第12回講義    §14 ヘーゲルの自由論


(この日は、公用のため11時半までしか講義が出来なかったために、通常よりは、少ない内容になっています。ちなみに、「大雨、雷、洪水警報」が出ていたせいか出席学生も少数でした。
 講義では、論文の一部をつかって、ヘーゲルの「選択の自由への批判」と彼独自の「自由論」を説明しました。)



(論文「ヘーゲル哲学とシステム論的家族療法についての一考察」の一部)
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1、ヘーゲルによる「選択の自由」批判
 ヘーゲルは、選択の自由という考えを、論文『自然法の学問的な論じ方について』(1802/03)で次のように批判している。「自由は、対立する規定の間の選択であるべきであり、従って+Aと−A が前にあるとき、自由とは、自己を+Aとして規定するか、或は−Aとして規定するかにあり、端的にこの、あれかこれか(Entweder-Oder)に結び付いている、という自由の見方は、全く投げ捨てられるべきである。」この批判の理由はつぎのとうりである。「全ての規定性は、その本質からして+Aか−Aである。+Aには−Aが、−Aには+Aが解きがたく結び付いている。個人が自己を+Aの規定性に於て措定したと同様に、彼は−Aにも拘束されている。−A は彼にとって外的なものであり、彼の力のもとにはない。むしろ彼は、+A と−A の絶対的結合のために+A の規定性によって直接に−A という疎遠な力のもとにあるだろう。自己を+A としてか或は−A として規定するという選択において成立する自由は、まったく必然性から外へ出て行けない。自由が自己を+A として規定するとき、自由は−A を否定するのではなく、むしろ−A は絶対的に必然的に自由にとって外面的なものとして存立する。自由が自己を−A として規定するときには、逆である。」
 批判点は、選択の自由では、一方を選択するときに、他方が疎遠な力として襲って来るということである。そしてその理由は、+A と−A が解きがたく結びついて、相互作用の関係にあるということである。諸関係の相互性ゆえに、意図したこととは別の事態を引き起こすことになる、というこの指摘は、システム論的家族療法論が「円環的因果性」による悪循環としてとらえようとしている事柄と同じである。しかし、両者には次のような差異がある。相互作用や円還的因果性は、このような事態の必要条件ではあっても、それだけでは悪循環の必然性までも説明することはできない。つまり、問題に対処しようとする第一種変化が常に悪循環に陥るということはない。しかしヘーゲルは、ある意味では、行為はつねに挫折すると考える。この点が、ヘーゲルとシステム論的家族療法論の非常に大きな違いである。例えば、『精神現象学』では、承認を求めての生死をかけた闘いは、意図したことの逆の結果となり、また主人と奴隷の関係でも、その関係の実現において主人の真理は、奴隷の奴隷となり、奴隷の主人は主人となる。このことは、不幸な意識の内部でも繰り返され、「敵に対する勝利がむしろ敗北であり、一方の獲得がその反対にその喪失であるような、敵に対する闘いが生じている」といわれる。ヘーゲルは、このようにつ ねに挫折することを自己意識の本質であると考える。これは、「自己意識の本質」つまり「無限であること、すなわち、直接的に、自己意識が措定されている規定性の逆であること」に由来するともいえるだろうが、別の面から考えてみよう。

2、選択の自由のダブルバインド
 ヘーゲルは、選択の自由における選択肢は、主体にとって外的なものであると考える。それは、選択の自由においては選択自体が強制されているということを意味することになるだろう。その理由は、次の通りである。選択肢が、外的なものであるということは、選択肢が、主体によって生みだされれたものではなくて、与えられたものであるということである。選択肢が、与えられたものであるということは、そこで選択するということ自体も与えられたものであるということを意味するだろう。なぜなら、選択すること自体を自分で自分に課すということは、一定の内容の選択を自分に課すということであり、選択肢も自分で設定することになるだろうが、逆に、選択肢が外的なものであり、自分で設定したものではないとすれば、選択すること自体も自分で自分に課したのではないだろうからである。選択すること自体を自分で自分に課したのではないということは、選択することが強制されているということである。
 ヘーゲルにとって、自由とは徹底的な意味で強制がないことであって、ヘーゲルは選択の自由における選択肢の外面性において、選択自体の強制を確実に感じとっている。「強制の概念のなかには、自由にとってなにか外的なものが直接に措定されている。しかし、それにとって何か真実に外的なもの、疎遠なものがある自由は、如何なる自由でもない。自由の本質及びその形式的な定義は正に、絶対的に外的なものが何もないということである。」これを言い換えると、「他なるものにおいて自己の許にあること」という有名な自由の定義になる。
 ところで、自由な選択が強制されているということは、次のようなダブルバインド状況にあるということを意味している。つまり、その時そこで「おまえは自由である」というメッセージと、これに矛盾する「おまえは不自由である」というメタメッセージが与えられている。もちろん、選択の自由と、選択しなければならないという不自由は、論理階型が違うので論理的に矛盾するわけではない。このようなダブルバインド状況にあるものは、どちらの選択肢を選択しても自由でありかつ不自由であることになる。したがって、ヘーゲルの考える自由を実現することはできない。

3、ヘーゲルの主張する自由
 ヘーゲルが主張する自由とは次のようなものである。「自由は、肯定的にか或は否定的に、−A を+A と統一し、+A の規定性の中にあることを止めることによってのみ、自由である。」この統一については、(大変わかりにくい表現だが)次のように言われる。「二つの規定性の合一において、両者は否定されている、+A −A = 0。この無が+A と−A へ相対的にのみ考えられ、規定性としての無差別のA自身とプラスないしマイナスが、他方のマイナスないしプラスに対立して、考えられるならば、絶対的自由は、各々と各々の外面性を越えると同様に、この対立を越えており、また端的に全ての強制が不可能であり、強制は全く如何なる実在性も持たない。」
 この表現は解釈を必要とするだろう。行為の選択肢として+Aと−A が与えられている場合に、この二つが全く無関係に並んでいるのだとすると、それらは互いに対して外面的であるといえるだろう。逆に、それらが本質的に対立しているとすれば、それらは互いに対して外面的ではなく内的な関連をもつといえるだろう。そして、それらの選択肢が対立していると考える者が、一方の選択肢を選択する場合には、そのことによって他方の選択肢と必然的に対立することを覚悟するだろう。このような者は、絶対的に自由であると、ヘーゲルは考える。なぜなら、彼もまた他方の選択肢と敵対することにはなるのだが、彼にはその事は外面的な、偶然的な事ではなくて、必然的であり、彼の選択と内的な連関をもっていることを自覚しているのである。つまり、彼は、+A を選択したと同時に−A への敵対的関係をも選択したのであり、その意味で彼はその選択において+A と−A の両方への一定の関係を選択しているのである。だから彼はその選択において+A と−A の両方を統一しているということができる。
 これに対しては、おそらく次のように反論したくなるだろう。たとえ、そこまで見通して行為するにしても、やはり彼は選択しているのであって、彼の自由は選択の自由である。変化したのは、選択肢の理解だけである。以前には、+A と−A の選択であったが、この二つの内的な関連を理解する事によって、+A を行い−A に敵対するか、−A を行い+A に敵対するか、という選択を行っているのだ。このような反論についての検討を行うためにも、ここでヘーゲルの議論の続きをみておこう。
 先の引用にあるように、二つの選択肢を統一する方法には、否定的な仕方と肯定的な仕方の二種類ある。否定的な仕方とは、死である。「この否定的絶対者、純粋自由は、その現象においては、死である。死の可能性によって主体は自己を自由として証明し、端的に全ての強制を越える。」もう一つの肯定的な仕方とは、次のようなものである。「このことを例えば、罰に適用すると、罰においてのみ仕返しが理性的である。というのは、罰によって犯罪は抑制されるからである。犯罪が措定した+A という規定性は、−A の措定によって補われ、そうして両方が否定される。或は、肯定的に見ると、+A の規定性と共に、犯罪者には反対の規定性−A が結合し、両方が同じ仕方で措定される。というのは、犯罪は、一つの規定性のみを措定するからである。従って、罰は、自由の復活である。」ギリシャ悲劇のアンチゴネーは、神の法にしたがって兄弟を埋葬するか、人の法(王クレオンの命令)にしたがって兄弟の埋葬をしないか、の選択を迫られるのだが、彼女の例で言えば、神の法を選択した彼女は、人の法による罰を進んで受け入れ、また選択の時点ですでに人の法による罰を受け入れる覚悟をして選択したことによって自由であり続けたのである。否定的な方は、死によって選択の強制を逃れているという自由であり、肯定的な方は、選択肢の外面性を内面化することによって選択の強制を逃れているという自由である。
 さて、ここで先の反論の検討に戻ろう。+A と−A の内的な連関を認識し、選択しなかった選択肢と敵対することを覚悟して行為するとしても、彼はやはり、+A を行い−A に敵対するか、−A を行い+A に敵対するか、という選択を行っているのであり、彼の自由は選択の自由である。先の反論はこうであった。これをアンチゴネーの例に当てはめると次のようになる。彼女が、神の法に従うか、人の法に従うか、という選択を迫られたときに、両者の内的な連関を認識して、どちらの法をとっても他方の法による罰を受け入れなければならないということを認識していたとしても、彼女は、人の法に従って神の法の罰を受けるか、神の法に従って人の法の罰を受けるか、という選択をしたのであって彼女の自由は選択の自由である。
 これに対してヘーゲルならばこういうだろう。アンチゴネーが自由であるのは、上の言い直された選択肢からの選択の自由があるからではない。彼女は、両方の法がともに自分の本質であることを知っているから、行動においてどちらの法に従ったとしても、自分が破らざるを得なかった法の罰を自ら進んで受容したであろう。まさにこの点にこそ彼女の自由があったのである。それゆえに、この自由は、選択の自由ではない。

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