第二回講義    §2 社会問題の定義(1) 社会構築主義のアプローチ



参考文献:
 1,M.Spector and J.I.Kitsuse, Constructing Social Problems, Cummings.1977.
   キツセ&スペクター著『社会問題の構築 ラベリング理論をこえて』   マルジュ社1990
 2,中河伸俊『社会問題の社会学 構築主義アプローチの新展開』世界思想社
 3,Merton,Robert K."Epilogue:Soxial Problems and Sociological Theory" in Merton and Nisbet (eds.),
    Contemporary Social Problems. New York: Harcourt Brace Jovanovich, pp. 793-846.
   森東吾訳「社会問題と社会理論」『社会理論と機能分析』青木書店、1969, pp.410-471.
 4、Fuller, Richard Myers, "Some Aspects of a Theory of social Problems,"
     American Sociological Review,6(February)24-32.1941.
  5、Fuller,Richard Myers, "The Natural Hitory of a Social Problem,"
    American Sociological Review, 6(June)320-328,1941.

 ここでは、ほとんどキツセ&スペクター『社会問題の構築』マルジュ社の引用をもとに説明しました.


1、機能的原因論アプローチ

「1920年代には社会病理という用語が流行し、1930年代には社会解体という用語がそれにとって代わった。機能と逆機能という語は1950年代以降一般的になった。」(1-38)

 もっとも洗練された、機能理論による社会問題の理論は、マートンのものである。

・マートンによる社会問題の分類
   社会問題   社会解体
            逸脱行動

・マートンによる定義
     社会解体=「相互に関連した地位と役割の社会システムが不適切であること、あるいは失敗していること」
          =「集合的目標とメンバーである個人の目的が、他のシステムであったならば実現可能だったほ
            どには実現されないこと」

      逆機能=「ある目標が完全に達成されないばかりでなく,システムの基礎的土台が維持されていないこと」
                                 }  
<機能主義的アプローチの問題点>
  システムとは何か。
  システムであるといえるため用件、システムの機能用件のリストはどのよ   うにして評価されるのか。
  システムの集合的目標はなにか。
 システムの目標を誰が定義するのか。
これらの問いに対して、客観的な答えというものがないとすれば(そして、じじつないのだが)、何を社会問題(社会解体、逆機能)と見なすのか、についても客観的な答えというものはない、ということになる。


2、機能主義者による規範的アプローチ

・マートンによる規範的定義
   「社会問題」=「広く共有されている社会的基準と、現実の社会生活の状態との重大な乖離である。」
                                               (マートン、1971年、799頁)

 この定義の問題の一つは、「広く共有されている」とは、どのくらい広くなのか、という問いに明確に答えることができないという点である。「どこの誰が、何人が共有すれば、その状態が『広く共有されている』といえるのか。」(1-51)

「マートンは、広く共有された社会的基準に言及するにもかかわらず、社会問題の研究対象を人々がそう定義するものに限定することに反対する。」
「マートンは、人々が気づかない社会問題を同定する知識と能力を社会学者が持つことを認めながら、「人々の定義」の有意義せいをみとめる解決策を提案する。この解決策は、顕在的社会問題と潜在的社会問題の区分として提示される。」55





社会学者の定義
社会問題 社会問題でない
社会の構成メンバーの定義 社会問題である   「顕在的」社会問題 「偽の」社会問題
社会問題でない 「潜在的」社会問題 「通常の」社会状態


「期待と現実との間に実体的な齟齬があるか否かについて、社会学者と社会のメンバーの考えが一致しないときには、社会学者の定義が客観的証拠に基づいているために優先権をもつ、というのがマートンの立場のようだ.」

・マートンの定義には三つの要素がある。
   状態の評価
   基準の決定
   状態と基準の間に齟齬があるかどうかの判定
この3点について、社会学者と社会のメンバーは、一致する場合もあれば一致しない場合もある.

3、価値葛藤学派による規範的アプローチ

フラーの社会解体の概念に対する不満を次のようにのべている。
「社会秩序がスムーズに機能しているという仮説は、不自然であるだけでなく、危険である。・・・われわれは、社会問題とは、疑問の余地のない、そしてスムーズに作動している文化の現体制から乖離した人間行動を指すという考えを捨てなければならない。・・・経済制度がかつていつ完全に効率的に機能したであろうか.宗教的ドグマがかつていつ挑戦されずにいたであろうか。混乱して途方にくれた個人がいなかった時代がかつてあったであろうか。いつ、世界の諸国民が調和的に生活したであろうか.言いかえれば、いつどこで、我々社会学者はこのすばらしい諸力の均衡を・・・見つけることができるだろうか.」(1-64)

つまり、彼の批判、社会システム論自体に向かっており、社会システム論では、社会がシステムとしてうまく機能しているという状態が、通常の状態であるかのように論じているが、社会システムはそれほどつねにうまく機能しているわけではない。

・フラーとマイヤーズの定義
    「社会問題」=「人々がそう思うところのものである。もしある状態がそれに関わる人々によって社会問題と
             定義されないのならば、その状態とは、部外者や科学者にとっては問題かもしれないが、人
             々にとっては問題ではないのである。」(1-67,4-32)
           =「かなりの数の人によって、彼らが大切にする何らかの規範から逸脱している定義された状態」
                                                            (1-117,5-320)   

「このように考えるならば、社会学者がすべきことは、それが社会問題であると意味づけされる客観的状態の原因と先行条件を同定することではない。社会学者は、その状態が社会問題であるという定義の原因と先行条件を同定しなければならないのである。」(1-67)

 この研究対象の変更をキツセ&スペクターは高く評価し、それを継承する。なぜなら、客観的な状態というものは、同定できないからである。あるいは、客観的な状態というものじたいもまた、一つの「社会的に付与された意味」だからでる。
 このことを、キツセ&スペクターは、1960年代にマリファナの嗜癖性についての科学者の意見が変わったこと、医者の扁桃腺除去の診断が、客観性を持っていないとい研究報告などを、例に説明している(1-68,69)。

 客観的な状態というものについての、専門家の同定が、価値判断とは独立に可能なものではない、とすれば、マートンの立場,つまりある状態が社会問題であるかどうかの判断に関して、メンバーの判断よりも、社会学者の判断を優位におく立場は、無効になる。そこで、上の定義にあるように、キツセ&スペクターは、
 「もしある状態がそれに関わる人々によって社会問題と定義されないのならば、その状態とは、部外者や科学者にとっては問題かもしれないが、人々にとっては問題ではないのである。」(1-67)つまり、マートンのいう「潜在的社会問題」をみとめない。また、逆に、第三者や、科学者が、問題ではないといっても、当事者が問題であると考えている限りで、社会問題であるとみなすことになるだろう。つまり、マートンのいう「偽の社会問題」を認めないであろう。

<価値葛藤の立場の欠点>
しかし、彼らには実は不完全なところがあって、他方では、客観的状態の定義を再導入してしまっている。

フラーとマイヤーズ曰く
   「すべての社会問題は、客観的状態と主観的定義からなりたつ。客観的状態とは、偏見をもたず、訓練された観察者が、
    その存在と大きさを証拠によって確かめることができる状態である。主観的定義とは、ある状態が大切にされている価
    値にとって脅威であると、諸個人が認知することである。客観的状態は、必要ではあるが、それ自体で社会問題を構成
    するには十分ではない。1941年b、320ページ)」(1-70)

 ここで、キツセとスペクターは、客観的状態の想定への批判を徹底すべく、フレイドソンの主張をもちだす。彼によれば、「物理的状態」というもの、一つの「社会的に付与された意味」に過ぎないのである。

 「フレイドンの論点は、つぎのような例によって説明されるだろう。多くの研究者が、社会状態と物理状態とを区別しようと試みている。洪水、干害、地震といった状態は、自然の仕業あるいは物理的環境とされ、社会問題の性質を備えているとは考えられない。しかし、洪水を物理的あるいはあ自然的と性格づけるのは、状態についての定義の一部であって、状態そのものの一部ではない。洪水は物理的状態ではない。洪水は、たとえば、社会的とか、技術的ではなく、物理的と定義された状態なのである。物理的というのは、我々が状態に付与する意味であり、それゆえ、変化し、変更しうる意味なのである。」(1-73)

フレイドソンは、ミシシッピーの洪水の例を挙げている。(1-73)

・価値葛藤としての社会問題
 ある状態が社会問題であるかどうかが、客観的な状態によって決まるのであれば、人によってその判断がことなるとき、正しいのどちらか一方、あるいはどちらも間違っているということになるずであって、そのような判断の対立は、客観的な認識によって、解決されるはずである。
 しかし、このように考えないとすれば、判断の対立自体が、一つの社会問題である、というように考えることができるようになる。現実に多くの社会もんぢあは、そのような側面をもっており、それゆえに、問題の解決が困難になっているように思われる。(おそらく)このように考えるフラーとマイヤーズは、社会問題を次の三つに分類することになる。
 
   「物理的問題」=「ほとんどすべての人々によって自分たち福祉に対する脅威とみなされる状態」
   「改善問題」=「改善策についての合意が得られないという状態」
   「道徳的問題」=「改善すべきであるという判断について合意が得られないという状態」

 より詳しい説明は、次のとおりである.

「物理的問題とは、ほとんどすべての人々によって自分たちの福祉に対する脅威と見なされる状態のことだが、しかし、価値判断がその状態自体を引き起こしているとはいえないものを指す。・・・その原因は、人間にはなく、人間ではコントロールできないところにあると考えられている。」(1-75)

「改善問題とは、人々が一般的にはどんな場合にも、その状態がこのましくないことについては合意しているが、しかし、状態の改善策については合意がえらないという状態を指す。・・・改善的問題は、人間によって作られた状態であるという意味において、真に「社会的」である。つまり、この場合、価値判断が、状態を作り出すのをたすけるばかりでなく、その解決をも妨げている。」(1-75)

「道徳的問題は、社会全体を通じて、あらゆる場合において、その状態がこのましくないということについて意見の一致が得られない状態を指す。・・・多くの人々は、それに対して何かをしなければならないとは感じていない。・・・道徳的問題においては、我々は、改善的問題の場合に悩みの種であった解決策よりも、もっと深いところにある社会的価値の基本的で根本的な混乱を抱えているのである。」(1-75)

 キツセ&スペクターは、この分類を次のように批判している。
   「この分類は、状態の定義の特性ではなく、状態そのものの特性についてのも  のである。」(1-75)
ここで、改善問題や道徳的問題もまた、状態の定義の特性ではなく、状態そのものの特性についての分類である、という批判は、おそらく、次のような意味であろう.
 つまり、フラアーとマイヤーズは、改善策についての合意が成立しているかどうかの判断、状態が道徳的に好ましいかどうかについての合意が成立しているかどうかの判断、この二つの判断が、客観的に判定できるかのように論じているということだろう。これらの合意が成立しているかどうかについても、メンバーによって判断がことなるかもしれないので、メンバーの判断を基準にすべきである、という批判であろう。


・価値葛藤アプローチとラベリング理論の三つの相似点。
(講義では、触れなかったが、ラベリング理論との、相似性を論じているかしょがあるので、引用しておく。)

 「(1)社会問題および逸脱は、グループやコミュニティや社会のメンバーが行動や人や状態を問題であると知覚し、解釈し、評価し、そしてそのように取り扱う社会的過程の産物であると見なされる。
(2)2つのパースペクティヴは、問題を構成すると通常考えられている人々の行動や状態から、そのような行動や状態を問題と見なす社会のメンバーへと関心の対象を移す。
(3)焦点が、後者に移ったために、そのような行動や状態の意味が生み出され、制度化されるシンボリックな過程をドキュメントし、説明する方法が必要になる。」(1-95)

 「ラベリング理論は、ある行為を、社会のメンバーがそれをどのように認知し取り扱うかとは無関係に、規範や価値を基準にして逸脱として同定することができるという考え方を否定した。・・・ラベリング理論は、逸脱行為を行う者と、行わない者を区分しようとする支配的な原因論を否定した。そこでは、どのような種類の者であれ、個人的特性が、逸脱者と非逸脱者の違いを説明するという考え方は放棄された。」(1-95)

 「しかし、ラベリングの公式は、従来の原因論の重荷を全く捨てきったかたちでは述べられなかった。ラベリング論の言明には、そのパースペクティヴに固有の洞察を論理上の帰結に至るまで突き詰めなかったために曖昧なところがあり、その曖昧さがラベリング理論への批判やそれをめぐる論争の焦点になった。」(1-96)

 キツセ&スペクターによれば、ラベリング理論も、価値葛藤学派とよく似ている。つまり、客観的な状態の定義による説明を否定したのだが、しかし、客観的状態を理論的想定として残しているために、主観主義的な定義が不徹底となり、矛盾に落ちっている、と彼らは批判するのである。


4、社会構築主義のアプローチ

 キツセとスペクターによれば、社会問題とは、「状態」ではなくて、「活動」なのである。「社会問題とは・・・・のような状態である」という形を取る社会問題の定義は、かならず概念上および方法論上の袋小路につながる。「社会問題とは、ある状態が存在すると主張し、それが問題であると定義する人々による活動である」(1-117)

・キツセとスペクターの定義
    「社会問題」=「何らかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人や
     グループの活動(claim-making activity)」(1-119)

 この定義では、「想定された」という慎重な言いまわしが用いられている。「想定されたputative」は辞書では「評されたreputed、仮定されたhypothesized、または推論されたinferred」と定義されている。つまり、その状態が実際に存在していなくもよい、ということである。
 「この語を用いるのは、どのような要求またはクレイムも、それが存在すると申し立てられたalleged状態についてのものであり、我々社会学者が、すすんでその存在について立証っしたり認定したりすべき状態についてのものではないということを、強調するためである。つまり、クレイム申し立て過程に目を向けるにあたって、申し立てられたクレイムの真偽は問われない。」(1-120)

 「想定された状態が事実として存在することが、社会問題の認定の根拠の一つであると社会学者が言い張るなら、二つの不幸な結果を招くことになる。第一に、社会学者は、非常に狭い範囲のクレイムの認定にしか参加できないのに、しばしば、自分に的確性がない領域にまで、権威ある発言をすることを委任されたと誤解してしまう。たとえば、社会学者は、どのような根拠に基づいて、マリファナの嗜癖性や遺伝学的影響についてコメントできるだけの権威をもつと主張するのか。第二に、社会学者は、自分ではその信頼性と妥当性について判断できない他の専門分野での調査結果を、借用しなければならない立場に身をおくことになる。」(1-122)

この箇所は、不充分だろう。どうしてこれが、不幸な結果なのだろうか。社会学者が、現実についての判断を他の人に依頼することは、なんら問題ではないだろう。むしろ、専門家の判断がしばしば対立することが問題なのである。そのことから、現実についての客観的な判断も、また一つの社会的な事実として扱う必要性を帰結するのである。


 「クレイム申し立て」とは、どういうことなのか、ということは、次回にはなします。.