後期第11回(第23回講義)   


   
    <後期のこれまでの講義の経過・・・・・仕切直しのために>


 最初に、アンチゴネーの悲劇をもとに、ヘーゲルの自由観を説明しました。疎遠なものが何もなく、「自己の許にbei sichにある」ことが自由でした。

 次に、「最高の共同が最高の自由である」というときの「最高の共同」を明確にるために、「相互承認論」の検討を始めました。

 そこでまず、「主人と奴隷の弁証法」を取り上げました。
   ・承認を求める生死を賭けた戦い
   ・その結果としての主人と奴隷の関係
   ・奴隷が教養をつむことによる主人と奴隷の関係の逆転

 次に、これについてのコジェーヴの解釈を紹介しました。
   ・コジェーヴの欲望論
   ・コジェーヴの歴史論

 次に、コジェーヴの歴史論に触発されて、ヘーゲルの民族国家承認論の話をしました。そこで明らかになったのは、ヘーゲルの相互承認論が3つのレベルをもっているということでした。

 <相互承認の3レベル>
  @(相互)承認によって、国家状態が生じる。
  A相互承認によって、主人と奴隷の状態から、法状態へ移行する。
  B相互承認によって、「人倫性」「最高の共同」が成立する。

この3つの承認の内容の違いは、つぎのように規定できるだろう。
  @は、民族の一員としての(生命の)相互承認。(特殊性(性格)の承認)
  Aは、法的人格としての相互承認。法的な相互承認。(普遍性の承認)
  Bは、人倫的(道徳的な)相互承認。(主体性(個人性)の承認)

 ヘーゲルの自由論を考えるために、我々は「最高の共同が最高の自由である」という時の「最高の共同」を成立させている「相互承認」を検討しようとしてきた。これは、上のBの相互承認である。そこで、
    「Bの相互承認はどのようなものであり、どのようにして生じるのか」
という問いを立てた。

 その後、(「§18 コジェーブの『ヘーゲル読解入門』への批評」をはさんでから)この問いに答えるために、『精神現象学』の承認論を手がかりにしようとして「§19 『精神現象学』における主奴論以後の承認論の展開」を論じ始めまた。しかし、この調子で論じていっても上の問いには明確に答えられそうにないので、ここで仕切なおしをしたいと思う。



    §20 「最高の共同」としての「人倫性」



        1、『精神現象学』での叙述
      「自己意識的理性の自己実現」の章の冒頭

 「自己意識的な理性」は、「我々」哲学者から見るならば、すでに「承認された自己意識」であり、これは「他の自由な自己意識の中に、自分自身の確信を持っており、自分の真理をもっている」(256)
 この「承認された自己意識」という概念の中には、我々から見るならば、「人倫性の国」が開かれている。「なぜなら、これ(人倫性)は、個人の自立的な現実性をもちながら、それでいて自分達の本質が絶対的な精神的統一をえていることに他ならないからである。」256

 「言いかえると、人倫とは、即自的に普遍的な自己意識が他の意識の内において自分が現実的であるのを自覚していることに他ならないのであるが、このさい「現実的」であるというのは、他の意識が完全な自立性を持っていながら、すなわち自己意識に対して物でありながら、まさにそうであることにおいて自己意識が他の意識との統一を自覚しており、そうして物であるこの対象的な実在とのかかる統一においてはじめて自己意識であることを意味している。」

 「普遍性という抽象の中では、この人倫的実体は、単に考えられた法に過ぎない。しかし、人倫的実体は、また現実的な自己意識でもある。すなわち、習俗Sitte出ある。逆に、個別的な意識がこの存在している一者であるのは、彼がその存在としての個別性において、自己を普遍的意識として意識するときにかぎられる。つまり、かれの行為と現存在が、普遍的な習俗であるときにかぎられる。」256

 「<他者の自立性の中で他者との完全な統一を直観するということ>、あるいは、<他者が私の目のまえに自由な物としてあることは私にとって否定的なことであるが、このような他者の物性を、私にとっての存在Fuermichsein として対象にもつこと>、これが、自己意識的理性の現実化の概念であるが、この概念は、民族の生活の中に、その完全な実在性を持つ。」256f.
  ここでは、他者との相互承認が、民族において、民族として、成立すること  が明言されている。しかし、なぜ民族なのだろうか。

 「自立的な存在者たちは、<彼らの個別性を犠牲にし、この普遍的実体が彼らの魂と本質となる>ことによってこの個別的自立的存在者である、ということを意識している。同様に、この普遍もまた、個別者としての彼らの行為であり、彼らによって実現された作品Werkeである。」257

 「個人の純粋に個別的な行為や衝動は、個人が自然存在として、つまり存在する個別性としてもっている諸欲求に関係している。このような個人のもっとも低俗な諸機能さえも無に帰するのではなく、現実性をもつのは、普遍的な個人を維持する媒体によってであり、民族全体の力によってである。しかし、個人は、彼の行為の存立というこの形式のみを普遍的実体の中に持つのではなくて、行為の内容をも、その中に持つのである。彼が行うことは、すべての人の普遍的な技能であり習俗である。・・・彼の欲求のための個人の労働は、彼自身の欲求と同様に、他の人の欲求の充足である。また、彼の欲求の充足を、個人は、他者の労働によってのみ獲得するのである。」257
  ここでは、たとえば感性的な衝動ですら、民族の影響をうけて成立している  こと、あるいは民族の中での生活よって、成立することが、これは、<公共  性の中に現れることが、存在することである>というようなアーレントの考  えに近いと言えるだろう。
  民族は、経済活動の自立的な自立的な単位として、相互承認の単位になるの  かも知れない。

 「普遍的な精神の中で、各人は、存在している現実の中に自己自身以外の物を見いださないという、自分自身の確信だけを持っている。私は、すべての人々の中に、私が自立的な存在者であるときにのみ、彼らが自覚的に自立的な存在者であることを直観する。私は、他者たちの中に、彼らと私との自由な統一を直観する。その結果、他者との自由な統一は、私によってあると同様に他者によってあるのである。私は、彼らを私として、私を彼らとして直観する。」258
 「それ故に、理性は、真実には一つの自由な民族の中で実現されているのである。・・・それ故に、古代の最も賢い人々は、「知恵と徳とは、かれの民族の習俗に従って生きることに中にある」と発言したのである。」258
 
           2、『法哲学』での叙述
        「道徳性」から「人倫性」への移行部分

§141
「善と主観的意志との具体的な同一性、すなわち両者の真理が、人倫性である。
  概念のそのような移行にかんするもっとくわしいことは論理学のなかで理解できるようになる。ここでは、ただ次のことだけ言っておこう。すなわち、
(1)制限された有限なものの本性は、それらのもの自身にそれらのものの反対物をもっている。つまり、その善は即自的にはそれの現実性を持っており、そしてその主観性は即自的に善を持っている。
(2)しかしそのような主観性と善とは一面的なものだから、まだ、それらが即自的にそうであるところのそのものとして定立されてはいない。
(3)そのような善と主観性は、この定立されるということを、両者の否定性の中で達成する。
(イ)両者はどちらも、即自的には両者においてあるところのものを両者においてもっていないとされる。つまり、善は主観性と規定をもたず、規定するほうのものたる主観性は即自的にあるものを持たないとされる。
(ロ)このような一面的な仕方で、両者がそれぞれ自分だけで全体性として制定されると、両者はどちらもたちまち揚棄され、そのことによって両者は契機、概念の両契機にまでおとされる。このような否定性の中で両者は定立されることになるのである。
(4)この概念は両者の一体性であることが明白になる。そしてここの概念はまさしくこのようにおのれの両契機が定立されていることによって実在性を得たわけである。したがって、この概念は、今や理念としてある。」

 ここでの(1)は、哲学者の立場からしか、言えないことである。(2)の立場にたつものが、(1)を前提することなく(ロ)から(4)へと理解を進めるとき、当事者は、事後的に(1)を理解できるのである。(イ)から(ロ)への移行は認めてもよいだろう。問題なのは、具他的な規定をどのようにして獲得するか、である。

§142 
「人倫性とは、生きている善としての自由の理念である。・・・人倫性とは、現存世界となると共に、自己意識の本性となった、自由の概念である。」

§147
「だが他面、倫理的実体とそれのもろもろの掟と権力は、主体にとって<おのれのものでないもの>ではない。それどころか、主体はそれらが主体自身の本質であるということについて精神の証を与えるのである。この本質は、主体が、そこにおいておのれの自己感情をもつほどの本質なのであり、そこにおいてこそ主体が、己と区別されないおのれ本来の境地において生きるほどの本質なのである。倫理的実体とそれのもろもろの掟と権力に対する主体のこの関係は、直接的であって、信仰や信頼の関係さえよりももっと同一の関係である。
 信仰や信頼は、反省の始まりに属するので、ある表象と区別を前提としている。たとえば、異教を信仰することと、異邦人であることとが違うであろうように。
 先の倫理的実体とそれのもろもろの掟と権力とに対する主体の関係、と言うよりもむしろ、倫理的なものがとりもなおさず自己意識の現実的生命性をなすような、関係ということさえない同一性は、もちろん信仰や信念の関係に移りうるし、またもっと進んだ反省によって媒介される関係に移りうる。
 しかし、右の同一性の十全な認識は、思惟する概念の仕事である。」

 信仰や信頼よりも同一の関係にある掟や権力とは、反省以前のものである。掟はまず反省され、次にそれと主体との同一性が、概念把握されうる、ということになる。

§149
「拘束する義務が、制限として現れうるのは、ただ無規定の主観性、すなわち抽象的な自由に対してだけであり、また自然的意志の衝動、あるいは己の無規定の善を己の恣意で規定する道徳的意志の衝動に対してだけである。
 ところが、個人は義務においてむしろ己の解放を手に入れるのである。この解放は一つには、彼が単なる自然的衝動において陥る従属からの解放であるとともに、彼が当為と許容についての道徳的反省において主観的に特殊性として陥る沈滞感からの解放であり、また一つには、現存在するにも至らず、行動の客観的規定性を得るにも至らず、己の内に閉じ込もっていつまでも一個の非現実性にとどまっている無規定の主観性からの解放である。義務においてこそ、個人は解放されて、実体的自由を得るのである。」

 後者の二つは、『精神現象学』での「立法的理性」と「査法的理性」、あるいは「行為する意識」と「判定する意識」という二つの「美しき魂」に対応するものである。

 「追加、義務が制限するのは、主観性の恣意だけであり、義務が衝突する相手は、主観性が固執する抽象的な善だけである。人々が自由でありたいという場合、それはさしづめただ、抽象的に自由でありたいという意味に過ぎない。だから国家における規定と分節的組織はことごとくこの抽象的な自由の制限と見なされる。こした自由の制限である限り、義務は自由の制限ではなくて、自由の抽象的観念の制限、つまり不自由の制限にすぎない。義務とは本質への到達、肯定的自由の獲得なのである。」

  しかし、「自由の抽象的観念の制限、つまり不自由の制限」という意味でならば、個人の決断でも善いはずであり、共同体の掟にしたがわなくても善いはずである。また、これだけでは、あるべき共同体を考えるときの尺度にはなり得ない。
  それにも関わらず、共同体の掟が重視されるのは、@各人が自由に行為や規範を決断するだけでは、相互承認が成立しないからであり、Aまた共同体の掟が個人の本質をなしているので、彼がそれとは無関係な規範を採用しても、常に挫折するからであろう。

          3、現代の共同体論への影響

 サンデルは、『自由主義と正義の限界』(菊池理夫訳、三嶺書房、Michael J. Sandel "Liberalism and the Limits of Justice" Cambridge Uni.1982)の中で、「負荷なき自我」を批判し、「状況の中の自我」を主張する。
 ここでサンデルが批判しているのは、自由主義一般ではなくて、「負荷なき自我」という人格論に依拠した義務論的自由主義であって、具体的には、カントとロールズである。しかも、カントの「超越論的主体」ないし「本体的主体」については、ロールズも批判的である(p.23)。そういうわけで、サンデルが、批判するのは、もっぱらロールズである。(自由主義者であっても、ロックやミルはこれに当てはまらない(p.5,p.191)。また、ノージックも、義務論的自由主義ではない。ノージックはロールズの人格概念を批判している(p.129)。)
 その批判の要点は、「負荷なき自我」を想定すると、そこからはもはや(ロールズの主張に反して)「正義の原理」を導出することすら不可能になる、ということである。

 「権利にもとづく自由主義への共同体論者の批判によれば、我々は、このように独立した者として、つまり、自らの意向や愛着からまったく離脱した自我の担い手として、自らを考えることはできない。彼らによれば、我々の一定の役割は、現在の我々の人格 ---- ある国の市民としてか、ある運動の成員としてか、ある大義の同士として --- -の一部を構成するものである。しかし、現在暮らす共同体によって、我々が部分的に定義されるとしたら、そのような共同体を特徴づけている企図や目的にも、我々は関連している。マッキンタイアが書いているように、「私にとって善であるものは、そのような役割で暮らす者にとっても善であるべきである」。結末が閉じられていないとしても、私の人生の物語は、わたしの自己同一性が導き出される、そのような共同体 ---- 家族であれ、都市であれ、部族であれ、国民であれ、党派であれ、大義であれ、---- の物語の中につねにはめ込まれている。共同体論的な見解では、このような物語によって、単に心理学的相違ではなく、道徳的相違がもたらされる。その物語によって、我々はこの世界に状況づけられ、我々の生活に道徳的な固有性が与えられる。」xiii

「共同善の党派が正しいとすれば、我々の最も緊急を要する、道徳的、政治的構想は、我々の伝統に内在するものの、今日では消滅しつつある市民的共和制の可能制を活性化することである。」xx

「独立した自我という観念と結びついているのは、この自我が住まうべき道徳的宇宙というビジョンである。・・・義務論的倫理学の宇宙とは、固有の意味を喪失した空間、マックス・ウェーバーの用語では、「脱魔術化された」世界、客観的な道徳的秩序のない世界である。17世紀の科学や哲学が肯定したような、目的を書いた宇宙においてだけ、企図や目的から離れ、それらに優先する主体を考えることが可能である。企図がない秩序によって、支配されている世界においてだけ、正義の原理が人間によって構築され、善の概念が個人によって選択される可能性が開かれている。この点に、義務論的自由主義と目的論的世界観との根深い対立が、もっとも顕著に現れている。」286

「しかし、このように、自分自身を独立したものとして考えることは、以下のような忠誠や信念のもつ道徳的効力を失うという、かなりの代償を払わずには不可能である。つまり、その効力とは、忠誠や確信をもって生活することが、特定の人間として、−−自らの家族、共同体、国家、国民の成員として、自らの歴史の担い手として、過去の革命の子孫として、現在の共和国の市民として−−自分自身を理解することから分離できないという事実から成立していることである。そのような忠誠は、私がたまたまもつ価値、あるいは、私が「与えられたときはいつでも信奉する」意向以上のものである。それは、私が自発的に招き寄せる責務や、人間存在として負うべき「自然の義務」を越えている。」

 「多かれ少なかれ、持続する性格から、私が行動するとき、私の目的を選択することは、そのように恣意的なことではない。自らの選好を考えるさいに、その強度を考量するだけではなく、それが自らの(すでにある)人格に適しているかをも評価する。熟慮しているときには、私は、本当はなにを欲しているかだけでなく、本当は誰なのかをも問い、後者の問いによって、欲求だけに注目することを越えて、自己同一性自体を反省するようになる。」293

 「他者と歴史を共有するという負荷によって、一部が構成されている人にとって、自分自身を知るということは、より複雑なことになる。それは、また厳密には私的なことでもなくなる。私の善を求めることが、私の自己同一性を探求し、私の生活史を解釈することと結びついているさいには、私が求めている知識は、私には透明でなくなるにつれて、他者には不透明でなくなる。」295

 状況に規定された規範や欲求があるとすれば、意志の自由は無くなるだろう。もちろん、そのようなものが自己同一性を構成しているのだとすれば、それに拘束されていても、そのとき人は<自由>である。この<自由>は、ヘーゲルのいう自由である。
 ただし、サンデルは、状況に規定された規範を反省できると考えているし、また変更できるとすら考えている。

 「負荷なき自我という観念に反対することで、我々の自己同一性を形成させる共同体や伝統を反省することは不可能であるとか、それらが要求するものを拒否することは全く不可能であると、示唆しようとしているのではない。私の議論は、むしろ、我々が反省するとき、状況づけられた、負荷ある自我としての反省するのであり、自らの意向や愛着に優先して定義される自我としてではないということであり、また、道徳的熟慮をこのように理解することは、正義に関する論争に影響を与えるということである。」iv
 「自己解釈する存在として、私は、自分史を反省でき、この意味では私自身から遠ざかるが、その距離はつねに不安定であり、仮のものであって、反省の地点は、最終的には、歴史自体の外部に確保されることも決してない。このような性格をもつ人格は、反省しているときでも、さまざまな仕方で他のものと関連していることを知っており、自らが知っているものの道徳的な重要性を感じている。」292

 この二つ目の発言は、微妙であるが、もし規範を反省できるのだとすれば、その人は、それに従うか従わないかの選択をしていることになるのではないだろうか。もしそうだとすると、その選択する自我は、規範を背負っていない「負荷なき自我」である。