講義第3回(第15回)  学生の質問に答える(その2)



10月12日 現代思想文化学博士課程前期1年 木村健君 の質問

1 「行為選択の無限反復に関する質問」への返答に関して

 矛盾対当選択と反対対当選択という区分けを用いた解決案は、明快でした。これは、カントの自由論のアポリア(「「我々が、意志決定する時には、その背後に一般的な規則がある」という立場は、矛盾している」)にも、適用可能なのではないでしょうか。例えば、「格律の採用のための格律の採用のための格律の採用のための…」と遡行・連鎖するかに見える「格律」は、そのどこかで矛盾対当選択によって、採用されている、といった具合に。
 ただ、この説明に対しては、次のような2点に関して、少し違和感が残ります。
 @矛盾対当選択において、「ある事柄を選択しないこと」と、「選択自体を保留し続けることが、結局、ある事柄を選択した(しない)ことになってしまうこと」とは、その当事者にとって、意味が異なるのではないのか、ということ。
 Aもし、選択自体を保留し続けることが、ある種の選択になっているのならば、日々の暮らしの中で、私達は、知らないうちに(こうして座っている「今」でさえも)、無際限な選択をしていることになり(例えば、「内閣に対する不信任の声を上げていない」、「飢餓に苦しむ人達に、援助の手を差し伸べていない」…等々)、そのことで、ある種の「責任」を負わされる可能性が、常にあり得るということ。
 アンスコムやデイヴィドソンのように、「ある振る舞いは、当事者の認めるある記述のもとでのみ、意図的である」とするならば、「選択したことになってしまうこと」は、当事者の「意図」の結果ではないでしょう。また、「不可避的に選択しなければならないこと」や「知らずのうちに選択したことになってしまうこと」が、「真の自由」に繋がっているという(十A,一Aを用いた、へ一ゲルの?)理屈は、何か釈然としません。
 過去に遡って、「意図的であった」とか「自由であった」とかを語るのではなく、将来に向けた「意図」や「自由」の語り口は、如何にして可能なのだろうか、とも考えています。「将来、私は〜出来る(だろう)」という実感こそが、計画や契約・約束などの根底にあるようにも思えるからです(だが、この「実感」の正体が、謎なのです)。


2 「受け入れられるような運命」と「受け入れられないような運命」に関して

 講義ノート50ぺ一ジで、先生の言われる、「受け入れられないような運命」や「和解すべきでない運命」は、確かにあるようにも思えるのですが…。しかし、私達は、どのようにして、「受け入れられる一られない」、「和解すべき一すべきでない」といった判断を為し得るのでしょうか。また、私達は、そのような判断が可能な、いわば超越的な位置に立つことが出来るのでしょうか。

<質問1への回答>
*たとえば、<定言命法を格律として採用するか、しないか>という選択1は、矛盾対当選択であり、<この選択をするか、しないか>という選択aは有り得ない。なぜなら、この選択1をしないことは、定言命法を格律として採用しないことを選択することになるからである。ところで、<この選択1のために格律1を採用するか、どうか>の選択2は、先の選択aとは異なっている。この選択2もまた矛盾対当選択であるから、メタレベルの選択bはない。しかし、<この選択2のために格律2を採用するか、どうか>の選択3は、先の選択bとは異なる。
 従って、矛盾対当選択と反対対当選択の区別の導入だけでは、カントの格律の採用をめぐるアポリアは、解決できないように思われる。

*「@矛盾対当選択において、「ある事柄を選択しないこと」と、「選択自体を保留し続けることが、結局、ある事柄を選択した(しない)ことになってしまうこと」とは、その当事者にとって、意味が異なるのではないのか、ということ。」

 その通り。では、たとえば、地震が始まったときに、<家の外に逃げ出すか、家の中にとどまるか>を迷うことが、結局家の中にとどまることを選択することになってしまう、というとき、<当事者にとって、この二つの意味が異なる>とすれば、何が異なるのだろうか。
 異なるのは、<家の中にとどまった>という事実ではなくて、その原因ないし理由である。一方は、<それがより安全だと判断した>ことがその理由であり、他方は、<迷い続けた>ことが原因である。後者の場合に、迷い続けたことは、<家の中にとどまった>ことの原因であって理由ではない。

*「Aもし、選択自体を保留し続けることが、ある種の選択になっているのならば、日々の暮らしの中で、私達は、知らないうちに(こうして座っている「今」でさえも)、無際限な選択をしていることになり(例えば、「内閣に対する不信任の声を上げていない」、「飢餓に苦しむ人達に、援助の手を差し伸べていない」…等々)、そのことで、ある種の「責任」を負わされる可能性が、常にあり得るということ。」
 これは、違和感を覚えることというよりも、むしろまったく正しいこと、しかも重要な事柄のように思われる。たとえば、我々は、傍観者であることの責任を負う必要がある。
 選択を保留する時には、<選択に迷い続ける>ことが原因で結果としてそうなる場合と、何らかの理由で意図的に選択を保留する場合とがある。しかし、もし我々が、ある結果を予見しようと思えば予見できたのだとすれば、このどちらの場合にも、我々にはその結果に責任があるだろう。(予見できるかどうかは、我々の予見能力と客観的な状況との組み合わせに依存する。)ちなみに、この責任には、責められる場合だけでなく、誉められる場合もある。たとえば(適切な例かどうかわかりませんが)、結果として平和憲法を守ってきたこと、結果として犯罪のない社会をつくってきたこと、貧富の格差の少ない社会をつくってきたこと、など。
 
 確かに、あることを「選択したことになってしまう」時には、上述のようにその原因はあっても意図はないので、おそらくアンスコムならば、当事者の「意図」の結果ではなく、それ故に、それは当事者の行為ではない、と言うだろう。しかし、他方で、上述のように、我々は(予見可能な場合には)その結果に対して責任がある。
 では、<責任の範囲は、意図的な行為の領域を越えて広がっている>というべきなのだろうか。それとも、「選択したことになってしまう」場合にも、いわば消極的に選択が行われているのであり、「未必の故意」が成り立っているのだと、言うべきなのだろうか。

(ちなみに、「不可避的に選択しなければならないこと」や「知らずのうちに選択したことになってしまうこと」が、「選択の自由」への批判になるとか、ヘーゲルのいう「真の自由」に繋がっていると考えているのではありません。


*「「将来、私は〜出来る(だろう)」という実感こそが、計画や契約・約束などの根底にあるようにも思えるからです(だが、この「実感」の正体が、謎なのです)。
」について

 確かに、「将来、私は〜出来る(だろう)」という実感が、計画や契約・約束などの根底にある。しかし、重要なのは実感ではなくて、そう判断することはないでだろうか。実感は、ひとがそう判断するときの根拠の一つになりうるだけであって、不可欠の要素ではないのではないか。たとえば、ひとは実感がなくても、「私は、30年の住宅ローンを返済できるだろう」と判断して、お金をかりたり、また実感がなくても、「私は、一生一緒に生活するだろう」と判断して結婚するだろう。むしろ、約束するときに必要なのは、判断であり、あるいは、十分な根拠がなくても決意するということなのではないか。


<質問2への回答>
問題「私達は、どのようにして、「受け入れられる一られない」、「和解すべき   一すべきでない」といった判断を為し得るのか」

 この問題はたいへん重要だが、承認の問題であるので、ヘーゲルの承認論を検討した後に、改めて論じたい。




注:ヘーゲルの年譜
参照:『現代思想 総特集=ヘーゲル』1978.12、
              『ヘーゲル事典』弘文堂 

1770年 8月27日主税局書記官の長男として、シュトゥットガルトに生まれる。
1775年 ラテン語学校にかよう。
1777年 シュトゥットガルト・ギムナジウムに入学。
1783年 母死亡。
1788年 チュービンゲン神学校入学
1790年 冬学期は、ヘルダーリン、シェリングおよび他の7名と共に、大部      屋に居住
1793年 ベルンで家庭教師となる。
1796年 7月25日からアルプス旅行
    秋シュトゥットガルトにかえる。
1797年 フランクフルトで家庭教師となる。
1801年 1月イエーナにうつる
      冬学期より、イエーナ大学私講師となる。
      『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』(1801.5-7執筆、1801.      9公刊)
1807年 『精神の現象学』(キンマーレによれば、1805.5-1807.1執筆、ハリスによれ      ば1805早期執筆、1806印刷開始、1807.4公刊)
      3月 バンベルクに移住し、『バンベルク新聞』の編集者となる。。
1808年 ニュルンベルクのギムナジウムの校長となる。
1812年 『論理学の体系』(有論の初版)
      (1812.3.22に序文脱稿、1812.4.19-5の頃公刊)
1813年 『論理学の体系』(本質論)
      (1812.3印刷開始、1812.12印刷終了、出版は1813初めか) 
1816年 『論理学の体系』(概念論)
      (1816.7.12脱稿、1816初秋公刊)
      10月ハイデルベルク大学の教授になる。
1817年 『(ハイデルベルク)エンツュクロペディー』(1817.6公刊)
1818年 ベルリン大学教授となる。
1820年 『法の哲学の要綱』(1820.6.25 序文脱稿 1820末に発行)
1827年 『エンツュクロペディー』(第二版)(1825/26の冬から改訂の構想      を始める。1827.5.25に序文脱稿。1827.7初め公刊)
1830年 『エンツュクロペディー』(第三版)
(1830.9.18序文脱稿。1830.10.1までには印刷終了。)
1831年 11月14日コレラのため死亡。
1832年 『論理学の体系』(第二版)
      (1831.11.7第二版序文を脱稿、死後1832公刊)