なるすべてのものから区別するゆえんのものは、自発性Selbsttaetigkeitのための自発性への傾向Tendenzの内に存する。そしてこの傾向は、自我がそれの外なる何ものかへの関係などいっさいなしに、それ自体としてそれだけで思考される場合に、思考されるものなのである。」

§2
  課題「自分の根源的存在の意識をはっきり意識すること」

「要請(Postulat)にしたがって、自我がかの絶対的活動性への傾向を自己自身として直観するときに、自我は自己を、自由だとして、つまり単なる概念による因果性の能力として、措定する。」37

§3 
  課題「自我がいかなる仕方で絶対的自己活動への自分の傾向をそれとして      意識するかをみること」

(1)「措定された傾向は、必然的に、衝動として、全自我に向かって自ずから    発現する。」40
 自我性は、主観的なものと客観的なものとの絶対的な同一性(存在と意識と、意識を存在と絶対的に合一すること)から成り立つ、と言われる。主観的なものでもなく、客観的なものでもなく、同一性が自我の本質なのである。42
 この同一性という概念は、思考の課題として記述することができるだけであって、決して思考することのできないものである。この概念は、我々の研究における空所を暗示している。42
 この全自我は、主観でもなく客観でもなく、主観ー客観(これは思考の空所以外のなにものをも意味しない)であるかぎりで、それ自身のうちに絶対的自発性への傾向を有している。42

(2)「通例であれば、衝動のこの発現から感情が帰結する、と期待されること    もできようが、今の場合は決してそうはいかない。」
 感情というのは、自我内の客観的なものが自我内の主観的なものに、つまり自我の存在が自我の意識に、単にかつ直接的に関係することである。感情能力が両者の本来的な合一点である。43

(3)「衝動の発現から必然的にある思想が帰結する」45
 導出された思想の内容を手短に記述するとつぎのようになるであろう。すなわち、我々は端的に概念によって意識的に、しかも絶対的自発性の概念にしたがって我々を記述すべきである、というように思考することを強いられている。49

             ――――――
厳密に言うと、我々の演繹は終了している。我々も承知しているように、演繹の元来の最終目的は、我々はある一定の仕方で活動すべきである、という思想を、理性一般の体系から必然的なものとして導き出すことにあり、理性的存在者なるものがそもそも想定されるのであれば、理性的存在者はこうした思想を思考するということも同時に想定される、ということを証明することにあった。49

       この演繹にしたがった人倫の原理の記述
 人倫の原理は、「知性はその自由を、自立性の概念にしたがって端的に例外なしに規定すべきである」という知性の必然的思想である。」59
 Das Prinzip der Sittlichkeit ist der notwendige Gedanke der Intelli-
genz, dass sie ihre Freiheit nach dem Begriffe der Selbststaendigkeit,
schlechthin ohne Ausname, bestimmen solle.

 ---------------------------------------------------------以上

 ここでは、「自己意識が存在する」(あるいは「自我が自己自身を措定する」)という事実判断から「・・・すべし」という価値判断(道徳原理)を導出するという論証が行われている。これにたいしては「自然主義的誤謬」だという批判ががなされるかもしれない。つまり、かりに知性が自由であり、自由でなければ知性ではありえないとしても、そのような事実から、自由である<べき>だ、という規範を導出することはできない、という批判である。
 しかし、フィヒテの論証は、もう少し巧みである。彼が指摘するのは、自己意識が成立しているときには、自由であるべきだと考えるということがつねに必然的に伴っているということである。つまり、我々は、このような規範を意識することなしには自己意識でありえず、我々が自己意識であるかぎりにおいて、我々は常に既にこのような規範を想定してしまっている、という議論である。
 ここで、道徳の原理は、自己意識が成立するための超越論的な条件として「演繹」されている。この「演繹」は、今日の表現で言えば、「超越論的論証」になっている。




注:フィヒテの年譜

1762年 5月19日 ザクセン侯国ラメナウで生まれる。
1774年 プフォルタ校(ギムナジウム)に入学
1780年 イエナ大学神学部に入学
1781年 ライプチヒ大学に転学
1788年 スイス、チューリッヒのオット家の家庭教師
1790年 ライプチヒでカント哲学を個人教授
1791年 カント訪問
1792年 『あらゆる啓示の批判の試み』出版
1793年 『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』と
      『これまで抑圧してきたヨーロッパの諸君主からの思想の自由の返還要求』を匿名       出版
            ヨアンナ=ラーン(詩人クロプシュトックの義弟の娘)と結婚
1794年 イエナ大学に助教授として赴任。
            『学者の使命に関する講義』と『全知識学の基礎』を出版
1796年 『自然法の基礎』出版
1797年 雑誌論文「知識学への第一序論」「知識学への第二序論」
1798年 『道徳論の体系』
            論文「神的世界支配に対する我々の信仰の根拠について」
1799年 イエナ大学を辞職。7月ベルリンに赴く。
1800年 『人間の使命』『封鎖商業国家』出版
1801年 『知識学の叙述』(生前未公刊)
1802年 シェリングからの手紙で断絶
1804年 私的講義『現代の諸特徴』(1806出版)
1805年 エアランゲン大学教授に就任。
      公開講義『学者の本質について』(1806出版)
1806年 『浄福な生への指教』出版
      10.18ケーニヒスベルクへ非難
1807年 ケーニヒスベルク大学教授となるも講義せず。
      8月ベルリンに帰る。ベルリン大学解説に関して建白書提出。
      12月より翌年3月まで、『ドイツ国民につぐ』を講演(1808年出版)
1810年 『知識学、その一般的な輪郭の叙述』出版
      ベルリン大学教授に就任。哲学部長に任命。
1811年 学長に選出される。       
1814年 チフスの兵士の看護で感染した夫人の看護で感染して1月27日死亡

 



注: フィヒテの著作リスト
     『あらゆる啓示の批判の試み』1792
     『フランス革命に対する公衆の判断を是正するための寄与』1793
     『思想の自由の返還要求』1793
『知識学の概念について』初版1794,第二版1798
『全知識学の基礎』初版1794、第二版1802
           「学者の使命に関する講義」1794
『知識学に固有なものの要綱』初版1795、第二版1802
「知識学の第一序論」1797『哲学雑誌』
「知識学の第二序論」1797『哲学雑誌』
「知識学の新しい叙述の試み」1797『哲学雑誌』
     『自然法の基礎』前編1796.後編97
     『道徳論の体系』1798
     「神的世界支配についての我々の信仰の根拠について」1798
「あたらしい方法による知識学」1798『哲学雑誌』

 <無神論論争>
          『封鎖商業国家論』1800
     『人間の使命』1800
「知識学の叙述」1801
「知識学」1804
          「現代の諸特徴」1804
     「学者の本質について」1805
     『浄福な生への指教』1806
     『ドイツ国民に告ぐ』(講演1807、出版1808)
「意識の事実」1810
「知識学概略」1810
     「学者の使命に関する講義」1811
「知識学」1812
「哲学あるいは超越論的論理学に対する論理学の関係について」1812
     「法論の体系」1812
     「道徳論の体系」1812     
「知識学への入門講義」1813
「知識学」1813
「意識の事実」1813
     「国家論」1813

フィヒテは、知識学とその応用(法論、道徳論、宗教論)を何度も書き直している。