第七回講義


 
 

§11 他者の「促し」による自己意識の成立(<として>構造の成立)

 フィヒテは、『自然法の基礎』(1796)の第一章「法の概念の演繹」において、自己意識は、他者からの働きかけによって成立することを、次のように証明している。

----------------------------------------------------------抜粋/要約
                                               (数字は、PhB版の頁数)
            第一部 法概念の演繹

             §1 第一定理
 「第一定理、有限な理性的存在者は、自己に自由な作用性を帰属させることな  しには、自己自身を措定できない。」

                     証明
1、「理性的存在者が、自己を理性的存在者として措定すべきであるならば、
      理性的存在者は、その最終根拠が端的に理性的存在者のなかにあるあるよ   うな活動性を、自己に帰属させねばならない。
   (この二つは、交換命題であって、一方の語ることを他方も語っている)

 自己自身の内へ還帰する活動性一般(自我性、主体性)は、理性的存在者の性格である。
 有限な理性的存在者は、有限なものを反省する理性的存在者である。(この二概念は、交換概念である)

U 「世界直観における、理性的存在者の活動性は、理性的存在者としては措定   できない」
 なぜなら、この活動性は、その概念のために、直観する者へ還帰するのではなく、直観する者のそとにあり、直観するものに対置されるべきものへ還帰すべきだからである。(超越論哲学の立場からみれば、直観は、自己内に還帰する自我に他ならず、世界は、根源的制約において直観された自我に他ならない。)

V 「理性的存在者は、活動性を、それを制約するものである世界に対置することができる。対置することができるためには、世界を作り出さねばならない。
このような{世界を産出する}活動性が、自己意識の可能性の唯一の条件であるならば、また、自己意識が、理性的存在者に、その概念に従って必然的に、帰属しなければならないのならば、要求されたこと(世界の産出)が起こらねばならない。」18

{このT〜Vは、『全知識学の基礎』の§1〜3にほぼ対応している。
フィヒテの主張は、次のようにまとめられるだろう。
@自己内に還帰する活動性=自我に、客体に向かう活動性=世界直観=対象認識 が対置される。
Aそうすると、自己内に還帰する活動性は、<自由な活動性>となり、<客体を 廃棄しようとする>意欲になる。
我々は、仮に@をみとめても、@からAへの移行を認めることはできない。}

   §2 系
  「有限な理性存在者は、感性界における自由な作用性を、他の者たちにも帰   属させることなくしては、つまり自己の外に他の有限な理性存在者達を想   定することなくしては、感性界における自由な作用性を自己自身に帰属さ   せられない」25

   §3  第二定理、
  「有限な理性存在者は、感性界における自由な作用性を、他の者た
  ちにも帰属させることなくしては、つまり自己の外に他の有限な理性存在者  達を想定することなくしては、感性界における自由な作用性を自己自身に帰  属させられない」

        証明
T
a)理性的存在者は、§1の証明にしたがって、自己に作用性を帰属させるのでなければ、客体を措定することはできない。
  {作用性の措定 → 客体の措定 これは同時でもよいのだろう}

{この理由は、つぎのように考えられている。
「表象は表象する者なしには、存在し得ず。表象は、表象する者が措定されることなしには、意識的に措定されることはない。」22 ところで、「世界直観における理性的存在者の活動性は、・・・強制され、拘束されている。」18f ゆえに「この活動性に対置された活動性は、その内容に関して自由であらねばならない。」
「自由な活動性は、世界直観における活動性によって制約されているはずである。」「自由な活動性は、客体を廃棄aufhebenすることへ向かう。したがって、自由な活動性は、客体への作用性Wirksamkeitである。」}

b)しかし、理性的存在者は、作用性が向かうべき客体を措定しおえているいる  のでなければ、いかなる作用性も、自己に帰属させることができない。
客体の措定は、先行する時点において措定されているのでなければならない。それによって、作用性の概念が把握される時点が、現在の時点となる。
 {客体の措定 → 作用性の措定 これは時間的前後関係にある}

c)すべての把握Begreifenは、理性的存在者の作用性の措定により制約されてお  り、すべての作用性は、先行の把握により制約されている。

「したがって、意識の可能な各瞬間は、先行する瞬間によって制約されている。
意識は、それの可能性の説明において、すでに現実のものとして前提されている。
意識は、このような循環によってのみ、説明され得る。したがって、意識は、そもそも説明され得ず、不可能なものとして現れる。」

{この循環は、次のようになるだろう。
 →  作用性の措定
       ↓
   客体の措定(把握) → 作用性の措定
                               ↓
                            客体の措定(把握) → 作用性の措定
                                                      ↓                                                                  客体の措定(把握)}
 
この困難の根拠は、「自己意識の作用性を措定できるためには、自己意識の主観は、すでにあらかじめ客体を措定しおえているのでなければならない」といことにあった。これを解決するには、次のようにならなければならない。

  「主観の作用性が、その同じ瞬間において、客体と綜合的に統一されている」
  「主観の作用性が、それ自身、知覚され把握される客体である。客体が主観   の作用性に他ならない。両者が同じものである」

このような条件のもとでのみ、自己意識は可能である。

では、この「綜合」は何を意味するのだろうか。
客体の特徴は、つぎのとおりである。
  「客体の把握において、主観の自由な活動性が、阻止されたものとして、措   定されている」
作用性の特徴は、次の通りである。
  「主体の活動性が、絶対的に自由であり、自己自身を規定する」

ここで両者(客体と主体)が統一されるべきである:つまり二つの性格が維持され、どちらも失われるべきでない。
このことは、つぎのようにして可能である。

我々が、
 「自己規定へと主体が規定されていること」
   (ein Bestimmtsein des Subjekts zur Selbstbestimmung)
 「作用性へと決断するようにという主体への促し」
   (eine Aufforderung an dasselbe, sich zu einer Wirksamkeit zu ent-
  schlie@en)
を考えるとき、この両者が完全に統一されている。

「求められているものが客体であるかぎり、それは感覚の中に与えられなければならない、しかも内的感覚ではなく、外的感覚のなかに与えられなければならない。というのは、全ての内的感覚は、外的感覚の再生産によってのみ生じるからである。」33
また「求められているものは、行為へと主体を促すことしてだけ把握され、把握され得る。」なぜなら、「主体は、自由な作用性の概念を、現在の瞬間にあるものとして獲得するのではなく(なぜなら、そのことは真に矛盾したことであるから)、むしろ将来の瞬間にあるべきものとして獲得する」33からである。

 他者からのこの「促し」を把握するのが、最初の自己意識である。この把握によって、理性的存在者は自由な作用性を実現することになる。これが第二の自己意識である。
 他者からの「促し」を把握すると、行為してもしなくても、理性的存在者は、自由を実現することになる。

この働きかけ(促し)は、規定されたものである。規定されたものとして、この働きかけを措定することによって、この働きかけの規定された根拠が措定される。

「この働きかけは、主体に対する自由な作用性への促しとして把握される。」
「理性的存在者は、促しによって、決して規定されず、強制されない。理性的存在者は、ただこの促しのために、自己を自由な作用性へと規定すべきなのである。
しかし、理性的存在者がそうすべきならば、理性的存在者は促しを理解し、把握しなければならない。」
主体の外部の促しの原因は、少なくとも、「主体が理解し、把握することができる」という可能性を前提しなければならない。
「促しの合目的性は、それが向かう存在者の悟性と自由によって制約されている。
それゆえに、この原因は、必然的に、理性と自由の概念を持たねばならない。それゆえに、これは、概念の能力を持つ存在者、知性である。そして、知性は、自由なしには不可能であるから、自由な者、理性的存在者である。」

<他者からの促しによって、自己意識が成立し、その他者もまた、別の他者のからの促しによって自己意識となり、・・・>という無限遡行が生じるが、これについては、最初の人間を促した精神として神を想定することによって、解決する。「すべての哲学は、最後に、再び古い尊敬すべき古文書にもどらねばならない」39という。

-----------------------------------------------------------ここまで

<考察>
 カントでは、自由(実践的自由)とは、意志という能力が持っている性質、あるいは、意志がもつ能力のことであった。しかし、フィヒテは、能力をみとめない。フィヒテによれば、「自我は、能力を持つものではなく、能力でもなく、行為していることである。自我は、それが行っていることであり、自我が行為しないときには、自我は無である。」23 このように考えるフィヒテにとって、自由とはある活動性の属性であり、「自由な活動性」とは、「自己規定」や「自発性」と同じことであるように思われる。

 カントの<格律の選択の格律の選択の・・・>という無限遡行について、フィヒテはとりあげていない。ただし、我々は、これによく似たものとして、<自由な作用性の措定には、客体の措定が先行し、それには別の自由な作用性の措定が先行し、・・・>という無限遡行を見つけることができる。これにたいする、フィヒテの解決は、<他者による促し>=<作用性と客体の綜合>の認識を、最初の自己意識として設定することであった。
 この自己意識は、自由の意識であるのみならず、「自発的であれ」という道徳原理の意識でもある。

<思いつきの予想>
1、フィヒテの意欲も、事物(あるいは事物からなる世界)へ向かう行為をおこなう意欲であり、カントの場合とおなじく、(アーレントのいう)「制作」をモデルにした意志論である。
2、「意志」という概念は、古代ギリシャには、あてはまるものがない。
このことは、コダイギリシアでは、制作が人間の行為の中で中心的な者ではなかったということに関係しているだろう。
 つまり、「意志」概念が登場するのは、近代における制作の重視と対応している。意志とは、もともとが制作をモデルにした行為概念に依拠したものなのかもしれない。
3、ところで、自由は、単に拘束されていないということであり、自由市場とか自由都市とか、自由人、現代では、自由電子などのことばで使われている。「自由」は、おそらく意志の述語として発生したのではないだろう。
 「意志の自由」が重要視されるのは、ルターとエラスムスの論争以降であるのかもしれない。近代における、政治的経済的自由の拡張から、近代では、政治や社会を考えるときに、「自由」が重要な概念になる。この自由は、対他者関係における行為の自由である。ところで、「行為の自由」は、「意志の自由」を前提するということから、「意志の自由」が哲学的に重要な問題となる。ところが、問題となっていた「行為の自由」の行為とは、対他者関係における行為であるが、「意志の自由」というのときの意志や行為とは、主として制作における意志や行為である。
 この食い違いが、近代哲学における自由論の内的分裂、行為論の内的分裂を引き起こしている。(労働所有説が抱え込むアポリアも、この食い違いに由来している。)
4、我々に必要なのは、対他者行為である「活動」をモデルにした「意志」の再定義であろう。意志の自由は、「問題状況を超越すること(問題状況に拘束されていないこと)」と定義できるかもしれない。(あるいは、意志という概念そのものを捨てて、自由を例えば「問題設定の自由」としてとらえた方がよいのかもしれない。)
5、意志の自由を、制作モデルで規定する限り、「意志決定が意志以外のものによって規定されておらず、また意志決定が法則的でなく偶然的であること」というように規定するしかないだろう。しかし、これでは、意志の自由をとらえられていないような気がすると§7で述べた。
 意志を活動モデルで規定することによって、このアポリアを突破できるのではないだろうか。
6、フィヒテは、自由の成立を、対他者関係において、とらえている。彼は、「活動」をモデルにした自由論、意志論への扉を開いていたようにみえる。しかし、残念ながらこの扉は後期フィヒテにおいて閉ざされるのである。