後期 第一回(通算第十三回)講義)   ヘーゲルの承認論


お断り  この講義は、単位認定の上では、前期とは独立しています。
      この後期の講義では、ヘーゲルの承認概念を検討します。
      しかし、その内容は、前期の自由論の検討と深く結びつていますので、
      後期から受講された方は、前期の講義ノートを読んでおいてください。
      講義ノートを読んでも分かりにくい点については、遠慮なくこちらへ質問してください。  



<§14の続き>

4、ヘーゲルの自由論への批判
 上のようなヘーゲルの自由論に対しては、つぎのような批判がありうるだろう。
批判1:「これが運命か、ではもう一度」と言えない者は、どうなるのか。
 アンチゴネーは、「神の法」に従うとき、「人の法」に背いたことからの帰結を受け入れる覚悟をしており、すでに運命と和解していたのだろうとおもわれる。
しかし、どうしても受け入れられないような運命にであった者はどうなるのだろうか。たとえば、X氏が、国家から明らかに不等な権利侵害を受け、それと戦うか、泣き寝入りするかの選択をするときに、「どちらを選択してもどうでもよいのだ」と運命を受け入れることは、むしろ戦いを放棄するための奴隷の言い訳であり、奴隷根性なのではないか。「運命との和解」を主張することは、支配階層にとって有利なだけであり、マイノリティー集団には抑圧的に機能する。
 和解できない、あるいは和解すべきではないような「運命」というものもあるだろう。(しかし、この場合に、第三者が「泣き寝入りするのは、奴隷根性だ」と批判することも、無責任な発言であろう。戦うことを進めるならば、その者は、彼の戦いに連帯し、自分のこととして戦わなければならない。)

疑問:運命を受け入れることは、単に認識の問題なのだろうか。
 もし、単なる認識の問題でないとすれば、運命を受け入れるか、受け入れないか、という選択が行われていることになるだろう。この選択の自由こそが、より根本的な自由であることにならないだろうか。
 運命との和解は、共同体の中で承認されるということである。アンチゴネーが人の法の裁きを受け入れるということは、共同体を承認するということである。
相互承認において、人は自由である。

 上の疑問に答えるために、ヘーゲルの承認論をみることにしよう。


  §15   ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」の章の承認論
          

  (拙論「方法としての承認論」より抜粋・変更)
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1、欲望
 『精神現象学』で最初に叙述される意識の形態、対象意識は、対象が真なるものであり意識とは無関係にそれ自体で存在しているもの、即自das Ansichと考えていたが、対象についての経験を通して、この即自は意識白身であり、対象意識は真実には自己意識であることを認識するに至る。「対象はそれ自体では(an sich即自的には虚しいものであり、自我がその本質である」と確信するに至った自己意識は、この確信を「真の確信」(S.139)=「対象的なあリ方の確信」にするために、自立的な対象を否定しようとする「欲望」(S.139)となる。
 この者にとって相互に自立的であるように現われている自分と対象との既定の関係を、確信の示す関係へと変換しなければならないが、この者はこの関係自身をまた自我自身を行為の対象とすることは出来ないので、他なる対象を否定し、それによって対象と自我の関係及びその関係において成立している自我自身を変換し、新しいそれらを実現しようとする欲望となる。この欲望が向かうべき対象は、対象一般あるいはすべての対象であるが、実際には感性に規定された意志としての欲望が向かう対象は個物、また欲望の行為が向かう対象も個物である。たとえば、それは一個の赤い林檎であり、その行為はそれを食べることであろう。
 ところで、私達が林檎を食べる時、先の確信を意識しそれを実現しようと思って食べているのではなく、せいぜい「この林檎はおいしい」とか「これは食べられる」ということを意識しているにすぎない。しかしこのような意識の背後には「全ての対象はそれ自体では虚しく、自我がその本質である」という確信があるとヘーゲルは考える。

 ヘーゲルは「この一個の林檎はそれ自体では虚しく、自我がその本質である」ことの対象化(実現)を、先の全ての対象についての確信の対象化と同一視しているように思われる。
  「欲望とその満足において獲得された自分自身の確信は、対象によって制約   されている。というのは確信がこの他なるものの廃棄によって存在し、こ   の廃棄が存在するにはこの他なるものが存在しなければならないからであ   る。自己意識はそれゆえにその否定的関係によって対象を廃棄することが   できず、それゆえむしろ再度、欲望及び対象をつくり出す」(S.139)
 一個の林檎を食い尽くしても先の確信の対象化にはならず、再度他の個物の否定へ向かうことを反復しなければならないといえる。だがそれは、一個の対象の虚無性を対象化しても対象一般の虚無性の対象化にはならないと考えるからではない。かつてあった一個の林檎の虚無性は、その不在において実現されているが対象化されてはいないからである。一個の林檎の虚無性の確信は、食べ尽した瞬間においては対象的になっていると言えるかもしれないが、同時にそれはまた過去のものにとどまり、確信は内的なものに戻ってしまい。先の自分自身の確信も内的なものにとどまっている。
  「対象の自立性のために、このものが自ら自分に否定を遂行することによっ   てのみ、自己意識は満足に到達しうる」(S.139 )
  「欲望の対象は、それが普遍的な根絶不可能な実体、流動的で自己自同の実   在であるという理由でのみ自立的である」(S.140)
 先の確信が対象的になるためには、対象が即自的に虚しいものであって且その否定において猶存続していなければならない。かかる対象は意識であるとヘーゲルは云い、対他者関係へ移行する。
 (但し、この段階では「我々」(=哲学者)の対象である自己意識は、意図的自覚的に知を吟味しているわけではなく、物に対する欲望の関係から対他者関係への移行は、この意識自身にとっては、必然性のない単なる「出来事」である。この移行は、.物に対する欲望の満足だけでは充たされないが、他方でいわゆる社交本能を充たすために他者へ向かってゆくことして理解されていることだろう。)

  二 疎外論と承認論
 認識としての実践において知の訂正の機縁となる行為の挫折は、へーゲルの疎外論に関わっている。へーゲルの疎外論に対しては、マルクスがまたルカーチが、ヘーゲルは疎外と対象化を同一視しており、それは主体を自己意識と同一視することに由来していると批判している。それに対してイポリットは、「人問は彼が生まれた自然と混り合うが、しかしまた人問は自分を自然から引き離すのである。・…:…疎外はすでにそこにはじまるのであり、しかもその疎外とともに人間の運命の問題がはじまるのである。………このようなものとして、この概念はマルクスが理解しているように資本主義における人間の疎外という概念だけに還元しうるようには思われない」と云いへ-ゲルの疎外論に対して所謂実存主義的な再評価をする。彼はその再評価が根源的には引用した個人と自然の関係論よりも相互承認論に関わっていることを暗示している。私達の予想を言えば、疎外と対象化の同一視は、相互承認が存在=思惟というエレメントにおいて始めて成立し、存在=思惟でないエレメントにおいては基本的に成立しえず、必然的に疎外が生じるとへーゲルが考えていることによる。
 相互承認が存在=思惟というエレメントを要求するのは、「承認」概念の根源性に基づく。ヘーゲルの「承認」概念は、単に他者の意見、行動、所有等の承認ではなく、むしろそのような承認の根拠をなす根源的な意味での他者承認であって、この根源性は、現代における他者認識論の「他者認識」の根源性に匹敵する。その根源性は、自己意識が成立した後に自立的なアトムの関係として承認関係があるのではなく、逆に相互承認において初めて自己意識が真に成立すると考えられ、「ある自己意識がある自己意識にとって存在している。このことによって初めて自己意識は実際に存在する」(S.140)と云われている点に収約されるだろう。

2、承認の純粋概念
 ヘーゲルは承認を求める対他者関係の叙述に先立って「承認の純粋概念」を提供している。
 相互承認において、自己意識にとって他の一つの自己意識が存在している時、このことは、二重の意味をもっている。
   他者が自分自身の本質である  また  自分が他者の本質である
従ってこの他者を止揚する行為も、二重の意味をもつ。
   他者の本質性を否定する    また  他者の内の自己を否定する
更にこの行為からの自己内還帰も、二重の意味をもつ。
   自己の取り戻しである     また  他者の解放である
最後にこの行為は、二重の意味をもつ。
   一方の者の行為でもある    また  他方の者の行為でもある

「各々は他者にとって、自己を自己自身と媒介し推論結合する中辞である。」(143)
「彼らは、互いに承認し合っているものとして、互いに承認し合っている。」(143)

 この「承認の純粋概念」は、おそらくヘーゲルの考える「承認」の最上の形態ではない。この承認は二つの自己意識の関係であって、かかる関係はそれ自体、より多くの自己意識あるいは社会によって媒介されている、とヘーゲルは考えているはずである。ヘーゲルにとって承認の最高形態は、民族ないし国家を成立せしめる承認である。
 この「承認の純粋概念」の叙述において彼は「愛」の関係を念頭に置いていると考えられる。これは例えば『実在哲学1』で愛を原理とする「婚姻」について  「そこにおいて各々の意識が互いに交換され、自分自身の意識であり且他者の  意識でもあるところの両者の生き生きとした単一存在Einsseinにおいて、意  識は必然的に両者がそこで分けられ且一つであるところの中辞、実存する統  一である」
と云われているのと同じ内容である。この承認は、二つの自己意識を媒介するものが欠けた「直接的に承認された存在」である。しかしこうした感情にによる結合を除けば、二つの自己意識は身体を含めた物や発話行為を含めた行為を媒介にしてしか関係しえない。(このことが現代において他者認識をアポリアにしている。)

3、承認を求める生死を賭けた戦い
 自己意識は、生 Leben は虚しいものであり、自分が純粋対自存在reines
Fuersichsein である、と考えている。そして、そのことを他者に承認してもらうために、互いの生死を賭けて闘いうことになる。
 しかし、自分が死んでも相手が死んでも承認が成立することはない。この矛盾の「経験において、自己意識には、生もまた純粋自己意識と同様に本質的であるということが生じる」(S.145)。
 そこで次に、この二つを本質と考える自己意識が登場してもよいのだが、
  「それら(自己意識と意識)はさしあたって不同で対立しており、統一への   それらの還帰はまだ明らかになっていないので、それらは意識の対立する   二つの形態としてある」(S.145)
と云われ、ここに対自存在を本質と考える「主人」と、生あるいは対他存在を本質とする「奴隷」の有名な関係が成立する。
 (生を本質と考えるということは、生の諸条件を自分の本質として引き受けるといことであろう。そのようにして、規定性を引き受けることが、ヘーゲルの考える真の自由なのである。純粋対自存在だけを本質と見なす自己意識にとっての自由とは選択の自由である。自分の生の諸条件と和解することが、他者と和解することを可能にするのである。この二つの和解は、結合している。)

4、主人と奴隷の弁証法
 主奴関係において主人は
      a)直接的に イ)奴隷と ロ)物に 関係し、
      b)間接的に イ)物を介して奴隷と ロ)奴隷を介して物と 関係する

a)イ)では、主人は、<生の内に埋没した意識>つまり<物>としての奴隷に関係している。(対自存在としての奴隷に関係していない)
a)ロ)では、欲望の関係として考えられる。

b)イ)(主人-物-奴隷)は、奴隷にとっての本質である物(生命)を否定する主人が、その物(生命、土地、生産手段)の支配を介して奴隷を支配する関係(支配-奉仕)である。
b)ロ)(主人-奴隷-物)は、奴隷の労働・加工という行為を介して生産物としての物を主入が享受するという関係(享受-労働)である。

 しかしここに主奴の逆転が起きる。
 ここでの承認関係は、「本来的な承認」(S.147)ではなく「一面的で不同」であると云われるが、それは一方(主人)のみが承認されて、他方(奴隷)は承認されないという意味のみでなく、主人がたとえ承認されても「本来的な承認」ではないという点にもあることを注意しなければならない。A.コジェーブが鋭く指摘するように「奴隷は主人にとっては動物・物である。それゆえ……彼は…-一人の他の人問によって承認された人間ではない」。
 主人が奴隷の奴隷になるのは、彼の生活が奴隷の労働生産物に依存することだけによるのではなく、(このことは主人が初心に戻って物を非自立的なものとして否定すれば問題にはならないはずであり、より根本的なのは次のことである)、主人が、物である奴隷の承認を必要としていることが、主人もまた、物に依存する奴隷に他ならないことを示していることによる、と考えることができる。

 奴隷が主人の主人になるのは、主人による「死の、つまり絶対的主人の恐怖」(S.145)によって、すべての確固としたものの崩壊を体験し、主人の内に見ていた純粋対自存在=絶対的否定性を自己の内に見い出し、それを「奉仕」において自分の物に対する執着を否定することによって実現し、更に「労働」において自分の否定性・対自存在を生産物の「形式」(S.149)として対象化するという、「恐怖」「奉仕」「労働」の三契機によって「自立的存在の自分自身としての直観」(S.149)に到達し、「対自存在しているもの」主人と同じものになるからである。

 ここで疎外と承認の関係を考える私達にとって何より重要なのは、労働によって自立的対象を自分自身として直観するには「恐怖」に加えて「奉仕」つまり他者を承認する必要性が指摘されている点、換言すれば物・存在における疎外を止揚するために他者を承認する必要があるという点である。この奉仕という契機がなければ、奴隷の労働は前の「欲望」の行為と同じである。労働にもなるほど欲望の抑制はあるが、それは欲望実現のための必要手段に過ぎず奉仕を欠くなら、労働は自分の欲望の満足とはなっても、純粋対自存在の対象化にはならない。奉仕によって自分の「欲望」(個々の対象への依存、執着)を否定し、疎遠な主人の欲望を実現することが初めて労働をして対自存在の対象化たらしめるのである。
 「奉仕」は、承認されるためには、自分もまた相手を承認しなければならない、という対他者関係から生じる<承認する必要性>ではなくて、対自然関係おける疎外を克服するために生じた<承認する必要性>である、ととらえられている点で重要である。

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