第九回講義  


  §12 フィヒテの決断論
<実践哲学におけるフィヒテの三つの根源的洞察>
ヘンリッヒにならって、実践哲学にかんするフィヒテの独創的なアイデアを「根源的洞察」とよぶことにすると、それは、次のような点である。

第一の根源的洞察:自己意識の成立条件として道徳意識、規範意識を演繹しようとしたこと。
         (道徳の基礎づけのアポリアを解決しようとするもの)
第二の根源的洞察:自己意識の成立条件として、他者からの促しを演繹しようとしたこと。
                  (他者認識のアポリアを解決しようとするもの)
第三の根源的洞察:自由を認める決断の語用論的必然性を示したこと。
         (自由の証明のアポリアを解決しようとするもの)

 ここでは、第三の根源的洞察について説明したい。
 フィヒテは、自己意識が成立していることについては、「各人が自己直観のなかにみいださねばならない。そして主張の真理性を概念から証明することはできない。」(『道徳論の体系』1798、s.21)という。
 フィヒテにとっては、自己意識を認める観念論の立場、これは自由を認める立場でもある。

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(論文「フィヒテにおける弁証法と決断」からの引用による構成です)

   第一章 フィヒテにとっての決断の根源性
 フィヒテは実在論と観念論の関係について、クーンの言うパラダイム間の「共約不可能性」と同様のことを言っている。『知識学の新しい叙述の試み』(1797)の有名な箇所にあるように
  「これら二つの体系のどちらも対立する体系を直接反駁できない。なぜなら、・・・それらは、相互に了解したり一致することのできる共通点を全くも   たないからである。」(17)したがって、どちらの体系を採るべきかについては、「推論からのどんな決定根拠も不可能である。」(18)それゆえに、「選択意志」(Will{r)によって規定される。「選択意志の決断は根拠を持つだろうから、傾向や関心によって規定される。 したがって、観念論者と独断論者の差異の究極根拠は彼らの関心の差異である。」(19)『新しい方法による知識学』では、「観念論者の体系は、自己自身への、あるいは自発性への信仰に基づいている、あるいはカントが理性の関心と呼んでいるものに基づいている。」
(20)「理性の関心とは、自発性と自由への信仰である」(21)といわれている。

 フィヒテが、ここでいうカントの「理性の関心」とは、カントがアンチノミー論で述べているものである。フィヒテが観念論と実在論の対立を言うときに最も重要な違いと考えているのは、人間の自由を認めるか否かという違いであるが、これは、カントの第三アンチノミーの問題である。

 カントは、第三アンチノミーの定立の側には、意志の自由を認めることによって道徳および宗教を基礎付けるという実践的関心があり、これに対して反定立の側は道徳と宗教から力を奪い取るようにみえると述べている。(22)カントは、この実践的関心に基づいて、定立の側を要請する、言い換えると定立を妥当させることを「決断」(23)するのである。このようにして理論理性から実践理性への移行は、「決断」によっておこなわれる。この決断は、カントでは、主題的に論じられているとは言い難いが、フィヒテでは、彼の哲学の基本的な立場として明言されることになる。
 

   第二章  フィヒテによる決断主義批判の二つの可能性
 『人間の使命』(1800)でフィヒテは、決断を非常にラディカルに考えている。彼はあらゆる知に対する懐疑を述べた後に、「信仰」を確実性の拠り所とする。そしてその「信仰」を「知を妥当させる意志の決断」(35)と規定する。この決断は根源的に考えられており、如何なる思考法則を妥当とするかも、決断に基づくと主張されている。(36)このような徹底した「決断」理解は、ポッパーやアルバートの決断主義、つまり、合理主義の立場を選択するのも非合理主義の立場を選択するのも同じように非合理な決断であると考える決断主義と同程度に、決断の根源性を洞察しているといえよう。(37)
 思想史的にはニヒリズムからの帰結であるだろう「決断主義」(38)を、いま暫定的に次の三つの要件で定義してみよう。
 1)あらゆる事実判断あるいは価値判断が根源的には決断に基づいていると考える(決断の根源性)。
 2)その決断自身は何にも媒介されておらず無根拠であると考える(決断の直接性)。
 3)その決断を非合理なものと考える(決断の非合理性)。

 ところで、フィヒテに限らずドイツ観念論の弁証法において、決断は非常に重要な役割を担っている。そこでは、(カントでは実践問題に限るが)全ての知の妥当性は究極的には決断に基づいている。その意味でドイツ観念論は、1)の「決断の根源性」を認める。
 しかし、我々はドイツ観念論を決断主義と見なすことはできない。なぜなら、カントを含めてドイツ観念論では決断を行う意志は理性であり、決断が理性によって行われるのであれば、決断は何等かの合理性を持つはずだからである。むしろ我々はドイツ観念論の中に、決断主義の要件2)「決断の直接性」と要件3)「決断の非合理性」にたいする批判の可能性を見いだせないだろうか。以下では、フィヒテの「決断」理解の中にそれを探りたい。

   (1)語用論による「決断の非合理性」批判
 『人間の使命』での前述のラディカルな決断は、重要なことに更にそれ自身がまた一つの決断に基づいている。彼は、真理を信仰によってではなく、思考のみによって生みだそうとする立場も、また、真理を信仰ないし決断で基礎づけるという彼の立場も決断に基づいていると考えている。したがって彼の立場は、彼自身は明言していないのだが、「決断への決断」という立場である。
 そして、彼がこの様な決断によって妥当させる知は、「私は自発的であるべきである」(39)という思想である。決断するということは、自発的な行為であるから、「自発的であろう」と決断することは、いわば決断しようと決断することに他ならない。
 そうすると、決断への決断という立場にとって、「自発的であろう」というこの決断の内容は、形式に由来する必然的な内容である。これはいわゆる語用論的必然性ではないか。逆に言うと、このような「決断への決断」の立場で、独断論を選択することは、語用論的矛盾に陥ることになる。
 『知識学の新しい叙述の試み』では、機械論(独断論、実在論)の採用が語用論的矛盾(もちろんフィヒテ自身はこの言葉を用いていないが)に陥ることを指摘して、次のように述べている。
  「原因と結果の汎通的な妥当という前提において、彼らは直接に自己矛盾している。彼らの言うことと彼らのすることは矛盾している。すなわち、彼らは機械論を前提することによって、機械論を超えて高まるのである。機械論についての彼らの思惟は、彼らの外にあるものである。機械論は自己を把握することはできない。まさにそれが機械論であるが故に。自己自身を把握することは、自由な意識にのみ可能である。」(40)我々から見ると語用論的矛盾であるこのような「言うこと」と「すること」の矛盾への注目は、他の箇所にも見られる。(41)
 カントは力学的アンチノミーについては前述のように定立の方を決断によって妥当させたのである。従って、選択意志の実践的自由を認めることを決断したということになる。このような自由への決断は、決断への決断というフィヒテの立場と同じ論理構造を持っている。このような決断を承認する者は、実は反定立の方を決断によって妥当させることはできないのである。なぜなら、「自由な因果性は存在しないものとする」という(自由な)決断は、語用論的矛盾に陥るからである。自由な因果性が存在しなければ、決断は成立し得ないからである。
 (もちろん、主観的に<決断>と思われているだけで、本当はその行為も自然因果性に支配されていると解釈するならば、反定立を真とみなす<決断>は語用論的矛盾にはならない。しかし、カントはこのような<決断>までを考慮しているとは思えない。)
 「自由への決断」(「自由への自由」「決断への決断」と言い換えても同じであるが)は、自分が自由に決断していることを単に事実として主張する立場ではなくて、「自由であろう」と決断する立場、つまり「自律的であろう」と決断する立場になる。カント自身が、このような「自律」の語用論的必然性にどれほど気づいていたかは、今後の検討課題としたいが、フィヒテ自身は、「自律」の語用論的必然性をかなり自覚していたと思われるのである。『道徳論の体系』(1798)での次の箇所が証左となる。(42)
  「全ての哲学が廃棄されなければならないか、あるいは理性の絶対的自律が認められなければならないかである。この前提(理性の絶対的自律)のもとでのみ、哲学という概念が理性的である。理性−体系の可能性に対する全ての懐疑ないし否認は、他律という前提、つまり、理性がそれ自身の外にあるものによって規定されうるという前提に基づいている。しかしこの前提は端的に反理性的であり、理性に反する矛盾である。」(43)
 ここには、アルバートやポッパーの決断主義を超越論的語用論で批判しようとするアーペルの方法とよく似たものを見つけることが出来る。(44)

  (2)促し理論による「決断の直接性」批判
 我々は、ヘーゲルがシェリングの知的直観の直接性を、ピストルから玉がいきなり発射されるようだと批判したのにならって、決断が何もないところでいきなり行われると考える立場、「決断の直接性」の立場を批判しなければならない。
 フィヒテは『新しい方法による知識学』で、決断の根拠は促しであるとハッキリと述べている。
  「実在的根拠がここで適用可能であるならば、促しが決断の実在的根拠を含んでいるだろう。」(47)ここで、「実在的根拠がここで適用可能であるならば」という条件法が用いられている理由は、ここでいう「実在的根拠」が因果性という意味での根拠ではないからである。しかし、促しがなければ、決断は成立しない。フィヒテの卓見は、「決断の根源性」を承認しながらも、決断へと促すものを背後に考えることである。

問題「哲学者の決断も、他者からの「促し」に応えて行われるのか?」
 「促し」はグレゴリー・ベイトソンのいうダブルバインドになっているために、促しを受けると、それに従っても従わなくても一定の決断をすることになる。そのような「促し」の把握とそれに続く決断によって、最初の意識ないし自己意識が成立する。
 この最初の意識は、認識であり且つ実践である。「熟考は決断に先行する。私が決断するとき、このことは時間の中で現実に   起きるのだろうか。私が普通の視点でみると、このことはもちろん時間の  中で起きる。超越論的視点でみると、それは全く異なっている。意欲することと熟考することは、私がそれらを措定するという関係を含んだ一つの   現象に他ならない。」(31)
 フィヒテは、これをプリズムによる光の分離に例えて、促しの認識と決断は一つの事柄であると言う。そうすると、ここに、初めの課題であった認識と行為の綜合がなされていると言えるだろう。なぜなら、促しの認識によって自由の概念を得た者は、決断することによって、自由を実現していると同時に、自分が自由であるという認識を得る(自由の概念に実在性を与える)ことになるからである。このように最初の意識の成立および決断の成立を、他者の促しによって説明するフィヒテの理論を、我々は「促し理論」と呼ぶことにしたい。

 自由の自己意識を実現させるこの決断は、自我の自由を主張する観念論を選択する決断と同じものではない。最初の決断によって自由な自己意識が成立してのみ、観念論の選択を決断も可能になるのである。しかし、最初の自己意識が決断によって、決断として成立していることは、観念論哲学者にとってのみ、明らかなことである。
 フィヒテが二つの「知的直観」、つまり哲学者の知的直観と彼の研究対象である当事意識の知的直観を区別している(32)のと同様に、二つの「決断」、つまり観念論者の決断と当事意識の決断を区別しなければならないだろう。
 この二つの決断が、密接に関連しているということは、うかがえる。

(今週言えるのはここまでです。上の問題の答は、来週まで待って下さい。)


(17)GW,Iー4ー191.  (18)GW,I-4-194.  (19)GW,I-4-194.  (20)GW,IV-2-23.  (21)最近発見されたもう一つの筆記ノート、Fichte,Wissenschaftslehre  nova methodo, Felix Meiner,1982,S.17.  (22)Vgl.Kant,Kritik der reinen   Vernunft,A466=B494,A468=B496.  (23)Ibid.A587=B615,A746=B774.このような「決断」の理解は、伊達四郎「Kritikから Dialektik へ」(『大阪大学文学部創立十周年記念論文集』大阪大学文学部発行、一九五九年、所収)、高橋昭二著『カントの弁証法』創文社、一九六九年、に基づく。 (24)GW,I-2-301.  (25)この節についてより詳しくは、拙論「フィヒテにおける自己意識の成立とダブルバインド」(『哲学論叢』大阪大学文学部哲学哲学史第二講座発行、十九号、一九八八年、所収)の参照を請う。  (26)GW,I-2-285.  (27)GW,I-2-386.  (28)GW,I-2-386.  (29)Vgl.GW,I-3-342.  (30)Vgl.Ibid.  (31)GW,IVー2-188.  (32)Vgl.GW,I-4-218f. (33)Kant,Kritik der reinen Vernunft,A534=B562.  (34)GW,I-3-343.(35)GW,Iー6ー257.  (36)『人間の使命』での「決断」論について、詳しくは前掲拙論「フィヒテにおける自己意識の成立とダブルバインド」の参照を請う。  (37)Vgl.K.R.  Popper,The Open Society and its Enemies, Routledge,1945,Vol.2,p.231. カール・ポッパー『自由社会の哲学とその論敵』武田弘道訳、世界思 想社、一九七三年、三六八頁、ハンス・アルバート『批判的理性論考』萩原能久訳、御茶の水書房、一九八五年、参照。 (38)ハバーマスが決断主義者として挙げる、R・M・ヘア、サルトル、カール・シュミット、ゲーレン等は、この要件を充しているだろう(ハバーマス著『理論と実践』細谷貞雄訳、未来社、一九七五年、三六九頁、参照)。 (39)GW,Iー6ー254.  (40)GW,I-4-261.  (41)Vgl.GW,II-6-370,II-8-288ff. (42)この箇所は次の論文に教わった。Vgl.Vittorio H{sle,Die Transzenden-talpragmatik als Fichteanismus der Intesubjektivit{t in "Zeitschrift f{rphilosophische Forschung" Bd.40,Heft 2,S.235-252,1986.  (43)GW,I-5-69. (44)H{sleの前掲論文によってすでに同様の指摘が為されている。ただし、彼はフィヒテの「決断」に注目しておらず、またなぜかフィヒテの他者論を無視して、ヘーゲルの相互主観性論によってフィヒテを批判し、更にヘーゲルによるフィヒテ批判が、フィヒテに似ているアーペルの超越論的語用論に対しても妥当すると主張するのである。しかし、フィヒテには相互主観性論があり、しかもその内容は本文で後に述べるように決断主義の克服と密接に関連しているので、H{sleのフィヒテ批判は性急に過ぎるのではないか。 (45)Vgl.Kant,Kritik der reinen Vernunft,A299=B356,A330=B386.  (46)これについては、更に詳しく分析する必要があるが、差し当りは前掲拙論「フィヒテにおける自己意識の成立とダブルバインド」の参照を請う。  (47)GW,IV-2-179.  (48)GW,Iー6ー299. (49)GW,II-6-320. (50)Vgl.Hegel,Wissesnschaft der Logik,hrsg.von Lasson,Felix Meiner,1967,Bd.1,S.54, Bd.2.S.14,275,354,393,403f,506.

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