講義第2回(14回)  学生の質問に答える



<木村健君の質問>
 運命を受け入れるか/受け入れないか、という選択が行われているとすれば、
さらに、この選択を行うか/行わないか、という選択が行われることになり、これは無限に反復するのではないでしょうか。

返答1:いいえ、無限反復にはなりません。
<矛盾対当選択と反対対等選択>
 選択を次の二つに分けることが出来る。Aをするか/Bをするか、という選択肢以外の第3の選択肢が現実に可能であるような選択を、「反対対当選択」と呼ぶことにしよう。なぜなら、この場合の選択肢は反対対当の関係にあるからである。また、Aをするか/Bをするか、という選択肢以外の第三の選択肢が現実には不可能であるような選択を、「矛盾対当選択」とよぶことにしよう。この場合の選択肢は、矛盾対当の関係にあるからである。
 ところで、Aをするか/Bをするか、という選択肢以外の第3の選択肢が現実に可能であるならば、そのときには、Aをするか/Bをするか、という選択1について、選択1をするか/しないか、という選択2が可能である。なぜなら、第三の選択肢を選択するとき、人は選択1をしないことができるからである。たとえば、もしAがウドンの注文で、Bがソバの注文だとすると、このどちらも注文しないことが可能だからである。つまり、「反対対当選択」については、それについて更に選択することが出来る。
 しかし、Aをするか/Bをするか、という選択肢以外の第三の選択肢が現実には不可能であるならば、そのときには選択1をするか/しないか、という選択2をすることは不可能である。なぜなら、選択1をしないことは、何もしないことであるが、しかしAをすることとBをすることが矛盾対当で第三の選択肢がないのだから、実際には、AをするかBをするかのどちらかをしたことになり、どちらかを選択1したことになる。つまり、選択1をしないことは、選択1をしたことになる。つまり選択1をしないという選択肢が論理的にありえないのだから、選択2は論理的にありえない。つまり、「矛盾対当選択」についての選択は、論理的にありえない。
 ところで、どのような反対対当選択であっても、反対対当選択についての選択2は、矛盾対当選択になる。それゆえに、この選択2についての選択はありえない。
つまり、どのような選択であっても、その選択についての選択についての選択はありえない。ゆえに、木村君が指摘するような、<選択についての選択についての選択についての・・・>という無限反復は、論理的にありえない。
 また、どのような反対対当選択であっても、そこに明示的に挙げられていない選択肢として<AもBもしない>などの、何らかの選択肢を想定することによって、矛盾対当選択とみなすことができる。このような<みなし>、状況の再解釈によって、現実の選択の状況が変化するわけではない。したがって、すべての選択は、矛盾対当選択であるということができる。つまり、いったん選択を迫られたならば、すべての選択において、選択することは不可避なのである。選択は、そのような意味で、強制として現れる。

<ヘーゲルの+A-Aという表記>
 ヘーゲルは、選択をAとBとせず、+Aと−Aとする。もしこれが、我々のいう「矛盾対当選択」を意味しているのだとすると、第三項はないことになる。アンチゴネーの兄の埋葬についての選択は、矛盾対当選択である。埋葬するか/しないか、のいずれかしか選択の余地はない。ヘーゲルが、選択をこのように表記したのは、それが選択することが不可避であり、選択が強制として現れるということを示したかった、ということかもしれない。あるいは、選択の本質が「矛盾対当選択」であることを暗示していたのかもしれない。(それともこれは、ヘーゲリアンの我田引水だろうか。)

<自由意志の触発のアポリアを解決できたのか?>
 意志の自由を、選択における意志の自由と考えてみよう。
 たとえば、理性は勉強することをよしとし、欲望はテレビを見ようとする、という状況で、カントによれば、意志は欲望に触発されてはいるが、欲望に規定されてはいないので、テレビを見ても、欲望に規定されたのではない。言い替えると、テレビを見ないこともできたはずである。
 では、このとき、意志は何によって、規定されたのだろうか。理性ではないだろう。なぜなら、理性は勉強することを命じていたからである。

(ケース1)テレビを見ているときに、テレビを見続けるか/勉強するか、という反対対当選択1をするというケースでは、迷い続けることは、テレビを見つづけることを選択1することになる。
 このケースでは、何も積極的に選択していないのに、選択したことになってしまっているのである。つまり、触発において、選択は行われていないのに、選択したことになってしまっているというケースである。

(ケース2)テレビを見ているときに、テレビを見続けるか/やめるか、という矛盾対等選択1をするというケースでも、迷い続けることは、テレビを見続けることを選択1することになる。
 これも上と同じである。

 この1と2のような場合は、我々は積極的に欲望を選択したというよりも、「欲望に流される」のである。これらが、感性に触発されるというときの、一部のケースだろう。しかし、これで、触発のすべてのケースが説明できる訳ではない。また、以上の考察は、触発の本質に迫るものでもない。

(ケース3)テレビを見ていないで、机に座っているときに、勉強するか/テレビをみるか、という反対対当選択1をするというケースでは、迷い続けるときには、上のどちらもしないのだから、上の選択1をしないことを選択2することになる。それは、たとえば机に向かって考え続けることを選択2することになるだろう。
 ではその後ひとはどうするだろうか。もし彼がいつまでも机に向かって迷い続けているとすると、そのとき、このまま選択1を迷い続けるか/選択1をおこなうか、という選択2が、彼の意識に上ることになるだろう。つまり、先には意識せずに行った選択2を今度は、意識的に行うことになるだろう。この選択2は矛盾対当選択であるから、回避することはできない。この選択2に迷い続けることは、先の選択1を迷い続けることを選択2することになるからである。
 この選択2は、迷い続けること、勉強すること、テレビを見ること、という矛盾対等選択であると考えることができる。この内のどれにするかを、迷うことは、迷い続けることを選択することになる。

 むしろ、問題は、ケース1、2をも含めて、なぜ人は選択に迷うのかということである。




<林君の質問(一部)>
 自由について一般的、抽象的に語ることは難しく、個々のケースでの自由について語るしかないのではないか。そうだとすると、それは哲学というよりむしろ文学になるでしょうか。

答え:よくわかりません。
 人間にとって知は、おそらく、理論と物語に分かれる。大抵の学問は、一般法則などを目標としているので、理論という形態を取る。しかし、また、歴史は、物語形式をとる。
 我々の知の中で、あきらかに物語形式でなければならないとおもわれるものは、「私とは誰か」という自己のアイデンティティーに関する知である。私が誰であるかは、私についての属性(つまり、性別、年齢、住所、職業、身長、体重、健康状態、写真など)を集めても、私のアイデンティティーに関する知にはならない。そのためには、私の履歴が必要である。私が、これまでどのような人生を送ってきたかという物語が必要である。これは、私が帰属する集団のアイデンティティーについても同様だろうし、国家のアイデンティティーについても同様だろうし、これらの私的な物語、集団の物語、民族の物語は、さらに世界史という一つの物語に結び付けられることになるのだろう。
 ヘーゲルの哲学は、理論というよりも物語形式をとるといえる。このことは、彼の歴史哲学に限らない。『精神現象学』がすでにそうである。『論理学』も『エンチクロペディー』もまた、「概念」の「発展」を語るのである。ヘーゲルにとっては、知の形態としては、むしろ「物語」が基本的なものなのであり、その中で知のある段階(悟性の段階)として「理論」が知の形式となる。
 さて、問題は自由である。自由を定義するのに、物語形式が必要であるのかどうか、ということである。ヘーゲルは、物語形式が必要だと考えたのだと思われる。これは、「発生的定義」に分類されるだろう。
  {注:「発生的定義genetic definition」
  「これは明示の示す対象の発生や成立の条件を挙げる方法である。「円とは、  一点が他の一定点の周囲を常に同じ距離を保ちながら運動することによって  生ずる平面図形である」この定義は、生物学、社会科学、歴史学などでよく  使用される。「独占資本」は、それが形成された条件や状況を挙げることに  よって的確に定義である。「子葉とは種子の発芽に際して最初に現れる葉状  の機関である」は、子葉の発生的定義である。しかしこの定義の使用には注  意が必要である。事物の発生や成立の条件や事情は、必ずしもその事物の本  質であるとは限らないからである。「人間」を猿のような動物から進化した  のであると発生的に定義することは、現在の人間の本性をとらえたことには  ならない。」(近藤洋逸『論理学概論』岩波書店、18)}

 しかし、たとえば、ヘーゲルは、さきに引用したように自由をつぎのように定義していた。
  「自由の本質及びその形式的な定義は正に、絶対的に外的なものが何もない   ということである。」(『自然法論文』)
これは、実質的定義であって、発生的定義ではない。 また、『精神現象学』で述べられている「承認の純粋概念」は、「承認」の実質的定義であって、発生的定義ではない。
 では、ヘーゲルが物語的に描こうとしているのは、これらの自由や承認が成立するプロセスだけなのだろうか。おそらくそうではないだろう。この定義を概念把握するためには、物語的説明が必要だということである。
 たとえば、「絶対に外的なものが何もない」といっても、他者が存在するにもかかわらず、どうして他者が外的なものでないのか、を理解しなければ、この命題を理解することはできない。また、たとえば、刑罰を受けても、ある行為を刑罰として理解するためには、過去の犯罪に対する罰であることを認識していなければならない。
 ダントやウリクトの言うように、一般に行為の理解は物語的である、といえるならば、行為によって成立する相互承認を説明するには、物語形式を必要とすることになる。
 (ウリクトの指摘では、意図と行為の関係を、実践的三段論法の前提と結論と  してとらえるとき、それらの命題を理解するには、他の命題に言及する必要  がある。「行為の因果説」をめぐる議論を「意志の自由論」の視点から見直  してみる必要がありそうだ。)

 ところで、抽象的で一般的な物語というのは、ありえない。物語は常に個別的である。そうだとすれば、ヘーゲルの説明は、範例的なものにならざるをえないだろう。そうして、自由もまた、範例的にしか説明できないだろう。それゆえに、(林君が指摘するように)個々の自由に共通の意味を一般化、抽象化することは、困難であるということになるのだろう。それらには、家族的類似性しかないのだと思われる。