後期第11回(第23回講義)   


          §21 問題と解答



 以前に木村健君からの次の問いに対して、答を保留しておきましたが、ここで答えたいと思います。

    問題:「私達は、どのようにして、「受け入れられる一られない」、「和解すべき一すべきでない」        といった判断を為し得るのか」

 ヘーゲルの答は、残念ながら「できない」である。彼は、『精神現象学』の「立法的理性」の章と「査法的理性」の章で、人倫的実体の法則を個人が設定することも、ある法が人倫的実体の法則であるかどうかを個人が吟味することも失敗することを示してみせる。
 (なぜ失敗するのかについての議論を詳細に検討すべきだが)その失敗の原因は、究極的には、吟味しようとすること自体の自己矛盾にあるのである。それを彼は、つぎのように述べている。

「諸法則は、存在する。もしも私がこれらの法則の発生を問い、これらを源の狭い点まで追いつめるとすれば、私はもうこれらを越え出てしまっている。なぜなら、今や私が普遍者であるのに、諸法則のほうは制約せられたものであり制限せられたものであるからである。諸法則が私の洞察にたいして正当化されるべきであるならば、私はすでにそれらの揺らぎのない自体存在をあえて動かしたのであり、私はそれらをもって、私にとっておそらくは真であるが、しかしまたおそらくは真でないものでもあろうあるものと見なすのである。」311

 これは、「神を試すなかれ」という教義を思い起こさせるが、法則を個人が決断によって選びとることは、すでにその法則の意義を決定的に変質させてしまうということである。『法哲学』で述べていたが、ここでもヘーゲルは信仰ですらすでに、法則と自己意識との統一を損なうとのべている(Vgl.310)。
 ちなみに、ハイデガーは『ヘーゲルの経験概念』の中で、『精神現象学』は「絶対者がもともとわれわれのもとにあること」=「絶対者の臨在パルーシア」を前提してのみ成立する、ということを指摘しているが、これは「人倫的実体の臨在」と言い替えてもよいだろう。ヘーゲルの承認論や自由論は、「人倫的実体の臨在」を前提してのみ成り立つものである。
 個人が、自己の判定を断念し、自己の個別性を放棄し、いわば運命にゆだねるときに、むしろ向こう側から救いの手が差し伸べられるということである。いいかえると、選択の自由に固執する限り、「人倫性」は成立せず、選択の自由をあきらめたときに、「人倫性」が可能になるということである。(めでたし、めでたし。)
 ところが、我々はこれほどおめでたい世界には住んでいない。ヘーゲルにとってもこれでは問題が残されることになる。なぜなら、ヘーゲルは、個人の主体性の欠けた共同体を主張しようとしたのではないからである。ヘーゲルは、古代の共同体と近代の個人主義を綜合することを意図していたのである。そうだとすれば、個人は主体性を放棄するだけではなくて、主体性を何らかの仕方で確保し、それに不可欠の価値を与えるのでなければならない。

「上に考察された二つの契機において、(立法的理性の個所では)人倫的実体に関する直接的な諸規定性の措定が廃棄され、それから(査法的理性の個所では)直接的諸規定性が法則であるかどうかの知もまた廃棄された。従って、結果は、規定された法則も、それについての知も成立し得ない、ということであるように思われる。しかし、実体は、絶対的本質性としての自己についての意識である。従って、この意識は、実体における区別も、区別についての知も断念することは出来ない。<立法と査法が、むなしいこととして証明された>ということは、<両者が個別的に分離してとらえられると、人倫的意識の不安定な(支えを失った)契機でしかない>ということを意味しているのである。両者が登場した運動は、<人倫的実体が、その運動によって、意識として示されるという」という形式的な意味を持っている。」309

 では、立法や査法を、「個別的に分離して」とらえないで、理解するとは、どういうことだろうか。これの答としては語られているのは、「誠実性」という事だけである。

「この二つの契機が、事そのものの意識のより詳しい規定であるかぎり、それらは誠実性Ehrlichkeitの形式と見なされる得る。誠実性は、今や善と正義の存在すべき内容、およびそのようは確たる真理の吟味とに関わっており、健全な理性や悟性の洞察において、命令の力と妥当性をもつように見える。
 このような誠実性が欠けていれば、法則は意識の本質として妥当しないし、吟味もまた意識の本質の内部の行為としては妥当しない。」309

 この「誠実性」は、「道徳性」の章で、「良心」となり、立法的理性と査法的理性は、判定する意識と行為する意識という二つの形態で登場する。しかし、この二つの意識も、立法と査法と同様にともに挫折する。この二つの意識の相互承認は、叙述されているものの、この二つの良心が、人倫的共同体において、どのようなあり方をするのかは、論じられていない。

 <ヘーゲルの矛盾>
 ところで、ヘーゲルは、立法的理性や査法的理性を批判しておきながら、他方では、人倫性の規範について具体的に『法哲学』で語っている。

 法哲学では、§147で、次のように言う。
 「先の倫理的実体とそれのもろもろの掟と権力とに対する主体の関係、と言うよりもむしろ、倫理的なものがとりもなおさず自己意識の現実的生命性をなすような、関係ということさえない同一性は、もちろん信仰や信念の関係に移りうるし、またもっと進んだ反省によって媒介される関係に移りうる。その場合には、なにか特殊な目的や利益や顧慮、恐怖もしくは希望、あるいは歴史的な諸前提、といったものからさえ生じうるもろもろの理由を通して、倫理的実体などと主体との関係が洞察されるのである。
 しかし、右の同一性の十全な認識は、思惟する概念の仕事である。」

 ここでいう「洞察」は『精神現象学』では、「査法的理性」にあたるものである。そして、これは失敗したはずである。

 では、ヘーゲルは、『法哲学』「第三部、人倫性」のなかで具体的にどのように人倫性を論じているのだろうか。ヘーゲルが、具体的な規範を叙述するときに、尺度になっているものをあげるとすれば、それは「人倫性」という概念である。例えば、国家のあるべき姿を具体的に論じるときには、「人倫性」の立場からする、契約説国家への批判が重要である。また家族を論じるときにも、「人倫性」の立場からする、契約結婚への批判が重要である。

 先週述べたような「人倫性」の概念に依拠して、規範を措定したり吟味することは、立法的理性や査法的理性の試みと同じものであり、同じように挫折するのではないのか。もしそうではないとすれば、どこが違うのか。ヘーゲルは、一体どこに立って話しているのか。

 個人が、人倫的規範を吟味しようとするときすでに、人倫的規範は個人の選択の対象になっており、変質している。このようなヘーゲルの語りは、ヘーゲルの個人の選択の結果なのか、それとも・・・。(ちなみに:「絶対者が、即且つ対自的に我々のもとにあり、またあることを意志しないとすれば」(64)認識は不可能になる、というこの発言自体が、ヘーゲルという有限者の立場で語られているのではないのか、それとも・・・)

 ここにあるのは、ヘーゲルの自己矛盾なのか、それとも、たんなる発言の自己循環なのか。もし、ヘーゲルの発言に自己矛盾が無いのだとすれば、ヘーゲルの声は、人倫的実体の声である、ということになるはずである。そして、ヘーゲルはそのように主張しているようにも読める。たとえば「自己意識は、自分がこの実体の対自存在という契機であることを知っている」301と主張しているからである。
 このような立論の錯綜を、ここではこれ以上解きほぐすことができない。



         §21 蛇足



1、「負荷なき自我」対「状況の中の自我」

@我々は、物心つく以前に共同体の規範を受け入れて生活しています。またその後の生活でも、無意
  識のうちに共同体の規範を受け入れている場合がある。
Aしかし、我々は、それらの規範を(その大部分を)反省することが出来る。
B反省した規範については、我々はそれを認めるかどうかを選択することが出来るのでは ないか。否
  、むしろ、いったん反省した以上は、それを採用するかどうの選択をせざる を得ない状況に追い込
  まれるのではないか。なぜなら、迷い続けることも、現実の生活 の中では、一定の選択をしたこと
  になってしまうからである。

「負荷なき自我」を主張する者もまた、@を認めるだろう。問題は、AとBである。

 サンデルの前回も紹介した、次の文章は、何を意味しているのだろうか。

 「自己解釈する存在として、私は、自分史を反省でき、この意味では私自身から遠ざかるが、その距離はつねに不安定であり、仮のものであって、反省の地点は、最終的には、歴史自体の外部に確保されることも決してない。このような性格をもつ人格は、反省しているときでも、さまざまな仕方で他のものと関連していることを知っており、自らが知っているものの道徳的な重要性を感じている。」292

 「反省の地点は、最終的には、歴史自体の外部に確保されることも決してできない」とは、状況とその中の私という全体の外部に出て、そとからそれを反省することは出来ない、ということだろう。つまり、すべての規範を、一挙に全体として対象化することは出来ない、ということになる。
 ある規範を反省しているときに、「さまざまな仕方で他のものと関連していることを知っている」とは、どういうことだろうか。
   @「他のものとの関連」は、ある規範を反省するための前提条件なのだろうか。
   Aそれともたんに反省しきれずに残っているというだけなのだろうか。
 私は、前者の意味に取りたい。なぜなら、我々が自分を反省するときには、それもまたある種の意図的行為である以上は、何等かの理由があるはずであるし、意図的に反省したのではなかったとすると、その時には反省という心的な出来事が生じた原因があるはずである。

 一般に行為の発生は、実践的三段論法で説明できる。つまり、意図と現実という二つの前提から、行為が帰結するのである。ところで、反省するということは、意図的行為である。従って、これもまた、より上位の意図と現実との矛盾から生じるのである。

 ところで、ここでの自己への反省は、どのような意図と現実との矛盾から生じるのだろうか。
 @私が困った状況にあるとしよう。現実と意図が矛盾するのである。
 Aそこで、問題を解決しようとする。
 B日常的なルーティンワークでは、問題を解いていることすら気づかずに、問題の処理が行われてい
   る。
 C問題が簡単に解けないとき、我々は問題をはっきりと自覚することになる。
   問題をはっきりと自覚して、その解決に向かうことになる。ここで、私は、問題状況を反省し、対象
   化し、それから距離をとっている。
 D問題がさらに解けないとき、問題を解こうとしているのに解けないという状況を自覚することになる。
  ここで、問題を解こうとしている自己を意識することになる。つまり、問題状況を反省し、対象化し、
  それから距離を取っている自己を意識する。つまり、自己を問題状況を超越した者として意識する。

 ここで問題状況を超越した者は、問題に苦しんでいる自己とは別である。この区別は、Cで生じている。問題で苦しんでいる自己は、問題状況の中にあるのだから、Cで問題状況を対象化するとき、問題で苦しんでいる自己もまた対象化されているのである。
 もちろん、Aで問題を解こうとしているとき、すでにこの区別は発生しているはずである。つまり、問題を抱えている自己と、問題を解決しようとする自己の区別である。この区別がはっきりするのは、Cであり、この区別が自覚されるのは、Dである。

 この二つの自己は、どのように関係しているのだろうか。問題状況を超越した自己は、問題状況の中の自己を反省している自己である。我々がDで、問題状況を超越した自己を反省するのは、問題がなかなか解けずに困っている自己に気づくからである。問題状況の中の自己もまた問題に苦しんでいるのである。しかし、その苦しみは、ここで問題を解こうとして解けずに苦しんでいる自己とは苦しみとは、異なる。この違いをもっと詳しく説明しよう。前者の苦しみは、ある問題状況で、意図ないし欲求1が実現できずにいる苦しみである。後者は、この苦しみ1を解消したいという欲求2が実現できずにいる苦しみ2である。
 あるいは、次のように言い替えることが出来るかも知れない。ある状況で欲求1が実現できないということが問題である場合に、状況の中の自己とは、欲求1の主体である。そして、その問題を解決しようとしている自己とは、欲求1を実現しようという欲求2の主体である。(ちなみに、この欲求2は、フランクフルトの二階の欲求とは少し異なる。二階の欲求は、ある欲求を持つことへの欲求であるから。両者の関係については、宿題とする。いつまでの? 誰の?)

 このように考えるとき、状況から超越した「負荷なき自我」は、確かに存在するが、つねに「ある特定の状況」から超越した、「ある特定の負荷」から距離をとった「自我」である。この意味で、この「負荷なき自我」はつねに状況の相関者として登場する。では、この「負荷なき自我」にとってあらゆる規範は選択されたものなのだろうか。(これもまた、宿題とする。)