第3回 講義 
    §2 社会問題の定義(1) 社会構築主義のアプローチ(続き)  


4社会構築主義のアプローチ

-----------------------------つづき

<キツセとスペクターの定義>
  「社会問題」=「何らかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人や
            グループの活動」119

<「クレイム申し立て活動」とは何か>

○ クレイムとは何か
 キツセは、クレイムについての厳密な定義を与えていない.むしろ、この言葉が日常の言葉であることを重視する。日常の言葉であるがゆえに、これは当事者によって使われる言葉である.当事者たちが、クレイムと呼んでいる行為がクレイムなのである。社会問題が、当事者たちによって、構築されるのだとすれば、このことは重要である。クレイムについて、学問的に厳密な定義を与えることは、社会学者が、社会問題を定義するということにつながるのである.(それゆえに、この議論を、日本社会に適用しようとするのならば、クレイムに代わる言葉を我々は、探す必要があるだろう。)

「辞書によれば、クレイムは、つぎのように定義される。
1、権威的もしくは挑戦的な要請
2、権利や、権利と思われるものの要求
3、他者への当然の支払い、あるいはそう思われるものの請求
4、適切な正当性の根拠向きに行われる、あるいは行われていそうだと思われる  主張、声明、または示唆。」123


○ クレイムを申し立てるのは、誰か?
 上の定義では、曖昧であるが、次の箇所によれば、好ましくない状況にある当事者が、クレイムを申し立てる人物として考えられている。
 「ある状態が、社会問題であるという定義は、自分にとって好ましくない状況に人々の目を向けさせ、その状況を変えるために諸機関を動かそうとする社会のメンバーの手によって構成される。」123

 しかし、後の言及からすれば、善意の第三者が申し立てることも、想定されているようだ.

○ クレイムの申し立ては、社会的に構築される
 キツセは、
   「クレイムの申し立ては、常に相互作用の一形式である」(1-124)
   「クレイムは、社会的に構成されたカテゴリーだ」(1-125)
と述べている。これは、どういう意味だろうか.

「クレイムの申し立ては、常に相互作用の一形式である。つまりそれは、ある活動主体から他の者に向けての、ある想定された状態について何かをすべきだという要求である。クレイムには、それを行う者が、満足する結果を得られるかどうかはともかく、少なくとも他者に自分の主張を聞かせる権利を持つという含みがある。」124

 この引用から、次の二つの特徴を挙げることができる。
(1)クレイム申し立ては、ある活動主体から他の主体へ向けての活動である。
(2)クレイム申し立ては、相手の活動を要求する活動である。

「どのような活動であれ、それがクレイム申し立て活動であるという分類は、その活動に固有の性質には基づかない。ある活動の参加者が、それに答える措置をしてもらう権利を掲げて主張や要求を行うとき、社会学者は、その主張や要求を含む相互作用のあり方を基準に、それをクレイム申し立て活動と分類する。したがって、我々の定義によるなら、社会学者は、参加者が活動しながら、その活動をどのように定義しているかを確かめなければならない。」124

 この引用から、次の特徴を挙げることができる。
(3)クレイム申し立ては、行為の固有の性質によってではなく、参加者の定    義によって、クレイム申し立てとなる。
(つまり、参加者の相互作用によって、クレイム申し立てとして定義さ     れることによって、クレイム申し立て活動となる。)

この(3)の条件は、複雑である。なぜなら、次のように様々なケースが考えられるからである.

以下の表で、たとえば cとあるのは、第三者からみてクレイムであるケース、-cとあるのは、第三者からみてクレイムではないケースである。

申し立てる者
クレイムである クレイムでない
受け手 クレイムである   a (-a?)   c  -c
クレイムでない」   b ーb  (d?) -d 


(a) 両当事者も、第三者もクレイムだとみなすとき。
(-a)両当事者は、クレイムだとみなしているが、第三者はそれをクレイムだとはみなさないとき。
 総会屋がクレイムを申し立て、会社がそれに応じるとき、第三者は、それをクレイムとみなさない.

(-b)クレイムを申して立てている者だけが、クレイムだと主張しており、その相手も、その他の人も、それをクレイムだとはみなさない場合。
 キツセは、これをクレイム申し立てとは、みなさない.彼の挙げている例は、東洋宗教の講義中に発言を求めて、突然郵便局が如何に非能率的であるかについてスピーチをはじめるた学生である。1-126)

 ある行為を、クレイムだとみなさないということは、どういうことだろうか。
 (1)無視する
 (2)冗談だとみなす
 (3)「逸脱」「精神病」「奇妙な行為」「狂気の産物」(1-126)とみなす
(4)「正当性のない要求」
(5)「犯罪」(1-125)「不当な要求」


上の学生の例は、(1)である。   

(b) クレイムを申し立てる者が、クレイムだと主張しているが、受け手は、それをクレイムだとはみなさない。しかし、多くの人は、それをクレイムだとみなす場合。
 たとえば、秋田県の第三セクターの立てた住宅の欠陥について、秋田県がクレイムを申し立てられたとき、秋田県は、それをクレイムとしてうけつけない。しかし、多くの人は、それをクレイムだとみなした.

「クレイムや苦情はその正当性を暗黙のうちに否定され、犯罪や逸脱として取り扱われることもありうる。」(1-125)

(c)発言しているものは、クレイムだと考えていないのに、相手、あるいはその他の人が、それをクレイムだとみなし、それに見合った反応をする場合。その他の人々もそれをクレイムだとみなすとき。

 キツセは、次のような例を挙げている。ジャーナリストが、地元のレストランの調理場の不衛生さについて記事を書いたとする。その記事が、保健所やレストランの経営者をハッキリとは批判せず、何の処置も求めていないとしても、彼らが、それをクレイムとみなし、それに対応するということは、あり得る。(1-125)
 また、テロ犯罪について「報道機関、警察、公共機関の担当者は、しばしばよく知られているテロリストグループにその活動を帰属させ、その事件の意味を理解可能なものにしようとする。こうして、観察者の手でクレイムが作り出され、実際には何のクレイムも提出されていない事件に付与される。それとは、逆に、あるい事件について、自分たちがそれに関与しているという書庫など証拠などまったくないのに、様々なグループがその責任者だと申し立てることもある。」(1-126)

(-c)発言しているものは、クレイムだと考えていないのに、相手が、それをクレイムだとみなし、それに見合った反応をする場合。その他の人々は、それをクレイムだとみなさないとき。
   (この例は、だれか、そそっかしい人物を想定してみて下さい。)

・極端な事例
 中河氏は、「たとえ一人か二人の私人によるクレイム申し立てであっても、研究者がそれに関心を抱くなら、その活動を研究対象に含めてかまわない。」(2-24)と主張している。つまり、上の学生の例は、クレイムではないとみなされたのであるが、もし一人でもよいのだとすれば、それもまたクレイム申し立てであることになる.それでは、クレイム申し立てが、<相互作用の一形式である><社会的に構成される>ということは、どうなるのだろうか。それは、上の学生が、自分の行為をクレイム申し立て行為とみなすとき、その彼の自分についての定義自体が、社会的に構成されているということである。つまり、社会構築主義を極端に理解すれば、たとえ、一人だけで、社会問題だと見なしている段階であっても、それは、社会的に構成された行為なのだ、ということになる。


<クレイムについての問いの種類>
 では、構築主義者は、このような社会問題について、どのような問いを立てるのだろうか。

 まず、つぎのような問いは、適切ではないという。
  「なぜ人はそうしたことをするのか」

その理由は、次のとおりである.
「そのような問いが立てられたとき、必ずといっていいほど、これらの活動に参加している人の個人的および社会的な属性や、参加している人としていない人の差異に関心が向けられる。」128
「クレイム申し立て活動の参加者のサンプルを抽出し、参加を予測するような個人的、社会的特性を調べる研究は、クレイム申し立て自体の組織から研究者の目をそらせてしまうことになる。」129
「我々は、そのような活動そのものが、社会問題研究の対象であると考える立場に立ち、活動の諸形式に調査の焦点を合わせる。人々がなぜ活動に参加するにいたったかではなく、その活動がどのようにして現に存在するように存在するような形に組織されたか、という問いを立てる。」129

キツセ&スペクターの立てる問いは、次のようなものである。
「なぜ社会問題という活動が現にあるような形に組織されているのか」
「その組織上の多様性をどのように説明すればよいのか」
「時の経過とともにその組織が変化するのはなぜなのか」(1-129)


キツセ&スペクターは、別のところでは、つぎのようにも整理している。

「第一に、クレイムはなにによって成り立っており、その構成要素は何なのかということを考えてみよう。クレイムは、ある主体に対して、行う要求である。それでは、クレイムの起こし手と受け手になる二つの主体は、どのようにして出会うのか。」129
「第二に、クレイムの起こし手(原告)は、どのようにして苦情の持ち込みを決めるのか。多種多様な司法機関、官庁、そして回付(たらい回し)のネットワークの中からの苦情持ち込み先の選択、またはその中のどこかへの苦情の集中の過程は、それ自体がプロブレマティックであり、関心をむけられるべきものである。」129
「第三に、クレイムの起こし手は、問題の状態からだれが利益を得ているかという問いを立て、既得権益をも探すかもしれない。これらの選択肢のそれぞれが、クレイムをどう表現し、だれに申し立てるかについての違った戦略と結びつくことになる。」130

<価値の役割>
「クレイムは、規範的な現象なのだ。それはあるべきでない状態、それを改善するために何かがなされるべき状態についての言明である。」(1-134)

しかし、キツセ&スペクターは、社会問題を、個人やグループが持っている価値を用いて説明することを、批判する。

「人がなぜある状態を社会問題と定義するかを、価値を用いて説明するのは、いわば強引な説明である。それは、どのようにして、どんな過程を通じて価値がそのような効果をあげるかという、重要な経験的課題にふれることを回避している


○ ミルズの動機論

・動機は、心の内奥にあるのではない。社会化の過程で内面化される。
「ミルズは、動機を社会的行動を説明するものと見る、従来の考え方に異議をとなえた。従来、動機は、個人の奥底深くあって、行為の主要な要因、またはばねとなるものと考えられてきた。・・・価値を説明に使う社会学者は、価値は学習され、社会化の過程で内面化されるという点を強調する。」143

・動機は問いへの答えである。
「動機は、「あなたはなぜそれをしたのか」という問いに対する人々の答えであるとされる。それは問いの対象となっている一連の行動を正当化し、説明しようとするこころみである。」144

・動機は、行為の原因ではない。
「ミルズは、さらに、この議論をとれば、動機は言語的および文化的な資源によって形作られ、パタン化されることになるから、個々の行為のそれぞれに固有の動機があるという主張は、覆されると指摘する。その上、動機は、行為についての問いへの事後的な答えと考えられる以上、その行為の原因ではありえない。」144

(Mills, C.Wright, "Situated Actions and Vocabularies of Motives," American Sociological Review, 6(Dezember)1940,904-913 「状況における行為と動機の語彙」本間、青木監訳『権力・政治・民衆』みすず書房、1971、pp.344-355)

○ 近年の動機論
 スコットとライマン(1968年)やブラムとマクヒュー(1971年)の動機論

・動機は、説明活動の産物であり、資源である。
「一連の行動について問いかけがなされないとき、つまり、一連の行動の意味を行為者やその行為のオーディエンスが問題にしないとき、行為者の行為の動機は、行為者と他者との相互作用の際だった特徴にはならない。動機は、したがって、社会のメンバーが、問題とされている行動を説明しようとして行う活動の産物である。それは、集団の言語と文化の中に蓄えられており、ある種の問い−−とりわけ一連の行動の意味または目的についての問い−−が出されたときに利用できる、一種の資源なのだ。動機は、意味を再建して、中断されたり、疑問視されたりしている相互作用の流れを元に戻すために、人々によって用いられる。」144

○ このような動機論を使って、キツセ&スペクターは、価値をつぎのように説明する。
・価値とは問いへの答えである。
「価値とは、「なぜこれについてあなたは怒るのか」もしくは「今我々がこれを取り扱っているやり方の、どこが悪いのか」という問いへの答えである.」(1-145)

・価値とは、資源の一つである。
「価値とは、ある状態を社会問題として定義しようとするときに、社会のメンバーが使う資源の一つであるという見解にたどりついた」(1-151)


○ グールドナーの「道徳の言語」についての議論

「「すべきだ」「しなければならない」という道徳の言語と感情は、主にこのような状況下で生まれ、最もよく発達し、利用される。道徳とそれに基づく、クレイムは、エゴがアルターに自分の望むことをさせる方法の一つである。(望ましいパファーマンスや物が希少もしくは条件依存的な状況下で、しかもエゴが、そのような状況になっているのは、自分に技量、能力、資源や設備がないからではなく、アルターに望ましいものを提供する意志がないからだ、と定義するとき、道徳が発生すると考えられる。自分の望むようにする能力はあるがその意志がない相手に対して、利益を供与すると約束したり、ばつを与えると脅かしたりする力や能力が自分に十分にないときには、エゴは、利益やばつによらずにアルターの動機を修正する手立てを見つけださねばならない。)これは、狭い範囲の状況に限定されず、利益供与の約束や処罰するという脅かしとは無関係な、ある種の「訴え」というかたちをとる。これが、道徳の言語の本質的な特性である。それは、状況的なものではない。なぜなら、そこでは、つねに、あるタイプの状況下では、あるタイプの人は何をすべきかということが、示されるからだ.た だ一つの具体的な場合において、ただ一人の人だけに貸される道徳的クレイムなどというものは、ありえない。」(1-148)
(Gouldner,Alvin, The Coming Crisis in Western Sociology, New York,Avon Books, 1960. 岡田直之他共訳『社会学の再生を求めて』新曜社、1978)

「グールドナーの考え方は、多くの点で、ミルズの動機と価値の理論や、われわれによるその応用に似ている。
第一に、グールドナーは、動機と価値の言語的、レトリック的な性格を強調する。道徳とは、ある種の話し方なのであり、そのようなものとして理解されなければならない。
第二に、道徳のレトリックの使用を条件付けるのは、アルターには自分を援助する能力はあるが、その意志はないという、エゴの想定である。アルターに援助する能力はあるが、その意志はないとうのが、本当かどうかは問題ではない.そういう状態にあるというエゴの想定が、道徳の言語の使用へとつながるのだ。
第三に、グールドナーは、道徳の言語を用いて,エゴの要求を個人的,党派的な利益を目指さないものとして提示することを通してして、エゴの個人的な要求が、アルターへの道徳的クレイムに変換されるということを示した.アルターがエゴに利害関心をもたない者という地位を与えて、クレイム自体の正当生を認めることが、この変換の前提である。つまり、道徳のレトリックは、問題と定義される状態を解決する用具であるといえる。道徳のレトリックは、ある言語的共同体に固有の表現で、個人的経験を述べることによって、その経験を一般化し、社会的な論点とする。」149


 キツセは、社会問題は、「利害にもとづくもの」と「価値を志向するもの」に区分し、(1-139)、つぎのような問題を立てる。
 「真摯に道徳的立場をよりどころにする参加者と、自分たちの物質的利害の追求のためにシニカルに価値を操作する参加者とを、社会学者は、どのようにして区別するのか。」139
 キツセの之に対する答えは、つぎのようなものになるのだろう。グールドナーのいうような道徳のレトリックが行われているかどうか、「価値に基づくもの」か「利害に基づくもの」かの区別の指標になる。そして、それ以上の内面的な区別はない、ということだろう。



<社会問題の自然史>
○ フラーとマイヤーズ
「社会問題は、常に動的な「生成途上の」段階にあるものと考えられる。社会問題は、認識、政策決定、改革という自然史の段階を通過してゆく。」206

・分析的帰納
 このように考えた彼らは、この自然史を明かにするための方法として、<分析的帰納>(帰納とそれからの一般化)という方法を用いた.
 その方法について、つぎのように説明している。
「研究している現象の一例を選び、このケースの説明を構築する。さらに、もう一つのケースを加える。もし、第一のケースの説明が第二のケースに当てはまらないとき、次の二つの操作が可能である。(1)二つのケースのうち一つが除外されるようにカテゴリーの定義を修正する。(2)加えられたケースに当てはまるように説明または解釈を変更する。さらに、第三のケースを選び、同じ操作を行う。説明の修正や、逸脱事例を除外するための再定義がそれ以上必要なくなるまで、この過程を続ける。以上のような形をとる、研究の結果が、真の自然史、つまりカテゴリーの全メンバーに共通の諸要素の説明となる。」215

・フラーとマイヤーズによる自然史の段階論
   認識
   政策決定
   改革
フラーとマイヤーズは、すべての社会問題は、この3つの段階を通過するとかんがえたようだ(1ー219)。しかし、ブルーマーは、それを批判する。「ある段階から、次の段階への移行は、既定のものではないと強調した。社会問題は、ある段階まで進み、そしてその次の段階へは、移行しないかもしれない。」219

 ブルーマー(1971)は、集合行動についての理論を転用して、つぎのような段階を考えた。
   (Blumer, Habert,"Social Problems as Collective Behavior", Social Problems,18(Winter),1971, pp.298-306)
  「1 社会問題の創発
   2、問題の正当化
   3、それに対応する施策の動員
   4、公式の計画の形成
   5、公式の計画の実施  」(1-219)
 
○ キツセ&スペクターの提案

「段階1 (一つまたは複数の)グループによる、ある状態の存在を主張し、その状態を不快なもの、有害なもの、あるいはそれ以外の意味で望ましくないものと定義し、そのような主張を宣伝し、論争を促し、そして、その件についての公共のもしくは政治的な論争点を創り出そうとする試み。

段階2 何らかの公式の組織、機関、または制度によるこれらのグループの正当性の認知。これは、公式の調査や改革のための提案、上述のようなクレイムや要求に答える機関の設置という結論をもたらすかもしれない。

段階3 はじめにクレイムを申し立てたグループもしくはほかのグループからの、クレイムと要求の再登場、これは、想定された状態に対処するために確立された手続き、官僚主義的な苦情の取り扱い、対処手続きへの社会的信用と確信の不足
、もしくは苦情への共感の欠如についての、不満の表明という形を取る。

段階4 苦情を申し立てているグループによる確立された手続きへの反応。これはグループのクレイムや要求に対する公的機関や制度の反応(もしくは反応がないという事実)を拒絶したり、彼らによるオールタナティヴの、既存のものと平行して存在する、もしくは既存のものに対抗して存在する制度を作り出すための活動を展開するという形をとる。


<社会構築主義アプローチへの批判>

 キツセ&スペクターの定義では、社会問題も個人的な問題も区別ができない。まずは、クレイムのもつ<社会性>を規定する必要があるだろう。このようになってしまう理由の一つは、社会構成主義の性格にあるように思われる。社会構成主義は、社会制度だけでなく心も社会的相互作用によって、構成されていると考える。つまり、そこでは、心と社会の区別よりも、それらの共通性が強調される結果になる。
 このように、社会問題が、個人問題や私的な問題と明確に区別されないことの結果として、社会問題が、まるで通常科学のパズル問題のように扱われている。つまり、公的な機関が取り組むべき問題が、主として社会問題としてとりあげられることになり、社会問題が矮小化されているようにおもわれる。


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補足:社会構築主義とは何か

 いずれ補足説明する予定です。