第7回  講義  


§3 社会問題の定義(2) 社会システム論のアプローチ
つづき

3、ルーマンの社会システム理論

注1:ルーマンの経歴

1927年     リューネブルク生まれ
1944年(17才)空軍補佐兵として戦争に巻き込まれた。
1946年(19才)から法律学を学んだ。
          上級行政裁判所で行政官としてはたらく。
1955年(28才)州議会担当官としてニーダーザクセン州の文部省へ移った
1960/61年  ハーバード大学にいった。
1962年(35才)帰国後、シュパイアーにある行政学の大学の担当官になった。
1964年(37才)最初の著書『公式組織の機能と帰結』が出版。
1965年(38才)ヘルムート・シェルスキーのまねきでドルトムントの社会学研究所にゆく。
『制度としての基本法』
1968年(41才)ビールフェルト大学の教授になった。
1972年(45才)『法社会学』
1975年(48才)『権力』
1984年(57才)『社会システム』を出版
          オートポイエーシス的システム理論へ転換。
1986年(59才)『エコロジー的コミュニケーション』
1990年(63才)『社会の科学』
         
参照:ゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著『ルーマン 社会システム理論』                                 新泉社



(1)オートポイエティック・システムの説明

 オートポイエティック・システムとは、次の2条件を満たすシステムである。
1、構成要素の相互作用によって、構成要素が再生産される
2、システム自身が、システムと環境との境界を設定する。


参考文献 H.R.Maturana & F.J.Varela, Autopoiesis nad Cognition;
The Realization of the Living, Reidel Publishing, 1972.
マトゥラーナ、ヴァレラ『オートポイエーシス』河本英夫、国文社
    河本英夫『オートポイエーシス』青土社

ルーマンは、これを社会システムに応用して、社会システム理論に新しい段階を拓いた。

 つまり、ダブルコンティンジェンシーについての理論と、オートポイエティック・システムを組み合わせることによって、社会システムの中で、コミュニケーションがコミュニケーションを再生産するというメカニズムが明らかになったのである. 社会システムは、行為ではなくて、コミュニケーションを構成要素とするオートポイエティック・システムである。


ちなみに、ルーマンは、自己言及的オートポイエティック・システムとしてつぎのようなものを挙げている。
   生命体のシステム 細胞 脳 有機体など
   心的システム
   社会システム   諸社会、組織、相互行為

   (ルーマン『自己言及性について』(原書1990)国文社p.6)

注2 アロポイエティック・システムとヘテロポイエティック・システム
  (ここの記述は、ヴァレラやミンガースの解釈というよりも、私なりの一つの提案と考えて下さい)  
        allopoietic sys.   heteropoietic sys. 

マトゥラーナ   クルマ        (例なし) 
& ヴァレラ

Mingers     結晶や川        化学工場


autopietic sys. は、<自分>が自分をつくる。
allopoietic sys. は、<他者>が自分をつくる。
  たとえば、<自動車工場>が自動車をつくる。

autopoietic.sys. は、自分が<自分>をつくる。
heteropoietic sys. は、自分が<他者>をつくる。
  たとえば、化学工場が<ペットボトル>をつくる。

これを次のように説明することもできるとおもいます。

  xがxをつくるとき xは autopoietic である。
 xがyをつくるとき、xが heteropoietic であり、yが allopoietic である。

たとえば、化学工場がペットボトルをつくるとき、化学工場が heteropoietic であり、ペットボトルが allopoietic である。

(2)コミュニケーションの説明

○従来のコミュニケーション理解

「通常、コミュニケーション概念については、「移転」Uebertragung のメタファーが用いられている。」(『社会システム』邦訳、217)
「移転メタファーは、役に立たない.なぜなら、それはあまりにも多くの存在論的発想にとらわれているからである。」(同書、218)
「送り手自身は、何かを失うという意味で、受け手に何かを手渡してはいない。所有すること、手に入れること、あるいは受け取ること、といったメタファーのしようは、ことごとく、つまりモノ・メタファーの使用は,コミュニケーションの理解に適さない。」(同書、218)

○コミュニケーションは、三つの選択の綜合である。

    情報の選択
    伝達形式の選択
    理解の選択

・情報の選択
「コミュニケーションは、それぞれの時点での、顕在的な指示地平−−から何かを選び出し,それ以外のものをその時点では取り上げない.コミュニケーションは、そうした選択の処理過程にほかならない。」

  コード化された出来事  情報
  コード化されない出来事 攪乱(雑音、ノイズ)

・伝達形式の選択
「コミュニケーションは、自我が情報そのもの選択と伝達の仕方の選択という二つの選択を区別でき、この差異を自我自身で処理することができるということによってのみ成立する。」223

・理解の選択
「理解することが、コミュニケーションの成立の不可欠のモメントであることは、コミュニケーションのどんな把握に対しても深甚な意義を有している。つまりそのことから、コミュニケーションは自己準拠的な過程としてのみ可能であるということが帰結されるのである」(同書、224)
「あるコミュニケーション的行為にあるコミュニケーション的行為が次々と続く場合、先行するコミュニケーションが理解されているのかどうかの吟味が、その都度おこなわれている。」(同書、224)
「個々のコミュニケーションは、どんなに短く、あるいはどんなに束の間であれ、コミュニケーション過程の要素としてのみ要素なのである」225


・コミュニケーションの受容と拒否
「タバコ,アルコール、バター、冷凍肉などは健康を損ねる」ということを読んで理解すると、(そのことを知って気にならざるを得ない者として)−−信用するか、信用しないかは別として,−−その点でいままでとは違う人間になる。いまやそのことを無視しえないし、できることといえば、それを信用するか、信用しないか、ということに限定される。受けたが信用するか、信用しないか、いずれに決定しようとも、コミュニケーションによって受けての状態は規定されており,そうした受けての状態は、もしも、コミュニケーションがなかったらありえなかったにちがいないだろう。」(同書、231)

「コミュニケーションは、その受け手の状態を変化させるという点では、受け手に対する一種の限定として作用している。つまり、コミュニケーションは、その時点においてなお可能なことの未規定の任意性を排除している。しかしながら、別の面においては、コミュニケーションは、そうした可能な事柄を拡充しているのであり、精確にえば、いま述べた限定を通してそうしているのである。コミュニケーションは、それを拒否する可能性を誘発している(その受容ととともに誘発しているといって差し支えない)。「口に出して言われた言葉は、言われたのとは反対の意味を生み出している」のであり、くわしくいえば、その言葉が口に出して言われなかったらまったく生じなかったであろう反対の意味を喚起しているのである。」(同所)

「そうはいっても、相手から期待されみずから理解した選択を受容したり、拒否したりすることは、コミュニケーションという事象の部分なのではない。そうした受容や拒否は、コミュニケーションに接続している行動なのである。」(同書、232)

「受容か拒否かの決着が切迫している状況で、そのいずれにも開かれている事態を創り出すことが、コミュニケーションの目指す効果なのだが、コミュニケーションそれ自体には拒否よりも受容へと受け手を向かわせる圧力要因が存しているといってよい。こうした圧力は、一つにはコンフリクトの生起が見込まれればそれを回避することを通して作用し、一つにはそれと密接に関連して、シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディアをとおして作用している。」(同書、232)

一定の選択への圧力には、次の二つがある。
    @敵対を避けること
    Aコミュニケーション・メディア






(3)動機の帰属による、行為の構成

(引用文献、ルーマン『権力』勁草書房、1986、以下の引用はこの訳書の頁数)
     Niklas Luhmann,Macht, Ferdinand Enke Verlag, Stuttgart, 1975)

○行為Handelnの定義

 「私たちは、選択的な行動Verhaltenがあるシステム(その環境ではなく)に帰属zurechnenさせられる場合、しかもその場合に限って、これを行為 Handelnと呼ぶことにしよう。」30

(「それぞれの行為は、帰属の過程をとおして構成される。行為が成立するのは、何らかの根拠からか、何らかのコンテクストにおいて、何らかのゼマンティーク(「意図」「動機」「利害関心」)によって、選択がシステムに帰属されることによってなのである。」(『社会システム』邦訳261))

 「ここでの帰属化は、選択そのものに関連しており、いわば縮減の奇跡について説明を与えてくれるものである。体験として帰属させるか、それとも行為として帰属させるかということについては、多くの場合人々の間で意見の違いがありえようし、現にあるはずである。」
 「しかし、同時にまたすくなくとも問題状況の明確化のためにこうした疑問を解きあかそうとする社会的な関心も存在している。というのは、社会における他のシステムでもおなじ選択が要求されていうるのか、別種の選択が許容されるのかという問題も、つまりは環境への帰属化かシステムへの帰属化か、ということに依存しているからである。ひとは同じように体験しなければならないが、別様に行為することができる」30

      行為                  体験 Erleben
  選択をシステムへ帰属         選択を環境へ帰属
  別種の選択が許容される         同じ選択が要求される
     規範的期待             認知的期待(注39)

 「帰属させてラベルを貼るという関心 Etikettierungsinteresse の後に続くのは、行為の事実を前提してそれに説明を与える類別化、すなわち自己の行為や他者の行為の体験の仕方を秩序づける類別化である。」31

     行為の類別化 → 行為の体験の類別化

○自由意志や動機は、第一次的な事実ではない
 「意志(理性とは区別された)の概念や選択の偶発性を自由(偶然と区別された)として把握することは、この類別化の一部であるし、最近で言えば、とくに動機や意図の認定がそうである。自由意志というのは、行為の古代ヨーロッパ的な一属性であるし、動機づけられているという性質は、行為の近代的な一属性である。それらは、どちらの場合にも第一次的な事実ではなく、ましてや行為の<原因>ではない。そうではなくて、それらは、行為についての社会的に一致した体験を可能にする帰属認定のあり方である。」32

 「動機は、行為するに当たって必要なものではないが、行為を理解しつつ体験するためには必要なものである。この理由から、社会的秩序は、行為そのものの水準においてよりも動機認定の水準において、はるかに強く統合化されることになろう。だからこそ動機の理解は、そもそもそこに行為が存在しているのかどうかということについて、遡求的に認識するための助けとなるのである。」32