第八回 講義



 

       §10 フィヒテにおける自己意識の構造

ここでは、§9での証明を吟味するために、自己意識について検討しよう。

(1)ヘンリッヒの自己意識論
          (『フィヒテの根源的洞察』法政大学出版局)

 ヘンリッヒは、『フィヒテの根源的洞察』という論文で、デカルトからカントまでの自己意識の理論を「自我の反省理論」と名付けて批判している。彼によると「自我の反省理論」は、第一に、思惟の主体を想定し、この主体が自己自身と絶えず関係している点を強調する。第二に、自己自身との関係において、主体が自己自身を対象とし、もともとは自己以外の対象に向けられている表象作用を自己自身の内に振り向けていること、つまり、唯一、主体だけが活動性と活動性の

 ヘンリッヒは、『フィヒテの根源的洞察』という論文で、デカルトからカントまでの自己意識の理論を「自我の反省理論」と名付けて批判している。
彼によると「自我の反省理論」は、
第一に、思惟の主体を想定し、この主体が自己自身と絶えず関係している点を強調する。
第二に、自己自身との関係において、主体が自己自身を対象とし、もともとは自己以外の対象に向けられている表象作用を自己自身の内に振り向けていること、つまり、唯一、主体だけが活動性と活動性の成果との同一性を実現するということ、これが第二点である。

 このような「自我の反省理論」に対して、ヘンリッヒは次の2つの異論を提起する。
第一の異論は、先に述べた第一点への批判である。「自我の反省理論は、反省の作用が遂行される以前に、不当にも自我全体を前提してしまっているが、しかし、自我が成立するのはこの反省の作用によってである」という異論である。
第二の異論は、先に述べた第二点の批判となる。「自分自身を把握したということを、自己意識は一体どのようにして知ることができるのだろうか。明らかにそれが可能なのは、自己意識が前もって既に自分について知っている場合だけである。こうして、反省理論は、またも論点先取の虚偽に終ってしまうことになる。」という異論である。仮に、自我が自分自身を対象にしているとしても、予め自分がどの様なものであるかを知っていなければ、当の対象が自分自身であることを知ることは出来ない、という批判である。

 ヘンリッヒの解釈によれば、第一の異論はフィヒテ自身が立てたものであるのに対して、第二の異論は、フィヒテ自身が自覚して取り上げてはいないが、しかし彼の理論の中にこの異論が呈示する問題の解決を見いだすことが出来るものである。ただし、「フィヒテの発見」という論文では、二つともフィヒテ自身が考えていたとヘンリッヒは述べている。私も後に述べるように第二の異論もフィヒテ自身が自覚していたと考える。

 ヘンリッヒによると『全知識学の基礎』(1794)での自我の定式「自我は、端的に自己を措定する」という定式に表現されている「事行」の概念が、先に述べた第一の異論を自覚しそれを克服しようとしたものである。
 そして、『知識学の新しい叙述の試み』(1797)での定式「自我は自分を、<自分を措定するもの>として措定する」という定式は、自我が自分に付いての知をもっているということを明らかにしている点で、先の定式に比べて優れており、これによって第二の異論が克服されると考える。そして、この第二の定式が、『新しい方法による知識学』(1798/99)でも踏襲されていると述べている。

<「自我は端的に自己を措定する。」『全知識学の基礎』1794>
反省理論は自我主体から出発するが、フィヒテはこの定式によって、「自我ー主体は自己意識に先行するのではなく、むしろ主体もまた、自我=自我という意識全体と同時に初めて現れてくる。」(72)という思想を述べており、「措定には、措定するものが先行しなければならない、という反論も根拠を持たない」(73)と

<「自我は自分を、<自分を措定するもの>として措定する。」『知識学の新しい叙述』1797>
この定式は、「措定という活動の結果が知であるという点に重点を置いている。」(81)「この定式は、<自我は自分が何であるかに関する知を所有している>ということを含意している。」(85)

 では、この<として>構造はいかにして可能なのだろうか。フィヒテが、これを説明するために持ち出すのが、他者論である。(ヘンリッヒ、ヤンケのフィヒテ理解に欠けているのは、この他者論の重要性の認識であり、その欠如のために、前期から後期への変化の説明が、説得力のないものにとどまっている。)
 

注:『全知識学の基礎』での自己意識

第一根本命題
Das Ich setzt urspruenglich schlechthin sein eignes Sein.
98
内容に関して制約された、第二の、根本命題
so gewi@ wird dem Ich schlechthin entgegengesetzt ein Nicht-Ich.104

形式に関して制約された、第三の、根本命題
Ich setze im Ich de, teilbaren Ich ein teilbares Nicht-Ich entgegen.
 110

第一定理(理論的根本命題)
Das Ich setzt das Nicht-Ich, als beschr{nkt durch das Ich.  125

第二定理(実践的根本命題)
das Ich setzt sich selbst, als beschr{nkt durch Nicht-Ich. 126