後期第五回講義(16回講義) 
      §16   ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」の章の承認論(その2)
                   ―― コジェーヴの解釈 ――


           コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』上妻精、今野雅方訳、国文社
           以下の引用のページ数は、この本のページ数である。

 アレクサンドル・コジェーヴ(Alexandre Kojeve)は、1902年モクスクワに産まれ、10月革命のとき家族と共にドイツに亡命。ハイデルベルクで、リッケルトにつき失望し、ヤクパースのもとで学位を取得。20年代の終わりにフランスに移り、ソルボンヌで本格的なヘーゲル研究をはじめる。アレクサンドル・コイレ(1892ー1964)と出会い、影響を受ける。1933年から39年までの6年間パリの高等研究院でヘーゲル哲学講義を行った。聴講生には、A・コイレ、R・アロン、G・バタイユ、P・クロソウスキー、J・ヴァール、J・ラカン、M・メルロ=ポンティ、E・ヴェール、R・クノー、R・カイヨワ、J・P・サルトルなどがいた。(訳書「あとがき」より)

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         1 コジェーヴの欲望論

・人間は自己意識である
 コジェーヴは、「人間は自己を意識し、人間としての実在性と尊厳とを意識している」11ことによってのみ、人間であるといい得るのだと考えて、「人間とは自己意識である」11という。これに対して動物はたんなる「自己感情」しか持たないものとみなされる。
 では、人間が自己意識を持つのは、どのようにしてかといえば、コジェーヴは、それは人間が「私は・・・」というときに、はじめて自己意識をもつのだという。

  {これに対しては、一人称の使用は、言語修得の中でかなり後になるので、そ れ以前の段階で、
   自己関係=自己意識が成立しているという主張(ヘンリッ ヒ)もある。つまり、「私は、・・・」と言わ
   なくても、言語を使用すると きには自己意識はすでにある、という主張である。これを言い替える
   と、対象認識においても統覚としての自己意識が成立しているはずだ、という主張になるだろう。
   これに対して、コジェーヴならば、それは自己意識ではない、というのだろうか。}

・欲望が、「私は」と言わせ、自己意識を成立させる。
 では、人間が「私は・・・」と語り始めるのは、どのような時だろうか。コジェーヴは、それは、対象を認識しているときではなくて、対象を欲望しているときであるという。
「観想する人間は自己が観想する対象に「呑み込まれ」、「認識主観」は認識される対象の中に自己を「喪失」している。観想は対象を開示するが、主観を開示しはしない。」11
「自己が観想する対象に「呑み込まれ」ている人間は、ある欲望、たとえば食欲によらなければ、「自己に呼び戻される」ことが出来ない。ある存在者をして「我は・・・」と言わせ、それによってこの存在者を自我として構成し自我として開示するものは、この存在者の(意識された)欲望である。」11

・自我は、欲望の自我である
コジェーヴによれば、自己意識とは、自己を欲望として意識することである。従って、自我とは、欲望からなっている。「人間が自我として、本質的に非我と異なり根本的にそれと対立する自我として・・自己自身および他者に対し・・自己を構成し自己を開示するのは、「自己の」欲望の中で、「自己の」欲望により、より適切には、「自己の」欲望としてである。(人間の)自我とは、ある欲望の・・あるいは欲望そのものの・・自我なのである。」12

・動物的欲望と動物的自我
 ところで、欲望ならば、人間に限らず動物も持つだろう。しかし、動物的欲望は、自己感情を生み出すだけであって、自己意識を生み出さないという。その理由を彼は、次のように言う「欲望が行動により充足されることによって創り出される自我は、この欲望が向かう物と同一の本性を備えることになろう。」つまり、物に向かう欲望は、「「物のような」自我、ただ生きているにすぎない自我、動物的自我」13と生み出すだけであるというのである。

 それでは、自己意識が成立するには、人間は何を欲望すればよいのだろうか。それは少なくとも「非自然的な対象」「所与の実在を越えた何物か」でなくてはならないだろう。では、それは何だろうか。コジェーヴはここで次のように言う。
「この所与の実在する物をこえる唯一のものは、欲望それ自身である。なぜならば、欲望としてとらえられた欲望、つまり充足以前の欲望は、実は開示された無にすぎず、非実在的な空虚でしかないからである。」13
 この文章は論理的におかしい。なぜなら、欲望が「非実在的な空虚」であり、「所与の実在する物をこえる物」であることを認めるとしても、それが唯一のそのようなものであるということにはならないからである。実在しない物で、欲望の対象になる物ならば、世の中にいくらでもあるだろう。例えば、真、善、美、聖、名誉、権力、勇気、知恵、などなどである。(この疑問には後に解答が与えらえる。)

 ともあれ、コジェーヴは、欲望への欲望についてつぎのように語る。
「欲望としてとらえられた他者の欲望に向かうこの欲望は、己自身を充足せしめる否定的かつ同化的な行動により、動物的「自我」とは本質的に異なった自我を創り出すであろう。」13
「欲望が所与を否定する行動として実現される以上、この自我の存在自体が行動であることになろう。この自我は、動物的「自我」のように、自己「同一性」もしくは自己同等性ではなく、「否定する否定性」となるであろう。換言すれば、この自我の存在自体が生成となり、この存在の普遍的形式は空間ではなく、時間となろう。従って、この自我が現存在において自己を維持することは、この自我にとっては「(静的かつ所与の存在として、自然的存在として、生得的性質として)あるところのものにあらず、在らぬところのものである(つまり生成である)」ということを意味することになろう。」13f
    {この「あるところのものにあらず、在らぬところのものである」という表現は、サルトルの『存在と
     無』で「対自存在」の定義となる。}

 この「他者の欲望に向かう欲望」については、より詳しく次のように説明されている。
「例えば、男女間の関係においても、欲望は相手の肉体ではなく、相手の欲望を望むのでないならば、また相手の欲望を欲望としてとらえ、この欲望を「占有」し、「同化」したいと望むのでないならば、すなわち、相互に「欲せられ」「愛され」ること、あるいはまた自己の人間的な価値、個人としての実在性において、「承認され」ることを望むのではないならば、その欲望は人間的ではない。」15
  {この欲望の再帰性を強調するならば、次のようになる。
   つまり、愛とは、相手に愛されたいという私の欲望である。つまり、私に愛されたいと相手が欲望
   することを私が欲望することである。さらに言えば、相手に愛されたいと私が欲望することを相手
   が欲望することを私が欲望することである。}
   
「同様に、自然的対象に向かう欲望も、同一の対象に向かう他者の欲望によって「媒介され」ていなければ人間的ではない。すなわち、他者が欲するものを他者がそれを欲するがゆえに欲することが、人間的なのである。このようなわけで、(勲章とか敵の旗など)生物的な観点からはまったく無用の対象も、他者の欲望の対象となるから欲せられうる。」15
 
 林檎を食べたいと欲望するのであっても、それが他者がおいしそうに食べているから、ほしくなるのであれば、これは「他者の欲望に媒介された人間的な欲望」であることになる。さきに述べた、真、善、美、などなども、それらへの欲望が「他者の欲望に媒介された人間的な欲望」であるならば、「欲望への欲望」の中に含まれることになるだろう。ところで、コジェーヴが「所与の実在する物をこえる物」への欲望には、唯一欲望への欲望しかないと述べていたことは、非自然的な物への欲望は、すべて「他者の欲望に媒介された欲望」であると主張していたことになる。真、善、美、などなどへの欲望が「他者の欲望に媒介されていない欲望」であると考えることを、「ロマンティークの虚偽」とよび、それらがすべて「他者の欲望に媒介された欲望」であることを主張することを「ロマネスクの真実」と考えたのは、ジラール(1923ー)である。

・人間の証明
 コジェーヴは、ヘーゲルにならって、次のように言う。
「人間が真に人間的であるためには、人間が本質的にも現実的にも動物と異なるためには、その人間的欲望が実際に人間の中で人間の動物的欲望に打ち克つ必要がある。」
「ところで、いかなる欲望もある価値をめざした欲望である。動物にとっての至高の価値はその動物的生命であり、動物の全ての欲望は、究極的には、その生命を保存しようという動物の欲望に依存している。したがって、人間的欲望はこの保存の欲望に打ち勝つ必要があるわけである。換言すれば、人間が人間であることは、彼が自己の人間的欲望に基づき、自己の(動物的)生命を危険に晒さなければ「証明」されない。」15
 人間の中に、人間的欲望と動物的欲望があると言えるのだろうか。ジラールや丸山圭三郎ならば、人間の欲望は、すべての模倣欲望であり、動物的欲望、本能としての自然的欲望は存在しないと言うだろう。それでは、人間はなぜ生に執着するのだろうか。生への欲望は、本能的な欲望のようにおもわれるが、これもまた模倣欲望なのだろうか。逆にいうと、死への恐怖もまた、動物的な恐怖ではない、というべきなのだろうか。死を恐れるのが、あるいは死を恐れることが出来るのが、人間だけだとすると、その裏返しである、生への執着もまた人間だけのものであるということになるだろう。
 ところで、人間は、生命を越えたものを欲望せざるを得ない。なぜなら、人間は必ず死ぬ、といことを知っているからである。生きることだけを欲望しても、その欲望は、つねに挫折する。そうだとすれば、ただ生きるだけでなく、それ以上のことを欲望するしかないだろう。つまり、死を意識し、それをおそれるからこそ、生への執着が生まれるのだろうが、他方では、死を意識し、生を断念するが故に、非自然的な不死性を求め、非自然的な欲望を持つのかもしれない。