後期第8回(第20回講義)

(§17  ヘーゲルの民族国家承認論)
つづき

                
付録2 <相互承認の3レベル>

 以上の確認から、ヘーゲルが「相互承認」を語るときには、次の3つのレベルがあることがわかる。もっとも、ヘーゲル自身は、次のような相互承認の三段階をどこにも明示してはいない。
  @(相互)承認によって、国家状態が生じる。
A相互承認によって、主人と奴隷の状態から、法状態へ移行する。
  B相互承認によって、「人倫性」「最高の共同」が成立する。

この3つの承認の内容の違いは、つぎのように規定できるだろう。
  @は、民族の一員としての(生命の)相互承認。(個別性の承認)
  Aは、法的人格としての相互承認。法的な相互承認。(普遍性の承認)
  Bは、人倫的(道徳的な)相互承認。(主体性の承認)

この3つの相互承認は、普遍的な第三項への承認を媒介にして成立している。
  @は、民族という実体の承認によって、媒介されている。
  Aは、法への承認によって、媒介されている。
  Bは、精神(国家)への承認によって、媒介されている。

では、これらの承認は、どのようにして生じるのだろうか。
  @は、生死を賭けた戦いによって
  Aは、主奴関係の矛盾によって
  Bは、革命によって
  (このABが生じる原因の解釈は、コジェーヴによる)

 ヘーゲルの自由論を考えるために、我々は「最高の共同が最高の自由である」という時の「最高の共同」を成立させている「相互承認」を検討しようとしてきた。これは、上のBの相互承認である。そこで、以下では、
 「Bの相互承認はどのようなものであり、どのようにして生じるのか」
という問を念頭におきつつ、『精神現象学』の解釈に戻ろう。


    §18 コジェーブの『ヘーゲル読解入門』への批評


 
             1 コジェーヴの欲望論への批評
A:ヘーゲル解釈としての問題点
(1)ヘーゲルの「欲望」概念とのズレ
 「欲望」が対自然関係だけでなく、対人間関係について語られることはあるが、しかしそれは承認や愛とは異質な態度として理解されている。(参照、幸津国生『哲学の欲求』弘文堂、P.184)

(2)ヘーゲルの叙述では、他者の自己否定をもとめる欲望(これをかりに欲望と呼ぶとしても)は、他者の欲望への欲望なのではなくて、自己が純粋対自存在であることを他者が承認することをもとめる欲望である。つまり、他者に向かうと言うよりも最終的には自己に向かっている。この段階では、他者はあくまでも手段とみなされている。それ故に、相互承認の時の欲望の解釈には有効であっても、この段階の承認を求める行為の解釈としては、不適切である。このように解釈すると、その後の<承認への欲望>の修正の説明が適切に出来なくなる。(実際、コジェーヴはそれを説明していない。)

(3)奴隷の欲望は、他者に向かう欲望ではなく、生命に向かう欲望であるから、主人が奴隷の欲望の対象になることはない。奴隷が主人を欲望の対象とし、主人のようになりたいと思うのだとすれば、彼はすでに人間的欲望を持っている。
奴隷が主人を「承認する」とき、この「承認」は、主人へのあこがれ、主人のようになりたい、という欲望ではない。主人への愛ではなく、恐れである。「絶対主人」である「死」への恐れである。従って、主人は、求めていた承認を獲得していない。(奴隷は、一人前の人間ではないので、奴隷に承認されても、満足できない、という解釈よりも、この解釈の方がよいのではないか。なぜなら、一人前の人間に承認されたいという欲望は、ある人を一人前の人間として承認することを前もって必要とするから、これは主人の当初の欲望とは矛盾することになる。なぜなら、主人は、自分だけが実在し、他のものは空虚であるという確信を実現しようとしているのだからである。)

(4)主奴の二種類の人間がいることは、前提されているのではなくて、「最初の経験の結果」である、と言われているのだから、<生死を賭け戦いの中で、両方が本質だということが認識されるが、それを総合することが出来ないでいるときに、戦うことになると、主と奴の二種類の人間タイプに分かれることになる>と考えたほうがよいだろう。つまり、戦う前から決まっていたのではなくて、戦いの中で、ほとんど偶然的に、主人になる者と奴隷になる者が分かれることになるのである。

(5)奴隷の意識が、ストア主義、懐疑主義、不幸な意識になるのだろうか。
かなずしも、そのようには読めない。主人の意識もまたストア主義に移行すると読むこともできる。むしろ、そう解釈したほうがよいだろう。なぜなら、もしそうでなければ、主人の意識はそのあとどのように展開するのかが述べられていないことになる。あるいは、主人の意識はこれ以上は展開し得ない、袋小路に入っているのだ、ということを述べておかねばならないはずである。
(このように解釈しても、コジェーヴの歴史論には影響しない。なぜなら、古代の主人もまた、古代のローマでは、戦わない私人(奴)になるからである。)

(6)コジェーヴは、『精神現象学』を現象学的人間学として解釈するが、それはヘーゲル解釈としてはまちがいである。
「『精神現象学』の中で、すなわち現象学的人間学の中で、一方では、言葉による所与存在の開示の根本的な可能性と、他方では所与存在を破壊し否定する行動とが、なにものにも還元できない二つの所与となっているのはそのためであり・・」53
 このようにコジェーヴは、『精神現象学』を現象学的人間学として読もうとしている。『エンチクロペディ』のなかの精神現象学は、現象学的人間学であると読めるかも知れないが、『精神現象学』はそうではないだろう。これは学の基礎付けの試み、つまり学問論である。
 フッサールの現象学は、ヘーゲルからみるならばフィヒテと同じ主観的観念論であって、批判されるべきものであり、『精神現象学』をフッサール的な意味での「現象学的」人間学として解釈することはできない。さらに言えば、ヘーゲルには人間学という発想はない。なぜなら、カントは世界公民のための人間学を構想したが、ヘーゲルはそのような個人主義をとらないからである。ヘーゲルにとっては、「人間」とは、市民社会における主体のあり方を示す言葉にすぎないからである。

B:欲望論としての問題点
(1)我を忘れて、対象に呑み込まれているのは、対象を認識するときだけではないだろう。例えば、
   絵を描くことに集中しているとき、
   工作に没頭しているとき、
   映画を見ているとき、
   読書しているとき、
このように、テオーリアだけでなくて、ポイエーシスに没頭しているときにも、我々は我を忘れている。
(ところで、映画を見たり、読書したりすることは、ポイエーシスなのだろうか?芸術作品を制作することはポイエーシスであるが、それを鑑賞することは、テオーリアだろうか。受容美学の立場からするならば、これもまたポイエーシスの一部であることになるだろう。)

 また、「我々は、欲望、たとえば空腹によって、我を取り戻す」と言うことも出来ないのではないだろうか。空腹のあまり食べることに夢中になっているとき、私たちは、我を忘れている。ただし、空腹であるにも関わらず、食べるものがないときは、私は私の空腹を意識する。私の欲望を意識する。しかし、このとき私は我を取り戻しているのだと言えるだろうか。
 空腹であっても、食欲が自己意識を成立させるだろうか。動物的欲望は自己感情を構成するだけであると、コジェーヴが述べているように、自己意識を構成するのは、人間的欲望だけである。人間的な欲望とは、他者の欲望に向かう欲望である。つまり、他者に向かうときに、自己意識が生じるのである。
(これは批判というよりも、彼の主張をよりはっきりとさせたというだけかも知れません。)


(2)「他者の欲望への欲望」の多義性
 コジェーヴは、動物的欲望は生命の維持に向かう欲望であり、これと区別して、人間的欲望は「他者の欲望への欲望」であるという。しかし、これが多義的であり、十分に分析されていない。
 例えば、コジェーヴの解釈では、他者の欲望の対象になろうとする欲望(承認を求める欲望)が、どうしてそのような欲望をもつことを証明しようとする欲望になるのかが、今一つ明らかではない。承認を求める欲望が、いつのまにか、人間であること、あるいは純粋対自存在であることを証明しようとする欲望になってしまっている。

(3)「他者の欲望への欲望」と「二階の欲望」
 「他者の欲望への欲望」は、フランクフルトの欲望論を想起させる。彼は、<ある欲望を持つことへの欲望>や<ある欲望を持たないことへの欲望>を、「二階の欲望」と名付けた。このような二階の欲望がなければ、他者の欲望の模倣は不可能である。
H.G. Frankfurt,The Importande of What We Care About, Cambridge UP.,1988,Chap.2.'Freedom of the will and the concept of a person'.
 コジェーヴの欲望論を、ジラールのように模倣欲望の議論へ展開することができるが、他方では二階の欲望論を展開するのに使えるのではないか。(これは、批判と言うよりも、可能性の指摘である。)

(4)人間は、死の恐怖の中でコギトに目覚めるのだろうか。
   (<哲学は、死の練習である>という主張を想起させる)
   (これは批判と言うより、単なる疑問である。)

(5)死の自覚から、生を越えた欲望をもつ時、それは不死性、永遠性への欲望となるだろう。この不死性への欲望は、承認の欲望とどのように結びつくのだろうか。
 説明1:
 不死性は、生命以外のものの不死性であるはずだ。そのためには、まず生命以上のものとして認められなければならない。死後にも存在するということは、人々の意識の中に存在するということ以外には考えられないだろう。何かの作品が死後に残るとしても、それが作品であるのは、人間にとってそうみとめられる場合だけである。故に、不死性を欲望するとは、承認を欲望することである。
 説明2:
 人間は、なぜ死を恐れるのか。人間は、不死を求めるから、死を恐れるのではないだろう。なぜなら「不死」という観念は、「死」という観念のあとにくるはずだからである。人間は、死を意識することによって、不死を求めるようになるのである。なぜか。それは不死を必要とするような何かXを求めているからであろう。人間は、その何かXを求めるから、死を恐れ、不死を求めるのだろう。
 このXは、「承認されること」ではないだろうか。人間は、承認を求めるが、存在しない者(死者)は、承認されない。そこで、死んだあとにも存在して、承認されたいと考える。そこで、不死(死んだ後も何らかの仕方で存在すること)を求める。たとえば「死んだ後も、お墓参りしてほしい」と考える。

注1:<欲望への欲望>と自己意識
次のような表現方法がある。
KsP (sはPを知っている)
KaP
KsKaP
KaKsP
KsKaKsP
KaKsKaP

上をまねて、<aの欲望をsが模倣する>を次のように表現できる。
  BaO (aはOを欲望する)
  KsBaO
  BsO
上の模倣が簡単に出来ないときには、模倣したいと欲望する(aと同じように欲望することを欲望する)ことになる。
Ks−BsO
  BsBsO
これは、フランクフルトのいう二階の欲望である。
ここにおいて、sは自己を意識している。つまり、他者の欲望への欲望が生じるとき、自己意識が生じているのである。


<aがsの欲望を模倣することを、sが欲望する>は次のように表現できるだろう。
  BsO
  BsBaBaO
ここでsはつぎのようなことを欲望するのではない。
  BsBaO
この時、aはすでにsと同じ欲望を持っている。sが望むのは、s自身がaの目標となることである。そのためには、aはsの欲望を持ちたいと欲望するのでなければならない。

・<二原理の矛盾>と欲望
  BsO & Bs−O (これは、Bs(O&−O) ではない)
  Ks(BsO & Bs−O)
  Bs−(BsO & Bs−O)
 あるいは、
  BsBsO & Bs−BsO 
  Ks(BsBsO & Bs−BsO)
  Bs−(BsBsO & Bs−BsO)
  
           2、コジェーヴの歴史論への批評

A:ヘーゲル解釈としての問題点
(1)コジェーブは、歴史の終末を非常にネガティブにみているように想われる。
すくなくとも7章の注ではそうだ。しかし、ヘーゲルは、そうは考えていない。
(2)コジェーブは、主と奴の総合を、相互承認の実現として把握しているのだろうか。そうではないように想われる。
(3)なぜ、革命によって相互承認が可能になるのかの説明が不十分である。
 革命によって、全員が個体=主体になるということが言われるだけである。
恐怖政治の中で死の恐怖を感じることによって、あるいは生死を賭けて革命のために戦うことによって、さらに国民軍によって共同体(国家)の為に戦うことによって、国民が主人になるのだとしても、そこからどのようにして相互承認が可能になるのだろうか。

B:歴史理解としての問題点
(1) 主人と奴隷の二原理と、ギリシア悲劇の二原理は、対応していない。主人と奴隷の関係が、古代ギリシア社会の叙述に対応しているという主張に無理がある。
(2)歴史をどう理解するか、という問題と、承認をどう理解するか、という問題が、重ね合わされて、同時に考えられている。このような試みは、<世界史は自由(相互承認)の実現の歴史である>という前提のもとでのみ正当性をもつ。そして、この前提は、この試みの成功によってのみ証明される。それ故に、議論は循環している。