後期第六回講義(17回講義) 
      
§16   ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」の章の承認論(その2)
                   ―― コジェーヴの解釈 ――
                      (前回の続き)


             つづき
・承認への欲望
「ある欲望を欲するとは、この欲望によって欲せられた価値に取って代わろうと望むことである。なぜならば、この取って代わるということがなければ、価値すなわち欲望せられた対象が欲せられることがあっても、欲望それ自体が欲せられることはないからである。したがって、他者の欲望を欲すること、これは、究極的には、私がそれである価値もしくは私が「代表」する価値が、この他者によって欲せられる価値でもあることを欲することになる。すなわち、私は他者が私の価値を彼の価値として「承認する」ことを欲するのであり、私は彼が私を自立した一つの価値として「承認する」ことを欲するのである。換言すれば、人間的欲望は、終局的には、「承認」への欲望に基づいている。」16
 他者の欲望を欲望すること
   =他者の欲望の対象となりたいと欲望すること
   =他者によって欲せられる価値になりたいという欲望
   =他者によって承認されたいという欲望
   =承認への欲望
 「私がそれである価値もしくは私が「代表」する価値が、この他者によって欲  せられる価値でもある」
   =この他者が私のようになりたいと欲するということ
   =他者が私にあこがれ、私を模倣することを欲するということ
   =模倣されたいという欲望(=模倣への欲望?)

別のところでは、次のように言われている。
「人間としてある物を欲する人間は、物を我が物とするためよりはむしろーー後に言うように −−この物に対する自己の権利を他者に承認させ、物の所有者として自己を承認させるために行動する。それは結局は、他者に対する自己の優位をその他者に承認させるためである。これはそのような承認を求める欲望に他ならない。」55

・生死を賭けた戦い
「人間的欲望、人間の生成をもたらす欲望、自己意識つまりは人間的実在性の産みの親としての欲望は、いかなるものであれ、終局的には「承認」への欲望に基づいている。人間的実在性が「証明」される機縁となる生命を危険にさらすことは、このような欲望によって惹起される冒険である。従って、自己意識の「起源」について語ること、これは、必然的に「承認」を目指した生死を賭しての闘争について語ることになるのである。」16

      2、主人と奴隷の弁証法としての歴史論

・歴史の始まり
「人間は自己の非生物学的欲望を充足せしめるめにた自己の生物学的な生命を危険に晒すことになろう。」
「歴史的かつ自己自身を意識する人間的な現存在は、血の闘争、尊厳を求める戦争のあるところ、あるいは−ーすくなくとも−ーあったところでなければ不可能である。ヘーゲルが『精神現象学』を脱稿しようとしているときに聞いた砲声もまたこの闘争の一つが発した音だったのであり、その中で彼は自己を意識し、「我とはなんであるか」との問に答えたのであった。」56
  (この講義をしていた(1938ー39において、コジェーヴもまた、砲声をそのよ   うに聞いていたのだろうか)

「  1、言葉による所与存在の開示が現存在すること
   2、所与存在を否定し変貌せしめる行動を生み出す欲望が現存在すること
   3、相互に欲し合うことのできる数多の欲望が現存在すること
   4、主の欲望と奴の欲望との相違の可能性が現存在すること
これら4つの前提を認めるならば、ある歴史的過程の可能性、全体としては闘争と労働との歴史であり、終局的にナポレオン戦争と既述の机、つまりその上でヘーゲルがこの戦争と他ならぬこの机を把握するために『精神現象学』を書いたその机とに帰着する一つの歴史の可能性が把握される。」58

・歴史の始まりと終わり
「これまでの内容をつぎのように要約することができる。すなわち、主と奴との出現に帰着した最初の闘争とともに、人間が産まれ、歴史が始まった、と。・・・そして世界史、人間の相互交渉や人間と自然との相互交渉の歴史は、戦闘する主と労働する奴との相互交渉の歴史である。そうである以上、歴史は主と奴との相違、対立が消失するとき、もはや奴をもたぬために、主が主であることをやめるとき、そしてもはや主をもたぬために、奴が奴であることをやめ−ーさらにはもはや奴がいない以上新たに主にもならぬとき、歴史は停止する、と。」

・歴史の3期
歴史の始まり=「闘争とそれに続く主による奴の支配」59
第一期=「人間的現存在がまったく主の現存在によって規定される時期」59
     主であることが、己の可能性を実現し、己の本質を開示する。 
     非キリスト教的世界(古代ギリシャ)
第二期=「人間的現存在が奴の現存在によって規定される時期」59
     奴であることが、己の可能性を実現し、己の本質を開示する。 
     キリスト教的世界(古代ローマからフランス革命ーナポレオンまで)
第三期=「中和化され、総合的となった人間的現存在はそれ固有のもろもろの可   能性を行動によって実現し己れ自身を己れ自身に開示することになる」60
      (ナポレオン後の世界)
歴史の終末=「主であることと奴であることとの総合であり、この総合の把握」   60 (ヘーゲルによる絶対知の成立)


・非キリスト教的社会からキリスト教的世界への転換
 (第一期から第二期への移行)
 ギリシアの都市国家からローマ帝国へ
「非キリスト教的社会の本質的性格は、それが主の国家であり、主の社会である、という事実によって限定されている。非キリスト教的国家は、その公民として主だけを承認する。戦争を遂行する者のみが公民であり、戦争を遂行する者は公民だけである。」75
「非キリスト教的国家は、公民の中に人間的現存在の普遍的側面だけを承認する。」
「主の現存在の個別的な側面が属するのは、−−非キリスト教的な主のところでは、−−家族である。」

家族(family)の語源は、家奴である。家の中には、多くの奴隷がいた。
彼らは、経済活動の担い手であり、私的な領域を形成していた。
(この議論は、アーレントの『人間の条件』での公共性の議論に似ている。)

古代では、次のような図式になっている。
  主人 − 公民− 普遍性 − 国家
奴隷 − 私人 − 個別性 − 家族

「非キリスト教的世界においてこの葛藤は不可避かつ解決不能である。すなわち、自己の存在の個別性を放棄できない以上、人間は家族を放棄することが出来ず、また自己の行動の普遍性を放棄できない以上、国家を放棄することもできない。このようなわけで、人間はつねに国家が家族かのいずれかに背くものになる。これが非キリスト教的生の悲劇的な性格をなしているものである。」79

このように、公私の矛盾対立がギリシア悲劇のテーマである。
「この葛藤は必然的に死に、この世界の完全な崩壊に帰着してしまう。」79

「皇帝の個別主義が、公民としての彼らを「廃棄」し自己世襲財産の一部をなす「個別者」へ、「私人」へと変換せしめるとき、彼らはもはやこの帝国の個別主義に抵抗することができなくなる。」80

「古代の公民は、権力者の奴になってしまう。それも、すでにそうであるがために彼らは奴になる。実際、主であること、これは闘争することであり、自己の生命を危険に晒すことであった。従って、もはや戦争に加わららなくなった公民は主であることをやめており、だからこそ彼らはローマ皇帝の奴になるわけである。彼らが、彼らの奴のイデオロギー、すなわちまず最初は、ストア主義、ついで懐疑主義、そして−−最後に−−キリスト教を受け入れるのもまたそのためである。
」81

「主であることを基盤とする非キリスト教的人間が、奴であることを基盤とするキリスト教的人間となった、しかも闘争なしに、本来の革命なしになった。それは、主自身が奴となったからであり、より正確に言うならば、彼らが疑似的−奴もしくは、疑似的−主となったからである。」81
「この主なき奴、この奴なき主、−ーーこれがヘーゲルがブルジョア、私有財産家と呼ぶものである。」

 ところで、キリスト教には、奴隷の道徳という側面とは別に、もう一つの側面があった。ヘーゲルは、キリスト教によって「主体性」の概念が西洋に登場したと述べていたが、これをコジェーヴは、「個体性(Individualitaet、個人性)」と解釈している。(PGの「個体性」の用法を確認すべし。)
 このことは、アーレントが、キリスト教において、意志、および意志の自由がはじめて問題になった、と指摘していたことと対応する。主体的な個人は、自由な意志によって、成立するからである。

 「キリスト教は何よりもまず、主−公民のもつ非キリスト教的普遍主義に対する、個別主義的、家族主義的、奴的な反動であるが、キリスト教はそれ以上のものである。キリスト教には、個別者と普遍者との総合、すなわち主であることと奴であることとの総合の観念も含まれている。個体性の観念、すなわち人間に至高かつ決定的な「充足」をもたらしうる唯一のものである。」85

 では、「個体性(個人性)」が、個別者と普遍者の総合、主人と奴隷の総合であるとは、どのようなことだろうか。確かに、近代的個人は主人でも奴隷でもなく、近代的個人の間でこそ、真の相互承認が可能になるのだと言えるだろう。
 近代社会において、家の国家の対立・矛盾(悲劇)がなくなったのはなぜだろうか。それは、一方では、家が、奴隷を含んだ大家族ではなくて、近代家族になったことと関係しているだろう。また、他方では、国家が、民主主義国家になったことが関係しているだろう。
 つまり、個人が、家族と国家に共通の原理となることによって、家族原理と国家原理は、いわば共約可能になったのである。(合理的に調停できない対立出会ったものが、合理的に調停できる対立に変化したのである。)

・第二期から第三期への移行、フランス革命
「今や、問題は挙げて個体性というキリスト教的観念の実現にあり、キリスト教世界の歴史は、この実現の歴史に他ならぬものとなるなる」85
「ブルジョア世界において主は存在していなかった。したがって、ここで問題となっている闘争は本来の階級闘争、主と奴との間の闘争ではありえない。ブルジョアは奴でも主でもなく−−資本の奴である以上−−自己自身の奴である。
したがって、ブルジョアは自己を自己自身から解放せねばならぬわけである。生命を解放する危険がある戦場での危険ではなく、ロベスピエールの恐怖政治によって創り出された危険という形態をとるのはそのためである。革命家となったブルジョア−労働する者は、自己の中に死の境地を導入する状況を自ら創り出す。人間を決定的に「充足」せしめる究極の総合という観念が実現されるのは、ただこの恐怖政治によるのである。」88

 コジェーヴによれば、恐怖政治が、この「充足」を達成し、そうしてできる国家が「ナボレオンの帝国」88である。
 フランス革命において、生死を賭ける闘争をしたのは、サンキュロットたち民衆であった。それによって、民衆は、主人となったのである。それは、戦う国民の誕生、つまり国民軍の誕生であった。国民軍によって、国民は主人となり、主権在民の民主主義国家が誕生したのである。(ちなみに、サンキュロットたちは、フランスではじめてボランティア(志願兵)と呼ばれた人たちであった。極論すれば、ボランティアによって、近代国家は誕生したのである。ただし、このボランティアは、自分のために立ち上がったのであって、他人のために奉仕をしようとしたのではない。)現代では、戦争のハイテク化にともない、徴兵制は必要なくなり、廃止されている。国民は、かつてのローマ市民のように、再び戦闘しない国民、奴になってしまうのだろうか。

 「このナポレオンこそが、自己の決定的充足において、そしてそれにより人類の歴史的発展の過程を仕上げる完全に「充足」せる人間である」88
 しかし、「彼は完全な人間であるが、いまだそうであることを知らない。彼一人だけで人間があますところなく「充足」していないのはそのためである。」88
 コジェーヴによれば、これを自覚するために必要なのが、ドイツ哲学であり、その頂点である『精神現象学』なのである。
       
・<歴史の終わり>の意味
「歴史の終末における人間の消滅は、宇宙の破局ではない。・・・人間は自然あるいは所与の存在と調和した動物として生存し続ける。消滅するもの、これは本来の人間である。すなわち、所与を否定する行動や誤謬であり、あるいはまた一般には対象に対立した主観である。・・・これが実際に意味するのは、−−血ぬられた戦争と革命の消滅であり、さらには哲学の消滅である。なぜならば、人間はもはや自己自身を本質的には変化せしめず、人間が有する世界と自己との認識の基礎である(真なる)原理を変化させる理由もまたないからである。」244

・歴史はもう終わっている
「前記の注を記していた頃(1946年)、人間が動物性に戻ることは将来の見通し(それもそれほど遠くない)としては考えられないことではないように私には想われていた。だが、その後まもなく(1948年)、ヘーゲルやマルクスの語る歴史の終末は来るべき将来のことではなく、すでに現在となっていることを把握した。私の周囲に起こっていることを眺め、イエナの戦いの後に世界に起きたことを熟考すると、イエナの戦いの中に本来の歴史の終末を見ていた点で、ヘーゲルは正しかったことを私は把握したのである。・・・それ以後に生じたことは、ロベスピエール−ナポレオンによりフランスにおいて具体化された普遍的な革命の威力が空間において拡大したものでしかなかった。」246

・ポスト歴史社会としてのアメリカ
「アメリカ的生活様式は、ポスト歴史の時代に固有の生活様式であり、合衆国が現実に現前していることは、人類全体の「永遠に現在する」未来を予示するものであるとの結論に導かれていった。このようなわけで、人間が動物性に戻ることはもはや来るべき将来の可能性ではなく、すでに現前する確実性として現れたのだった。」246

 ヘーゲルは、別のところでは、革命によって成立したのは、「普遍的で等質な国家」だと述べている。「主と奴との総合、全的な人間、すなわちナポレオンにより創り出された普遍的で等質な国家の公民という総合が実現される時に、歴史は仕上がることになる。」59、独訳62 ここでいう「普遍的で等質な国家」を、コジェーヴは、フランス革命以後の民主主義国家と考えている。フクヤマは、これをさらにリベラル民主主義国家と考える。(しかし、リベラルデモクラシーに対しては、ヘーゲルは批判的であるだろう。むしろ、彼はコミニタリアンである。)

・ポスト歴史社会としての日本
「私がこの点での意見を根本的に変えたのは、最近日本に旅行した(1959年)後である。・・・「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」あるいは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」あるいは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた。」247
「最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するで在ろう。」247
 これは、サイードの言う「オリエンタリズム」である。西洋人の表象の中の日本であって、現実の日本、リアルな歴史の中の日本とは異なる。