後期第9回(第21回講義)

   §19 『精神現象学』における主奴論以後の承認論の展開



1、「自己意識」の後半の展開
 「自己意識」の章は「A 自立性と非自立性、主であることと奴であること」に続いて、「B 自己意識の自由」という表題の下に、ストア主義、スケプシス主義、不幸な意識が論じられている。ここでは、§18でも述べたように、主人の意識と奴隷の意識がともにストア主義に展開しているのだと思われる。
まずは、「B」の展開を押さえておきたい。

<ストア主義>
 Aでの、主奴関係という現実の世界での行き詰まりから、自己意識は内に押し戻される。そこで、まず生じるのが、「ストア主義」である。
 ストア主義の原理は、こうである。「この原理は、<意識が、思考する実在者denkendes Wesenであり、何かが意識にとって実在性Wesenheitを持つのは、あるいは意識とって真であり善であるのは、意識がそこにおいて思考する実在者Wesendとして振る舞うときに限る>ということである。」152

 ストア主義にとっての「自由」は、「思想の純粋な普遍性の中にもどっている自由」であり、「王座においても、鉄鎖においても、個別的な現実存在の依存において、自由である」153と主張する。
 しかし、「思想における自由は、純粋な思想だけをその真理としており、その真理は、生の充実を欠いている。」153

「「何が善で真か」というストア主義への問いに対して、ストア主義は、再び、「真なるものと善なるものは、理性性Vernuenftigkeitの内にある」という無内容な思考を答とする。そして、思考のこの自己自同性Selbstgleichkeitは、またしても純粋形式にすぎない。」154
これは「抽象的な自由」である。

<スケプシス主義>
 これに対して、「スケプシス主義は、思想の自由が何であるかの現実的な経験である。」154
「ストア主義は、自立的意識(主人)の概念に対応し、スケプシス主義は、この概念の実現に対応する、つまり、他在への否定的方向、つまり(奴隷の)欲求と労働に対応する」155。
   主人       奴隷
  ストア主義   スケプシス主義

 スケプシス主義は、規定された内容の思想を否定してゆく。「自己意識的な否定によって、意識は、自分の自由の確信を自己自身にたいして創り出す。この自由の経験を生み出し、そのことによって自由を真理へと高める。」156

 しかし、「彼の行為と言葉はつねに矛盾している。それは、不変性および自同性と自己との矛盾、また、偶然性および不同性と自己との矛盾、という二重の矛盾した意識をもつ」158
 「スケプシス主義において、意識は、真実には、自己自身の中で矛盾した意識として、自己を経験する。この経験から、新しい形態が生じる。この形態は、スケプシス主義がばらばらにしていた二つの思考をとりまとめる。」
「新しい形態は、自己についての二重の意識であり、・・・矛盾の意識である」158

{このスケプシスから不幸な意識への移行によって、自己内に矛盾が生まれるのである。スケプシスは、ドイツロマン派のイロニーにも似ているような気がする。

 スケプシスが自己矛盾するのはなぜだろうか。それの否定の活動が、自己矛盾するからであろう。しかし、ヘーゲルによればすべての規定は、自己矛盾的であるので、ある立場を主張することは(スケプシス主義の場合に限らず)、自己矛盾へと行き着くはずである。

 この矛盾は、「行為と言葉」の矛盾になるのだろうか。
例えば、傷心の言葉では、行為と言葉は矛盾しているのだろうか。

逆に言うと、相互承認の段階では、「行為と言葉」は矛盾しないということである。

行為遂行的発話での、「行為と言葉」の矛盾
事実確認型発話での、「行為と言葉」の矛盾



<不幸な意識>
 こうして、「不幸な意識」が登場する。「不幸な意識」では、主人と奴隷への自己意識の二重化が「自己自身の内での自己意識の二重化」(S.158)になっている。つまり自己が一方では主人のように対自存在を本質とし他方では奴隷のように存在を本質とするのである。
 この二重化は、現実との関係でいえば、物の非自立性と自立性の二面に対応しており主人と奴隷が、物のこの二面に共に関係するとき即自的には既に生じていたが自覚されていなかったことである。
 こうして不変なもの(純粋対自存在、普遍)と可変的なもの(存在、物、個別性)へと自己内で分裂した不幸な意識は、まず始めには、分裂しているがゆえに可変的なものである自己の否定によって、不変なものとして自己同一性を獲得しようとするが、可変的なものも本質であるから失敗する。
 これはユダヤ教における神(主人)と人(奴隷)の関係であると一般に云われており、前の主奴関係の内面化でもある。

 承認論を考える私達にとって重要なのは次のことである。不変なものと可変的なものの統一つまり「姿形をもった不変者der gestaltete Unwandelbare」(S.162)である歴史上の「出来事」(S.161)イエスを「憧けい Sehnsucht」(S.163)する自己意識の態度が次に現われ、意識は、自己同一性の獲得の運動を、その自己同一の理想であるイエスとの相互承認を求める運動として行なうのである。

 憧けいする者は、無論イエスを承認しているからここで相互承認が成立するかといえば、否である。相互承認は、前に引用したように「両者が相互に承認し合うものとして、相互に承認する」(S.143)ことによって成立するのである。ここでは、憧けいする者は、イエスを一方的に承認するものとして承認しているに過ぎない。

 そこで不幸な意識は、
   「労働」(S.165)と「感謝」(S.167)「奉仕」によって、イエスとの相互承認を果たそうとする。

 以前のところでは、奴隷は、「労働」「奉仕」「恐怖」によって教養を積むこことが出来、主人の主人となったが、ここでは、「恐怖」に代わって「感謝」が登場している。

感謝によって「感謝する承認 das dankende Anerkennen」(S.168)がいったん生じるが、しかし、感謝による放棄は内的なものに留まっており現実的な享受は放棄しておらず、この表面的な相互承認は破れる。
不幸な意識は、単に承認して感謝するだけでなく、現実に所有と享受を放棄し、その上自分の決断を捨てイエスと自分の「媒介者 Vermittler」(S.169,171)(教会・僧侶)の「助言 Rat」(S.169,171)によってイエスの意志に従うという「現実に遂行された献身」によって相互承認を実現しようとする。ここで相互承認は相互的な献身.奉仕によって、しかもそれが現実的でなければならないところから現実(物)を媒介にした献身.奉仕によって求められている。

 従って明示されてはいないが一方では人−物−イエスという推論・媒介関係が成立している。他方ではここには人とイエスの間に第三の意識(教会・僧侶)が現われ、人−媒介者−イエスというもう一つの「推論」(S.170)が生じている。人とイエスの関係は相互的な奉仕であるからその媒介者は「相互的な奉仕者」(S.169)であり、「両者を互いに紹介(表象)する」(S.169)。
 これによって、イエスとの相互承認は成立する。そして、自己意識は、不変なものと可変的なものとの統一になっている。しかし、この統一は、疎遠な「彼岸」(S.171)で成立しているにすぎない。


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