第十回講義   間奏  (夏休み前の総まとめ)
 



 

       §13 ふりかえって
A、先週をふりかえって
<自由論選択の語用論的必然性について>
ここで、フィヒテ解釈を離れてこの問題を考えてみよう。
1、今、決定論対自由論の論争で、どちらをとるかの決定ができないとしよう。
この状況では、ひとは次のどちらかの態度をとるしかない。
   a、不決定にとどまる
      b、どちらかを決断によって選択する
bの立場をとるとき、決断することは、自由論によって可能になるのだから、決定論を決断によって選択することは、自己矛盾している。したがって、我々は、自由論を決断によって選択せざるを得ない。
 もちろん、このような決断行為も、決定論からみれば、決定された出来事に他ならないのである。したがって、決定論を決断によって選びとることがあっても、出来事としては何等矛盾していない。このように理解された決断行為を<決断>と呼ぶことにしよう。
 ところで、1の状況では、機械論が正しいと断言できないのだから、<決断>理解が正しいとは断言できないが、しかし、<決断>理解がまちがっているとも断言できないはずである。それならば、1の状況で機械論を<決断>しようとすることは可能であろうか。
 <決断>しようと、意図することは不可能だろう。我々が、何かをしようと意図するときにはつねに自由の意識が伴っているからである。
 例えば、食堂で、「ウドンを食べよう」と意図するとき、我々は「ウドンを食べることも、ソバを食べることもできる」或いは、「ウドンをたべることも、食べないこともできる」と意識しているのではないだろうか。「ウドンをたべなければならず、ウドンを食べないことは不可能である」と思いつつ、「ウドンをたべよう」と意図することは、不可能だろう。そうだとすれば、我々は<決断>しようと意図することは不可能である。
 では、1の状況で、aをとる可能性はないのだろうか。つまり、不決定にとどまることに、語用論的矛盾はないのだろうか。少なくとも、自由を認めるかどうかについて態度を保留し続けようと意図することは、意図することにおいて自由を前提しているのだから、矛盾している。ただし、問いづつける限りで、矛盾はしない。なぜなら、もし、矛盾するとすれば、問うこと自体が無意味になり、したがってまた、その答も無意味になるからである。

<第一の根本的洞察の問題点>
 自己意識は、意欲するものとして自己を意識すること、あるいは、
       意図するものとして自己を意識すること、である。
ところで、意図するということには、自由の意識が伴っている。
ゆえに、自己意識は、自由なものとして自己を意識すること、である。
つまり「自己意識には、必然的に、自由の意識が伴う」と言える。

フィヒテがいう「意欲することのなかにある絶対的自発性」を自由と言い換えると、上のようになるだろう。この推論を認めるとしても、我々は、そこからどうして、「自由であるべきだ」という規範意識を導出できるのだろうか。

フィヒテは、意識される自我が、
  「客観的なもの」として現象するということ、また、
  客観的なものは、必然性(法則性)を持つということ、
から、法則性を導出する。しかし、とくに後者についての論証が欠けているので、説得力に欠けている。

 (意識哲学批判についてのコメント:内観による観念の分析から言語の分析へ)

<先週残した問題>
 さて、先週残した問題は、「自己意識が成立するときの決断は、他者からの促しによって成立するのだが、自由論を選択する哲学者の決断もまた、他者からの促しによって成立するといえるのか」という問題であった。
 哲学者の決断は、時代状況に対じする中で、他者に促されて行われるだろうと考えていると推測するが、この問題について、フィヒテは語ってはいない。それは哲学の外部の問題になるからであろう。

B、§8で残した問題について
 残された問題1「感性の傾向性による触発において、意志が自由であるとは、どのような意味であるのか?」

 このように考えてはどうだろうか。触発するということは、選択肢を提供するということである。選択肢を提供するということは、選択をせまるということ、選択を不可避のものにするということである。触発において意志が自由であるとは、触発によって提供された選択肢の中から選択する自由をもつ、ということであろう。
 しかも、選択肢が提供されたときには、選択せざるを得ないので、触発するということは、決断を迫るということでもある。そうすると、触発において意志が自由であるとは、決断を迫られて決断することになる、ということである。触発によって、意志は意志になるということである。我々は、ここで、この触発のなかに、他者からの「促し」をふくめてもよい。

 §8での問題は、触発において、意志を決定するのが、理性でも、傾向性でも、意志でもないとすれば、なになのか?という問題であった。
 こんなふうに考えてはどうだろうか。
 触発するものは、選択肢を提供して、選択を要求する。しかし、このとき、選択は単に要求されるだけでなく、不可避のものになる。ただし、このことを理解するのは、理性である。理性は、選択を不可避のものとしてうけいれることになる。そこで、何らかの基準から推論/計算して、選択するのだとすると、その決定は理性によるものである。しかし、推論/計算が不可能であるときに、決定するのは、意志である。
 不決定の自由以外の自由は、理性による決定である。このときの決定を「自由」というためには、我々は「理性の自由」言い換えると「思考の自由」について、考えてみる必要があるだろう。とりあえずの、仮説はこうだ。
 仮説「不決定の自由以外の意志の自由は、「思考の自由」に基づいている」
 

C、§7間奏 のつづき
 先に、「§7間奏」において、つぎのような問いをたてた。
   問い:「意志決定が自由であるとは、どういうことか?」
そこでのべた、意志決定が自由であるための必要条件を整理して書き直すと、つぎのようになる。

条件1、意志決定が、心以外のもの(神、自然法則、など)によって、決定されているのではないこと
      (a)予定されていない
             (b)偶然的に決定されない
条件2、意志決定が、心の本性や法則によって規定されているのではないこと、したがって、規則性を持たないこと。

アポリア:規則性をもたないとすれば、それは偶然的なのだろうか。意志決定が、偶然的であることが、自由であることだとすると、つぎのような不都合が生じる。「偶然的な決定には、私は責任をもてない。なぜなら、偶然的な決定で、私が善いことをしたとしても、それはほめられないし、悪いことをしても、責められないようにおもわれるからである。」

条件3:意志決定が自由であるとは、「することもしないこともできる」ということである。

 (もちろん、「することもしないこともできる」ということを、経験で確かめることはできない。もし、したならば、「することができた」ことは証明できるが、しかし「そのとき、しないこともできた」ということを証明することはできないからである。しかし、我々が問題にしているのは、自由の存在証明ではなくて、「自由」という語の意味である。)
 「することもしないことできる」とはどういうことだろうか。「する可能性もしない可能性もある」ということだろうか。
  (1)私の親は、私を産むことも産まないこともできた
  (2)私は、生まれることも生まれない可能性もあった
  (3)私は、生まれることも生まれないこともできた
  (4)私は、自由な意志決定によって、生まれた
(1)から(4)を推論するのがまちがいだとすると、どこがまちがっているのか。
まちがいは、(3)の「できた」の意味が二重に使い分けられていることにある。
(2)から(3)へ推論するときの、「できた」は単に「可能であった」の言い換えである。
  "It was possible that I was born and I was not born"
(3)から(4)を推論するときの、「できた」の主語は、出来事ではなくて、私である。
   "I was able to be born and not to be born"
これは、(4)とどうように、あきらかにおかしい。

つまり、「することもしないこともできる」ということは、出来事の可能性(偶然性)ではなくて、私が能力をもつことを意味しているのでなければならない。意志決定の自由を定義するには、「できる=能力をもつ」ということを説明しなければならない。

 ところで、実際にはしたのだが、「しないこともできた」という発言は、反事実的条件法ではないだろうか。このような反事実的条件法の文が有意味であるためには、真理条件意味論ではなくて、検証条件意味論をとらなければならないので、直観主義論理を採用することになる。(注参照、これについては、1995年度の講義ノートを参照せよ。これはいずれhpに載せます。)



注:論理的決定論

(ダントー『物語としての歴史』国文社 「第9章 未来と過去」より)
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 (1)pは必然的に、真または偽である。
 (2)pが真ならば、pが偽であることは不可能である。
 (3)pが偽であることが不可能ならば、pが真でないことは不可能である。
 (4)pが真でないことが不可能ならば、pが真であることは必然的である。
(2)(3)(4)から
 (5)pが真ならば、pが真であることは必然的である。
同様の論証によって、
 (6)pが偽ならば、pが偽であることは必然的である。
(1)、(5)、(6)から、
 (7)pが真であることは必然的であるか、またはpが偽であることは必然的である。227

 論理的決定論の一形態は、アリストテレスによって、『命題論』のなかのきわめて複雑な一節で反駁された。アリストテレスの考えによれば、決定論者の議論は、もしそれが確実であるとすれば、行為の不可能性と人間の思慮の有効性を排除している。228

 アリストテレスは、(1)は偽であると主張した。彼の積極的な主張によれば、すべての命題は真か偽のいずれかであるということは必ずしも成立しない。229
 未来についての言明、あるいは個々の事物に関する未来の言明が、アリストテレスにとって唯一(1)の例外をなすのである。231
 (しかし、アリストテレスは、被指示項が存在することが、こうした文に真理値がえられることになる必要条件であるというとは、かんがえていない。なぜなら、その時には、未来について文のみならず、過去についての文も真理値を持たないことになるからである。)233
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 論理的決定論を認めないのならば、未来については、排中律を否定しなければならない。ここから、ダントは、歴史的予知の不可能性を論証している。
 ところで、我々が、過去の行為について責任を問うのならば、過去の出来事は、することもしないこともできたのでなければならない。そのためには、過去の出来事のまた必然的であってはならない。ということは、過去の出来事についても、我々は、排中律を否定しなければならない。これは、ダメットの「反実在論」を採用することになるだろう。



D、前前回<思いつきの予想>の増補
1、<意志>論の起源
 「意志」という概念にあたるギリシャ語は、boulesis ですが、古代ギリシャ哲
学では、殆ど論じられないようにおもわれる。
 アーレントによれば、「意志の能力は、古代ギリシア人には知られていなかったし、紀元1世紀までは殆ど耳にすることもない経験の結果として発見されたものだったからである。」(『精神の生活 下』岩波書店 5)「私はライルはじめ多くの人々とともに、この現象とこの現象に結びついている一切の問題が古代ギリシアでは知られていなかったという点に賛成する。」同書8

 アーレントによれば、「意志」が問題になるのは、パウロとアウグスティヌスからである。

2、「自由」の語源
 自由は、単に拘束されていないということであり、自由市場とか自由都市とか、
自由人、現代では、自由電子などのことばで使われています。「自由」という言
葉は、意志の述語として発生したのではありません。
 アーレントによれば、「自由という言葉は、最初は、奴隷とはことなる自由な市民といった政治的身分や、麻痺しておらず精神に従うことのできる肉体をもった健康な人の状態といった肉体的事実を表していたが、あとには、内面の心的状況をしめす言葉へと変化していったのである。これがあれば、たとえ実際には奴隷であったり、自らの四肢を動かすことができなくても自由だと感じることができたのである。ともかく、事実の問題として、キリスト教の興隆以前には、我々はいかなるところでも、自由の「観念」に照応する精神的能力の概念を見いだすことはできないのである。」(『精神の生活 下』岩波書店 8)

3、近代哲学における「意志」は、行為の<制作>モデルにもとづく。
 アーレントは、『人間の条件』において、三つの基本的な人間の活動力を区別している。
<労働>laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。
    労働の人間的条件は、生命それ自体である。
<仕事>work とは、人間存在の非自然性に対応する決動力である。
    仕事の人間的条件は、世界性(WORLDLINESS)である。
<活動>actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる
    唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生
    き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという
    事実に対応している。

 近代の産業社会では、物の生産が重視され、<仕事>が人間の活動力の中心に位置するようになる。このような時代背景から、カントもフィヒテも、<制作>という活動をモデルにして、行為や意志を定義することになっている。
 カントの、以前にも引用した意志の定義を引用しよう。「意志Willeは、表象に対応する対象を産出する能力であるか、さもなければかかる対象を産出するように自分自身を規定する能力、すなわち意志の因果性を規定する能力であるか、二つのうちのいずれかである。」(『実践理性批判』(A29))
 ここで、意志は、物を制作する能力(制作しようとする能力)として、考えられている。
 フィヒテは、能力としての「意志」については殆ど語らないが、「意欲」Woll
enを、客体(あるいは客体からなる世界)へ向かい、客体を廃棄しようとする作
用性Wirksamkeitとして考えている(『自然法の基礎』PhB版19)ので、やはり、行為や意欲は「制作」をモデルに考えられているといえるだろう。

4、近代における自由論の内的分裂
 ところで、近代社会における政治的経済的自由の拡張から、近代では政治学に
おいて、「自由」が重要な概念になった。この「自由」は、対他者関係における行為の自由である。
 ところで、「行為の自由」は、「意志の自由」を前提するということから、「意志の自由」もまた、近代において哲学的に重要な問題となっている。とこ
ろが、問題となっていた「行為の自由」での行為とは、対他者関係における行為
であった。これに対して、「意志の自由」というのときの<意志>は、キリスト教の文脈では、孤独な一人の人間の意志の問題であった。あるいは、近代哲学では、意志の自由を脅かすものが、神の全能よりも、むしろ自然因果性であったために、意志は、自然に向かうときの意志の自由が問題になり、また産業社会の中で生産行為が重視されるという時代背景から、主として制作における意志の自由が問題になった。
 こうして、近代哲学では、政治的自由と哲学的自由の問題が、別々にろんじられるしか無くなっている。たとえば、モンテスキューはつぎのように述べている。「哲学的自由は、自己の意志の行使にあり、あるいは、すくなくとも自己の意志を行使していると確信していることにある。政治的自由は安全にあり、あるいは少なくとも自己の安全についてもつ確信にある」(モテスキュー『法の精神』岩波文庫、上巻、P.343) この二つの自由の溝をうめることは、非常に困難にみえる。たとえば、ロックは、労働所有説によってそのみぞをうめようとするとき、かれは、対人関係の自由を、制作モデルの哲学的自由論で論じようとしているのである。

 この食い違いが、近代哲学における自由論の内的分裂、行為論の内的分裂を引
き起こしているのではないだろうか。今日の自由論、たとえば、自己決定論の理論的行き詰まりの原因も、ここにあるのではないだろうか。

5、我々に必要なのは、対他者行為である「活動」をモデルにした「行為」や
「意志」の再定義ではないでしょうか。
 フィヒテは、自由の成立を、対他者関係において、とらえている。彼は、「活動」をモデルにした自由論、意志論への扉を開いていたようにみえる。しかし、残念ながらこの扉は後期フィヒテにおいて閉ざされるのである。
 この扉を再び開いたのは、ヘーゲルである。



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