第11回講義  番外編



 これは、社会哲学研究会発表原稿(1998.Sep.12)として当日配布したものに加筆したものです。
 当日の講義では、これの前半部分しか話せませんでしたので、興味のある方は、後半部も読んでください。
 また、これと関連して、1998年9月19日(土)にボランティア学研究会で行った「ボランティアと公共性」
 もみてください。第五回番外編(ボランティア)ではなしたことと重複していますが、この「公共性とはなにか」の 続編という内容になっています。


                           公共性とは何か

                                                                                 入江幸男
                    序 公共性をめぐる問題状況
1、なぜ最近「公共性」がはやっているのか
 最近公共性がはやっている(注1)。これは、なぜだろうか。
 ハーバーマスは、かつての「市民的公共性」が衰退した原因の一つを、イデオロギーの対立の先鋭化に見ていた。ブルジョアジー対プロレタリアートという階級対立が明確にかつ激しくなってくることによって、お互いに普遍的な立場に立って理性的に討論するということが、不可能になったのである。
 逆に、今日「公共性」概念に再び期待がかけられるようになった理由の一つは、マルクス主義の衰退であるだろう。つまり、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立という図式が、現代の諸問題に対する理解や解決案に関する対立軸とならなくなってきた。対話不可能なイデオロギーの対立がなくなり、普遍的な立場に立って理性的に討議することが可能である、とふたたび人々が思えるような思想状況になったのではないだろうか。
 しかしである。では本当に、深刻なイデオロギー対立がなくなって、普遍的な立場に立って理性的に討議することができるようになったのだろうか。たとえば、欧米諸国とイスラム原理主義の国々との間では、両者がともに、相手とは理性的な対話ができないと考えているのではないだろうか。環境と開発を巡っての北と南との利害の対立などでも、共通の普遍的な立場に立つことは困難である。では、先進国の内部にかぎれば、互いに普遍的な立場に立って理性的な討論ができるようになったようになったのだろうか。先進国の内部に限っても、環境派と開発派、男と女、マイノリティとマジョリティなどといった対立があるとき、共通の普遍的な立場に立つということは、実はそれほど簡単なことではないだろう。
 しかし、確実に状況は代わっている。かつての階級対立という対立軸はかげを薄め、それに代わって様々な対立軸が登場してきたが、それらは個々の問題に即して立てられる対立軸であって、多くの問題についての議論が、かつてのように一つの対立軸に収束するという状況にはない。それゆえに、個々の対立軸めぐる議論の困難に代わりはないとしても、それらの対立軸のもつ深刻さがいわば分散してしまうのである。
 こうして対立軸のもつ深刻さが分散することによって、全体としては理性的な議論の場としての公共圏への期待が高まっているのだとおもわれる。

 「公共性」概念への期待がこのような理由で高まっているとしても、それが可能であるかどうかは、わからない。それを検討には、まずは、個別的な利害を越えて、普遍的な立場にたって理性的に討論するということが、原理的に可能なのかどうか、という理論的な問題を検討しなければならない。なぜなら、個々の問題における原理的な立場の違いの問題は、かつての階級対立、イデオロギー対立における議論の困難の問題と、理論的にはなんら代わらないはずだからである。
 「普遍的な立場で議論することが可能かどうか」という問は、「パラダイムの共約不可能性」や「翻訳の不確定性」の問題と関連しており、肯定的に答えることは、かなり難しい問題である。もし、これに肯定的に答えることができないにも関わらず、「公共性」の概念を残そうとするのならば、我々は、公共性の概念そのものをかなり変更しなければならないだろう。
 小論は、このような仕事のための発端をもとめる作業である。

        第一章 ハーバーマスの「市民的公共性」批判
 ハーバーマスは『公共性の構造転換』で、「市民的公共性」の発生と没落を描いていた。そこで彼は、歴史的な経緯によって、それが消失したことを惜しんでいるように見えるが、しかし、「市民的公共性」という理念それ自体には、批判の余地はないのだろうか。ここでは、まずフレイザーのハーバーマス批判を紹介し、つぎにハーバーマスへの批判をまとめなおすことにする。

1 ナンシー・フレイザーのハーバーマス批判
 阿部潔『公共性のコミュニケーション』(ミネルヴァ書房)の「第5章 公共圏議論の転回」において、阿部は、ナンシー・フレイザーによるハーバーマスの「市民的公共性」概念への批判を次の4点にまとめてている。以下にそれを引用し、コメントを加えます。
(1)「社会的地位の留保」に対する批判
「ハーバーマスによれば、近代的市民社会成立期のブルジョア公共圏では、実際の社会的地位の違いが、「括弧に入れられ、同等に扱われる」ことによって、自由・平等な立場でのコミュニケーションが成立したものと見なされている。」阿部、前掲書、p.198)
「フレイザーの議論によれば、社会的不平等を「括弧に入れる」という発想そのものが、階級支配的な側面を含だものなのである。」(阿部、前掲書、p.199)

  「ブルジョア公共圏での討論を通じた相互行為は、それ自体が地位における
   不平等の相関物であり指標でもあるような、形式と報告における決まった
   あり方に支配されている。それらは非公式的に女性や人民的階級の成員を
   周辺的な立場へと追いやり、同等な仲間として参加することを妨げるので
   ある」(Fraser, Ibid.,p.119. 阿部、前掲書、p.199)

コメント:ハーバーマスは、本当に社会的不平等を「括弧に入れる」と考えていたのだろうか。(時間不足のため、未確認)

(2)単一的・包括的公共圏に対する批判
「単一で包括的な公共圏に潜む支配―従属関係を指摘したうえで、フレイザーは、社会的地位の違いを「括弧でくくる」ブルジョア的公共圏内部への参加ではなく、対抗的公衆による競合的な公共圏を作り出すことの方が、社会全体における「言説空間」を拡張し、民主主義理念をよりよく実現化することに寄与すると主張する」(阿部、201)

  「階層化された社会において、従属的地位に置かれた対抗的公衆は、二重
   の性格を持っている点が重要である。一方で、それらは撤退や差異組織化
   の場として機能する。他方で、それはより開かれた公衆へ向けての示威的
   行動をするための拠点と訓練場として機能するのである。対抗的公衆が持
   つ解放的潜在性は、正にこのような二つの機能の間での弁証法に潜んでい
   る。」(Fraser, Ibid., p.124. 阿部、前掲書、p.202)

コメント:この批判で重要なのは、(1)単一の公共圏の主張の抑圧性、つまり、その主張が、支配文化への同化や従属を要求することになるという指摘(注2)と、(2)公共圏が「討論過程を通じての意見形成」としてのみならず、「社会集団のアイデンティティ形成と発動」という機能を持っているという指摘である。

(3)公的―私的区分に対する批判
「公共圏において、「公的事柄」として論じられるイシューは、予め付与されているわけではなく、議論を通じて形成されていくものである。・・・民主医的な討論を確立するためには、討論に先だって論じられるべき「公的事柄」を決定してしまうのではなく、支配的言説空間から排除されている小数者にとっての(支配的公共圏においては「私的事柄」と想定されている)「公的事柄」を、討論の対象として保証することがもとめられるのである。」(阿部、206)
  「共有善の存在をまえもって想定することができないのならば、どのような
   種類の話題や関心やものの見方が熟慮に価するのかについて、何らかの判
   断を下す事の根拠はなくなってしまうのである。・・・一般的にいって、
   批判理論は「公的」「私的」という用語に対して、もっと批判的な見方を
   とる必要がある。これらの用語は、結局のところ、社会的領域を単にある
   がままに指示しているわけではない。それは文化的に分類化されたもので、
   レトリカルな指標なのである。」(Fraser,Ibid., p.131. 阿部、前掲書、208)

コメント:この批判は、公的事柄と私的事柄を区別する事自体への批判ではなくて、この区別が客観的にあると考える立場への批判である。この区別は文化的あるは政治的線びきによるものであること、それゆえにこの区別自体が討議の対象になるということを主張するものである。

(4)国家―社会区分に対する批判
「ハーバーマスによれば、市民社会での人間関係は、国家行政とも市場における経済活動とも異なる「私人による公衆の形成」として理解される。こうした公衆こそが、近代的公共圏の担い手なのである。」(阿部、210)
  「市民社会と国家とのあいだの明確な分離を要求するような公共圏について
   の考え方は、民主的で平等主義的な社会にとって本質的な、自己管理や公
   衆間での調整の形態と政治的責務について想像することができないであろ
   う。」(Fraser, Ibid., p.136. 阿部、211)

コメンント:市民社会と国家の区別には、一方では、経済と国家の区別という意味があるが、他方では、公共圏と国家を区別するという意味もある。後者の意味で考えるとしても、公共圏と国家の分離を強調することは、公共圏に「世論形成」の機能だけを与えて、「政策決定」の機能を与えないことになってしまう。そこで、フレイザーは、国家―社会の区分に反対するのである。
 

2、「市民的公共性」への別の批判
 「市民的公共性」の理念は、「教養ある市民が理性的に討議することによって、世論が形成され、その世論が政治を監査する」ということであろう。ここには、次の二つの要素がある。
  (a)世論形成
  (b)世論の政治に対する監査機能
この各々に問題点がある。まず、それを指摘する。

(a)市民が公的に議論することは、個別の政治的イシューについての世論(公論)を形成することだけを目的にしているのだろうか。そこには、別の機能があるように思われる。ナンシー・フレイザーは、「競合的な公共圏」が「社会集団のアイデンティティーの形成と発動」という機能を持っていると指摘していたが、この機能は、マイノリティー集団のみならず支配的集団を含むすべての集団にとっても機能しているはずである。
 つまり、公的な議論には、「世論形成」のみでなく、「集団のアイデンティティ形成と発動」という機能があり、さらにいえば、集団や社会への帰属や参加を通してそれと密接に結び付いている「個人のアイデンティティーの形成と発動」という機能をもっているはずである。そして、この最後の機能は、アーレントが公共性に与えていた意義である。アーレントが、「見られ、聞かれる」ことを重視するのは、「現れがリアリティを形成する」と考えたからであった。
  「私たちにとっては、現れがリアリティを形成する。この現れというのは、
   他人によっても、私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。
   見られ、聞かれるものから生まれるリアリティに比べると、内奥の生活の
   最も大きな力、例えば魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものさ
   え、それらがいわば公的な現れに適合するように一つの形に転形され、非
   私人化され、非個人化されない限りは、不確かで、影のような類の存在に
   すぎない。」(アーレント『人間の条件』、p.50)

  「私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり
   おなじように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身の
   リアリティを確信することができるのである。」(同所)

 この後の引用を、ヘーゲルの言葉で言い換えることもできるだろう。「自己意識は、承認されたものとしてのみ存在する。」(『精神現象学』)このように考えるとき、公共圏は、個人や集団や国家などが、互いに承認を求めるための社会空間であるといえるだろう。

(b)「世論の政治に対する監査機能」についていえば、つぎのような問題がある。世論は、政治を監査するだけでよいのか。つねに政府を批判し注文をつけるだけが世論の仕事なのか。そこには、公的に議論した内容に基づいて、自ら問題解決のために行動しようとする市民が登場するだろう。
 ハーバーマスは、『公共性の構造転換』の冒頭で、研究範囲を公共性の主流となった「市民的公共性の自由主義的モデル」に限定して、「歴史過程の中でいわば抑圧されしまった人民的公共性という変形を度外視する」と断っている。
この「人民的公共性」について、そこでは次のように語られている。「フランス革命においてロベスピエールの名前に結び付いている段階に至って、ひとつの公共性が文人的衣裳をぬぎすてて、いわば一瞬間だけその機能を発揮するが――その主体たちは、もはや「教養ある身分」ではなく、無教育な「人民」である。この人民的公共性は、チャーチスト運動においても、とりわけ大陸の労働運動の無政府主義的伝統においても、ひとしく底流としては生き続けているものである」(ハーバーマス『公共性の構造転換』未来社、p.2)
 この「人民的公共性」は、民衆が自ら問題解決のために行動する運動であったようにおもわれる。彼が、この「人民的公共性」を研究範囲から除外したことが「市民的公共性」概念を狭小化してしまったのだと言わざるをえない。

        第2章 「公共性」概念の再構築のために
      1 相互承認の空間としての「公共圏」と共有知
 公共圏が、個人や集団や国家などが、互いに承認を求めるための社会空間であるとしよう。個人や集団や国家などが、アイデンティティを確認し確認されるためには、承認されることが必要であり、そのためには「広く知られる」だけでなく、批判にさらされ、それに答えることが必要である。
 ところで、相互承認を求める議論や、相互承認が成立するためには、単に「広く知られる」という公開性だけでなく、広く知られていること自体が、「広く知られている」ことが必要である。要するに「見られ、聞かれ、知られている」ことが共有知(相互知識)になっていなければならない。(注3)
 公共圏の成立にとって重要なことは、人(言葉、行為、身体)や物や場所や出来事が、見られ聞かれ知られているだけでなく、そのこと自体もまた、見られ聞かれ知られているということである。言い換えれば、公共圏の成立が共有知になっていること、公開性自体が公開されており、自己言及的になっていること、が必要である。
 相互承認は、代理人によって行われることはできない。なぜなら、相互承認は、共有知(相互知識)にならなければならないからである。そうだとすると、相互承認を求めて行われる公共圏での討議は、代表者による討議であってはならないことになる。

          (1)巨大な社会で討議は可能か
 世論形成や相互承認のために討議が不可欠だとしても、討議に参加できる者の数は限られている。参加者が増加することは、討議を不可能にする。討議は、一部の者によって行われるしかない。そうすると、参加者は参加しない者を代表しなければならなくなる。(理性的な討議能力とか、教養という条件をつけて、参加者を限定しないとしても、討議に全員が参加することは不可能である。)公共圏での討議というシステムは、必ず代表や代理のシステムを伴うことになる。
 しかし、次のように考える事もできる。もし、我々がある問題について、ある意見をもち、しかもそれがマスコミにとりあげられる意見とはことなっており、しかもそれより優れていると思うときには、我々には、新聞や雑誌に投書したりして、意見を発表する機会が保証されている(もし、そうなっていなければ、このような回路を確保すべきである)。このような機会を増やして、それを確実に保証することができれば、実際に声を上げて、議論しているのは、小数者であっても、潜在的には全員が議論に参加しているといえるだろう。これは、討論会場で発言せずにいる人も討論に参加していると言えるのと同様である。
 しかし、それにも関わらず、次のような問題点がある。我々は、すべての問題についての専門家になることはできない。そうだとすれば、われわれは、多くの問題については、その討論に際して、誰かに代理/代表を頼むしかなく、また実際にそうしている。
 しかし、このような場合にも、我々が討論を見守り、いつでもチェックすることができるのであれば、またそのことによって討論に参加しているといえるだろう。このとき、我々は、その討論をだれかに単に代理/代表してもらっているというのとは、事情は異なる。なぜなら、何かを誰かに委任したとき、我々はその結果について代理人を批判することはできるが、代理人が職務を遂行している途中の過程では、批判できないだろうが、しかし、上の場合は、いわばその職務の途中で批判する可能性を保持しているからである。

       (2)討議能力の無い人も参加すべきである
 ところで、討議できない人もまた、この公共圏の中に参加すべきである。
もし我々が、討議の能力の無い人をも人として尊重しており、しかも彼らを討議の参加者から排除しているのだとすれば、我々は、討議能力の無い人を、道徳的な配慮の主体としてではなく、単に道徳的な配慮の客体としてだけ尊重しているのである。このとき、我々は、人を二種類(道徳的な配慮の主体でありかつ道徳的な配慮の客体である人と、道徳的な配慮の主体ではなくて単に道徳的配慮の客体である人)に分けていることになる。このとき、我々はそれら二種類の人を同じように人として尊重していると言えるだろうか。我々は、人間を二種類に分けて別々の仕方で尊重しているのではないだろうか。
 もし、我々が、討議能力の無い人を、道徳的な配慮の主体にはなりえず、単に道徳的な配慮の客体になり得るだけの人であるとみなすのならば、討議能力の無い人がそこに存在する必要はないが、我々がかれらを我々と全く同じ(ような)人と見なすのであれば、我々は、彼らと我々を区別できないのであって、彼らと相互承認し合うのである。つまり、彼らを自分と同じ人として尊重して置きながら、彼らとの相互承認は不可能であると考えるのならば、それは、語用論的矛盾である。また相互承認には、相互知識が必要であるが、代理人や代表者を介しては成立しないので、相互承認するには、互いに直接にコミュニケーションする必要があるからである。それゆえに、相互承認するためには、彼らもまた相互承認の空間、討議の空間に参加しなければならない。

          2、公共善と社会問題
 公共圏での議論は、公共善の判定や実現方法をめぐって行われるといえるだろうが、しかし、公共善とは何かを明確に定義するのは、簡単ではない。
 アメリカのベントレイやトルーマンといった政治学者達は、「私的利益(pri-
vate interest)に還元できない公的利益(public interest)は存在しない」と指摘した。
  「社会全般の利益などという集団利益を、我々は決して発見しないだろう。
   いかなる集団であれ、そして集団現象以外のいかなる政治現象も存在しな
   いのであるが、その政治的利益や活動が他の・・・集団に属する人々の諸活動
   に抵触しないようなものは一つもない。・・・・社会それ自体は、それを構成
   する諸集団の合成物以外の何ものでもない。」(Arthur F. Bentley, The
    Process of Government, Principia Press, 1949, p.222、足立、p.22)
  「多くの者は、公然あるいは非公然に、社会全体の利益、つまり社会構成員
   のすべてによって共有され、社会を構成する様々な集団の利益から区別さ
   れ、それらに優越するような利益が実在するものと考えている。・・・もしこ
   のことが事実であれば、利益集団はもとより政党ですらアブノーマルなも
   のとみなされてしかるべきことになろう。全包括的な国益や公共の利益の
   主張は、なるほど、様々な状況における効果的な装置かも知れない。・・・こ
   れらの主張は、それ自体としては、確かに政治データの一部である。とは
   いえ、これらの主張は、複雑な現代社会に生起するいかなる現実的状況を
   も潜在的状況をも記述するものではない。それゆえ、政治の集団論的解釈
   を展開するうえで、われわれはかくのごとき全包括的な利益に考慮を払う
   必要はまったくない。なぜといって、そのような利益は実際にはありもし
   ないからである。」(David B. Truman, The Governmental Process,
   Alfred Knopf, 1951, pp.50-51. 足立、p.23)

 公共の利益を内容的に定義することは、非常に困難である。それは、結局、個人や集団や階級にとっての利益に還元されてしまうのである。冒頭に見たように、このことが、また公共圏の成立に対する重大な脅威になってきたのである。
 公共善がなければ、私的な利害についての争いしか無く、そうであれば、仮に普遍的な立場に立ったところで、私的な利害を調停する基準がなくなってしまう。
 ところで、私的な利害に還元されないような、公的利害はないが、しかし、私的な問題に還元されない公的な問題は存在する、つまり共同でとりくなまければ解決できない問題は存在する。我々は「公的な利害」を「公的な問題の解決に対する利害」と定義することができるだろう。もちろん、「公的な問題の解決によって得られる利益もまた、私的利益に還元されるだろう。しかし、これによって、公的利益と私的利益の区別を導入することは可能になる。ところで、公的な問題とは、ふつう「社会問題」と呼ばれている。

          3 社会問題の定義と社会的機能
            (1)定義と説明
 ある問題が社会問題となるための条件は、次のものである。
 (1)その問題が、社会の(多数の)構成員にとって問題と感じられ、理解されていなければならない。
 (2)社会全体で取り組まなければ解決できない問題である。
 (3)(1)と(2)が、社会の大多数の構成員にとって、共有知になっていなければならない。

(1)の説明:どんなに多数になっても、当事者の数が増えるだけでは、彼らの問題が、社会全体の問題であるということにはならない。例えば、死や病気や生きがいの問題は、みんなが抱えている問題であるが、社会問題ではない。恋愛問題や進学問題や就職問題も、個人にとっての個人的な問題であって、社会問題ではない。もし、これらが、社会問題として論じられる場合があるとすれば、それは、次の(2)の条件を備えた問題としてとらえられている場合である。
 たとえば、差別問題にみられるように、問題で困っている者が小数であっても、それは社会問題になる場合がある。

(2)の説明:個人的な問題は、(彼女/彼にそれができようとできまいと)個人が解決すべき問題である。もちろん、誰かの助言や手助けを求めることはありうるだろう。しかし、個人では解決できない問題もある。それは、死や老化のような誰にもどうしようもない問題と、他者との共同によって解決できる可能性のある問題に分かれるだろう。
 この後者、つまり他者との共同によって解決できる問題については、次のような二種類の区別が可能である。

  区別1:(共同の広がりによる区別)
    家族で解決すべき問題
    組織で解決すべき問題 学校、クラス、会社、組合、職場、地域で解決すべき問題
    国家で解決すべき問題
    世界で解決すべき問題

 この中で、公的な問題に属するのは、最後の3つであり、最初の2つは、個人的な問題ではないとしても、公的な問題ではない。人々の活動領域を公的領域と私的領域に分けるとすれば、前者2つは私的領域、後者3つは公的領域に属するだろう。そして、我々は、後者3つだけを「社会問題」と呼んでいる。

  区別2:
   (a)困っているのは一部の人だけであるが、解決するには全体で取り組まなければならない問題
   (b)全員が困っており、全員が共同して取り組まなければならない問題

 (a)の場合も、一見このように見えるだけであって、問題をよく吟味するならば、(b)の問題になる、という場合がある。
 沖縄の基地問題は、実は全国の問題である。産廃場の問題もじつは国民全体の問題である。このように、全体の問題を一部の人たちの負担で解決しようとするから生じている問題は、実は、(a)というよりも(b)の問題である。
 差別の問題もまたおそらくは、(a)ではなく(b)である。そのときには、我々は次のように考えることができるだろう。
(1)例えば、障害者に対する差別の問題は、確かに「全体の問題を、一部の人たちの負担で解決しようとして生じている問題」ではない。しかし、「だれもが障害者になる可能性があるのだから、障害者が抱えている問題は、みんなの問題である」と考えるならば、これは(b)の問題である。
(2)差別の問題が、みんなの問題であるという理由として重要なのは、差別されていない人にとっては、差別の加害者になる、傍観者になるということが、困ったことだからである。
(3)もし私がある人を差別するとすれば、差別する私は、ある人を承認していない。この場合には、承認されている人もまた、差別する私を承認しないであろう。これは、私にとって問題である。私が、承認を求めようとするのならば、私も相手を承認しなければならない。

 しかし、「すべての(a)の問題は、問題をよく吟味すれば、(b)になるのだ」とは言えないだろう。たとえば、家族の一人が怪我をしたとき、家族みんなで介護しなければならないという場合がある。

(3)について:(1)と(2)を充たしても、(3)を充たしていない場合には、これはまだ社会問題であるとは、社会的に認知されていないことになる。私はここで「社会問題として社会的に認知されていない問題は、社会問題ではない」と主張できるだとう予測するのだが、これについては、いまのところ充分な論証ができないので、予測にとどめておく。

          (2)社会問題の社会的機能
 さて、このように社会問題を理解するとき、つぎのようにいえるだろう。
   テーゼ1「社会制度は、社会問題を解決するためにつくられる」
   テーゼ2「社会制度は、社会問題を解決するためのものとして正当化される」
 たとえば、自然状態=戦争状態にあるという問題を解決する制度として、国家が作られれ、また国家はそのようなものとして正当化されている。ただし、社会制度の起源と本質がずれる事がある。つまり、ある制度がその起源において、解決しようとしていた社会問題と、制度が現在において解決しようとしている社会問題がずれることがある、ということである。
 さらにいえば、社会システムとは、社会問題を生産し、解決するシステムである。社会とは、社会問題とそれを解決しようとする社会的な営みから成り立っており、社会システムは、社会的な問題とその解決の複合態の構造として分析されなければならない。「社会は、つねに社会問題の解決に取り組んでいる。」なぜなら、「社会は、社会問題を必要とする」からである。なぜなら、社会制度は、社会問題への解決策としてのみ、正当化され、存続で きるからである。ある問題を社会問題とみなすことが、社会的に受容されることが必要になる。社会的に受容されるためには、社会的に受容されていると考えることが社会的に受容されることが必要である。社会問題は、共有知になっていなければならない。

      (3)社会問題と私的問題の区別という問題
 さて、フレイザーが指摘していたように、公的事柄と私的事柄の境界は、文化的政治的な線引きの問題であって、これ自体がまさに公的に議論されるべきことである。これを言い換えると、社会問題と私的問題との区別は、文化的政治的な線引き問題である。そして、ある問題が、社会問題であるにもかかわらず、いっぱんにそのように認知されていないということ自体が、まさに一方の側にとっては、重大な問題なのである。
 たとえば、外国人労働者の問題を、社会問題だと考えていない者は、「それは、我々の問題ではなくて、彼女ら/彼らの問題である」と考えているのである。つまり、彼女ら/彼らが帰国するかしないかは彼女ら/彼らの選択の問題であり、その選択に応じて生じる問題は、彼女ら/彼らの問題である。
 しかし、このように考える者も、外国人労働者が抱えている問題は、社会が取り組むべき問題であると考えている者の増大に対しては、社会問題だと考えるだろう。社会問題についての理解の対立は、それ自体が社会問題として、両者に認められることになる。このとき、公共の議論が始まるだろう。
 立場や原理が異なる集団の間にも、対立そのものを社会問題とみなすという共通点が成立し、そこから公共の議論が始まるのである。この社会問題を解決できるのは、どちらの集団でもなく、両者が共同すべき問題である。このとき、この問題を解決すべき主体として「共同体」が要請されている。
 以上はまだ、フレイザーの指摘していた公的事柄と私的事柄の線引き問題を、社会問題という言葉をつかって、言い換えたにすぎない。しかし、「社会問題」という概念を使うことによって、原理や立場の異質なものの間の議論の可能性/不可能性をもう少し立ち入って分析することができるのではないだろうか。


(1)たとえば、メディア論では、マスメディアへの批判概念として「公共圏」を用いようとする動きがある。花田達朗、阿部潔の仕事である。また、インターネットにあたららしい「公共圏」の可能性を見ようとする動きがある。例えば、吉田純、干川剛史などである。また、一部これと重なるが、NGO/NPOの活動に新しい公共性を見ようとする動きがある。今井賢一、入江幸男などである。
(2)ベンハビブは、ハーバーマスは、単一の公共圏を主張しているのではない、と考えて、この批判をフレイザーの誤読であると批判している。Cf. "Situating the Self",p.119.
(3)アーレントがリアリティのために要求するのは、単に「見られ、聞かれる」ことだけではない。彼女が要求するのは、複数の声、「無数の遠近法と側面」である。
 「他人によって、見られ、聞かれるということが重要なのは、すべての人が、みなこのようにそれぞれに異なった立場から見聞きしているからである。」
アーレントは、立場の相違にも関わらず、すべての人がいつも同一の対象に関わっているという事実が、リアリティを保証すると考える。「対象が同一であるということがもはや認められないとき、あるいは、大衆社会に不自然な画一主義が現れるとき」どちらの場合にも、共通世界は解体するという。
 これは、ヘーゲルのいう「我々である我、我である我々」の成立としての相互承認という概念とは、ずいぶん異なっている。

参考文献
花田達朗『公共圏という名の社会空間』木鐸社
阿部潔『公共性のコミュニケーション』ミネルヴァ書房
吉田純「公共圏としてのインターネットの可能性」
          (http://www.socio.kyoto-u.ac.jp/~jun/jssis96.html)
干川剛史「情報ボランティアと公共圏」(『現代社会理論研究』第6号、1996年)
ハーバーマス『公共性の構造転換』未来社
アーレント『人間の条件』中央公論社
Calhoun,C.(ed.), Habermasn and the Public Sphere, The MIT Press, 1992
Fraser,N., Rethinking the Public Sphere, in ibid.
Benhabib, Situating the Self, Polity Press, 1992.
Benhabib(ed), Deomocracy and Difference,Princeton UN.Press.1996 
足立幸男『政策と価値』ミネルバ書房
                                 以上