§番外篇 責任について


本日は、都合により、「責任について」話すことにします。 まとまりのない、雑談です。



0、刑事責任は、故意の権利侵害について生じる。(「責任なければ刑罰なし」という刑法上の原則を「責任主義」という。違法性の意識のある/なしと、故意と、責任の関係について、諸説があるようだ。)
 民事責任は、故意の権利侵害と過失による権利侵害について生じる。(疑問:では、民事では、過失でも賠償責任が生じるのはなぜなのだろうか。
 過失によって、他人に損害を与えたときに、かれが刑事責任を問われないということは、このときその損害は、彼の責任ではない、ということにならないのだろうか?
 
1、カントにおける「責任」
(1)カントの道徳性と適法性の区別によるならば、法では、故意であれ、過失であれ、行為が法に従っているかどうかだけが問題である。しかし、上の区別では、刑法では、行為の意図が問題になる。これをどう考えたらよいだろうか。
 カントのいう道徳性と適法性の区別は、合法的な行為の内部の区別であり、刑事責任と民事責任の区別は、違法な行為の内部の区別である、というように区別できるのではないだろうか。

(2)カントの『人倫の形而上学』のなかに次の一説がある。
「法律に対するどんな違反も、犯罪者のある格律(そうした悪行をみずからの規則とするという)から生ずるものとして以外には説明され得ず、また説明されてはならない。なぜなら、もしこの違反が感性的衝動から導出されるとしたならば、それは自由な存在者としての犯罪者によって行われたものではなく、したがって彼に責任を帰することは出来なくなるであろうから。しかし、主体が立法的理性の明らかな禁令に反して右の格律を抱くということはいかにして可能であるのか、という点については、絶対に説明され得ない。なぜなら、自然のメカニズムにしたがって生ずるような出来事だけが説明可能だからである。」(中公バックス、461)

 前期に、感性的衝動に触発されるとは、どういうことか、ということを問題にした。その時には、(過失で見落としていたのだが)触発されて何かを決定するときも、我々は格律に従っているはずである。カントの主張ではそうなる。そうすると、ある時には、我々は、触発されて衝動に従い、ある時には、触発されても衝動に従わない、ということがあるが、このいずれの場合にも同じ格律に従って意志決定しているということになる。これは、どこかおかしいのではないだろうか。
 
 ところで、過失とは、<ある行為をする能力(ある行為を避ける能力)があり、かつその行為をしようとする意図(避けようとする意図)もあったにも関わらず、その行為をしなかったこと(してしまったこと)>と定義できるのではないか。
 では、このような過失は、いかにして可能か。もし過失が、自然的な因果性によって生じるのだとすれば、その過失者には責任がないことになる。もし、過失が、(もちろん意図によるのでなく)、自然的因果性によるのでもないとすると、過失はいかにして可能なのか。
 過失は、注意義務を怠ったことからくる、といえそうである。たとえば、居眠り運転は過失ではなくて、居眠り運転してしまいそうであることが予期できたにも関わらず、それに対処しなかったことが過失なのである。
 注意義務を怠るのは、意図的な行為であり、過失は意図的な行為からの帰結であるので、それに対して責任をもつということだろうか。

 問い「注意義務を怠ることは、怠惰だろうか?」
 問い「怠惰は意図的な行為だろうか?」


注1:怠惰について、フィヒテの悪論
(ここでは、上の怠惰との関連で、フィヒテの悪論について紹介する。責任というテーマは直接に関係しないが、フィヒテの悪論について紹介したいと思いながらも、適切な機会がなかったので、ここに紹介する次第である)

フィヒテは、次の3つを根本的な悪と考える。
  怠惰(―勤勉)
  臆病(―勇気)
  虚偽(―誠実)

根源的な悪:怠惰
「反省することに対する、根源的な怠惰(Traegheit)」
「また(そこから帰結することだが)この反省にしたがって行為することに対する根源的な怠惰」
これらの怠惰が、「真の積極的な根源悪」199である。

「いかなる人間も、最も強く能動的な人間ですらも、それなりに自堕落なところがあり、生涯にわたってこれと戦わなければならない。これは、われわれの自然本性の惰性力である。たいていの人間にみられる規則性とか秩序とかすらも、静止への性向、慣れたものへの性向以外の何者でもありえない。」200

「長い間の習慣によって、無限にわたって再生産される惰性、すぐさま善に対する全面的な無能力になってしまう惰性、これこそが、真の生得の悪、つまり人間の自然本性自身の中に存する根源悪である。」202

第二の悪:臆病 Feigheit
「この惰性から最初に発現するのが、人間の第二の根本的重荷としての臆病である。臆病とは、我々の自由と自立性が他人のそれと交互関係にあることを主張する、という惰性である。」202
「彼らには、抵抗が彼らになさしめる努力は、奴隷状態よりも苦痛がより大きいと感じられる、そこで彼らは、奴隷状態に甘んじ、その状態にいつづけようとするのである。」202

第三の悪:虚偽性 Falschheit
「臆病な人は、心底から服従するわけではないのだが、このように服従する際、なかんずくこう知と欺まんとで、自らを慰める。なぜなら、臆病さから自然に発生する人間の根本的重荷は、虚偽性だからである。」203

2、ヘーゲルにおける「責任」概念
 『法哲学』からの引用
 「自分の行いTatのもろもろの前提のうち、ただ自分の目的の中で知っているもの、自分の企図のなかにあったものにだけ、責任を持つということである。行いはただ意志の責任としてのみ(私に)責めを帰されうる。これがすなわち、知の権利である。」(『法哲学』§117)
 「自分の父をそうとは知らないで撃ち殺したオイディプスは、親殺しとして告発されるべきではない。だが、古代の法律ではこんにちほど、主体的なもの、責めを帰すること、に対して価値をおきはしなかった。それだからこそ、古代の人々のもとでは、復讐を逃れるものが、受け入れられ守られるようにと、避難所Asylが生じた。」(§117 Zusatz)

 『エンチクロペディー』から引用。
 「主観的意志は、行為の外面性において、ただ自分が知っており、かつ自分が意欲したものだけを、自分自身のものとして承認し自分の責任に帰するのである」(§503)
 「外面的現存在もまた主観に対して独立的であるから、行為(Handlung)が直接に現存在に関わる限り、私自身のもの(das Meinige)は形式的である。この外面性は主観の行為を転倒し、主観が行為においてもくろんでいたものとは別のものを出現させる。たといあらゆる変化が、主観の活動によって措定される変化として主観の行いであっても、それだからといって主観はこの行いを自分の行為として承認しないで、行いにおける現存在のうち、ただ自分の知と意志との中に含まれていた現存在、すなわち自分の企図であった現存在だけを、自分自身のもの(das Seinige)、自分の責任(Schuld)として承認する。」§504

主観が、自分の行いの中で、
  「自分の知と意志との中に含まれていた現存在」
   =「自分の企図であった現存在」だけを
「自分自身のもの Meiniges」、「自分の責任」として「承認」する。

 ところで、このような責任概念は、道徳性の段階のものであって、人倫性の段階で責任を捕らえようとすると、違ったものになるだろうと思われる。では、どうなるのか(それは宿題にします)。