第9回  講義  


§3 社会問題の定義(3)  暫定案

1、「社会問題」の定義(暫定案)
  「社会問題とは、社会全体で取り組まなければ解決できない問題である」

 社会制度の創設や修正や廃止を必要とする問題は、この社会問題に含まれる。しかし、社会全体で取り組まなければ解決できない問題は、そのような社会制度にかかわる問題だけではない。その典型的なものは、社会問題の設定をめぐる対立という問題である。しかも、この問題は、社会統合にかかわる基本的な問題である。

(1)キツセの定義は、個人的なクレイムと社会的なクレイムの区別がなされていなかったので、もしそれをなそうとすれば
    「人々が「社会問題」としてクレイムを申し立てる活動」
という定義になるだろう。この定義は、循環してはいない。なぜなら、社会学者が「社会問題」として研究の対象にするものは、「人々が「社会問題」としてクレイムを申し立てる活動」である、ということだからである。しかし、この定義では、人々がなにを「社会問題」として考えるのか、ということについての内容的な規定は含まれていない.その内容的な規定を補って、次のように言うこともできるだろう.
   「社会問題とは、社会全体で取り組まなければ解決できない問題として、クレイムを申し立てる    活動である」
しかし、我々は、このような定義をとらない。なぜなら、我々は、訴え活動にとどまらず、社会全体の中でのその機能に関心があるからである。

(2)社会システム論のアプローチ
社会問題の社会全体の中での機能については、社会システム論のアプローチから得るものが多い。我々は、社会運動論を手がかりに、つぎのように社会問題を社会全体の中に、位置付けることができるだろう。

 社会的出来事  →  社会問題 →  社会運動 →  社会制度
(事件・事故・災害)← ← ←

        ----------------------------------------

     過程(出来事)  事件 事故 社会運動
     構造       社会問題        社会制度

・システム理論からは、つぎのような論点も拾い出すことができた。
すべての個人問題は、社会問題でもある。
  社会問題は、社会のコードであり、社会分化を促進する。
・このようなアプローチは、安定した社会像を描きがちであるという社会システム論に対するよくある批判に、答えることになるだろう.
・しかし、従来の社会システム理論による社会問題の考察に欠けている視点は、主体としての社会という視点である。(この視点は、批判されるべきかもしれないが、しかし吟味しておく必要はあるだろう。)


§4  社会問題と主体化


1、社会問題と社会の主体化

<原始共同体の主体性についての素朴な記述>
 原始共同体は、すでに主体性をもつようにみえる。たとえば、ある部族は、他の部族と戦争をする。あるいは、物の交換をする。このような部族は、一個の主体とみなすことができるように見える。
 食糧をとること、環境から身をまもること、などを、原始社会では、共同でおこなう。この共同作業には、指導者が必要である。共同作業を行うには、指導者と部下が必要である。指導者は、全体をみて行為調整をしなければならない。しかし、部下も、ある目的のために、指導者に従っていることを理解していなければならない。その指示が適切であることの根拠を知っている必要はないし、またばあいによっては、自分の行為が、全体の作業の中でどのような役割を担っているのかを知らなくてもよい.そして、このような共同作業は、社会全体で取り組むことが必要な社会問題を解決するためのものである。社会問題が、組織としての社会、主体としての社会を作り出す。

 では、このような素朴な記述は、厳密に考えるとき、単なる比喩ではなくて、文字通りの意味で、共同体が主体である、という意味で理解することができるのだろうか。この節で吟味したいのは、そのようなことである。


<社会は如何にして主体になりうるのか?>

(1)代表によって社会は主体となりうるか?
 契約によって、一人の人間にすべての権利を委任して、彼を代表者とみなすとき、彼の言葉や行為は、共同体の言葉であり行為である。こうして、契約によって、社会は、一個の主体となりうるようにおもわれる。
 しかし、この場合の問題は、「一人の人に権利を委任して、彼を代表者にすることが如何にして可能か」ということである。
たとえば、xさんが、aさんと契約して、aさんを代表し、bさんともcさんともdさんともというようにして10人の人とそのような契約を結んだとしよう。このとき、彼は、10人のおのおのの代表者であるが、10人が共同体となっているのではない。
 彼が集団を代表するためには、まず彼は集団の全個人を代表するのではなくて、集団の全体を代表しなければならない。そのために、集団の全体と契約しなければならない。そのためには、集団全体が契約当事者となり、契約行為を行うのでなければならない。
 すなわち、この場合には、集団全体が、一つの主体であることが前提されている。こうして、問題は、振り出しにもどるのである。

(2)社会が一個の主体であるとは、どういうことか?
 個人が主体であるというのは、彼が意図的な行為をする場合である。意図的な行為であるかないかの基準になるのは、「なぜ」という問いに答えられるか否かという区別である。
 これを社会に当てはめるなら、社会の出来事が、「なぜ」という問いに答えら得るときには、その社会的な出来事は、社会の意図的な行為である。そのとき、社会は主体である。
 ここで、「なぜ」と問うのは、社会の外部の存在者であってもよいし、社会のメンバーであってもよい。個人の場合もまた、他者に「なぜ」と問われる場合もあれば、自分で問うばあいもあるからである。
 では、答えるのは、誰だろうか。社会が行為の主体であるならば、社会が答えるのでなければならない。具体的には、人間が答えるしかないだろうが、それが社会による答えであると言えるためには、代表によるのではなく、別の仕方によるのでなければならない。

(3)相互知識によって、社会は主体になるのか?
 社会制度というのは、その制度についての人々の認識によって、制度として成立する。たとえば、貨幣制度は、人々が貨幣制度を認識することによって、成立する。言葉も、人々がその言葉の意味を認識することによって、言葉として成立する。法も、そうである。たとえば、10時40分に、二時間目が始まる、という制度もそうである。社会は、人々の社会についての認識によって成立している。 しかし、これだけでは、社会が認識の主体であるとはいえない。人々の社会についての認識は、個々人の認識にとどまらない。人々は、その知識が、相互知識になっていると想定している。相互知識になっているという想定が、社会制度が制度として成立するための必要条件である。たとえば、交通信号のような制度であっても、それをみんなが知っているだけではなくて、みんなが知っていることをみんなが皆が知っていなければ、それは交通信号として役立たない.では、そのような相互知識の主体は、だれだろうか。それは、個人ではない.それは共同体である。
(ただし、ここにいうような相互知識があることを確認することは、我々には原理的に不可能である.しかし、そのようなものが成立していると予期しながら、我々は、生活している。そのような予期なしには、社会制度もコミュニケーションも不可能である.)
 ところで、ある制度をつくる前に(あるいは作ったあとで)、それを何のために作るのか(作ったのか)、という問いに対して、「それは、この社会問題を解決するためです」と個人が答えるとき、その社会問題が、相互知識になっており、またその社会問題の解決方法が、その制度であることが、相互知識になっているのならば、それは、社会が主体として答えているのだ、ということができる。このように言えるとすれば、この制度の設立は、社会という主体による自由な意思決定であることになるはずである。

(もちろん、その社会問題の設定、あるいは解決方法に反対する人が、存在するだろう。それを考えることは、次回に回したい)

(「相互知識」の概念が、明晰判明ではないので、以上の議論は、非常に怪しげなものです。相互知識の主体が、個人ではないとしても、それでは、その主体は社会だといえるのか、あるいはむしろ、相互知識には主体はない、というべきかもれません。
 しかし、社会ないし共同体の主体性を論証しようとすれば、これがいまのところ、私に思いつく唯一の可能性です。逆にいうと、これ以上のことを言うことはできないだろう、ということです。これ以上のことを、主体としての共同体について語ることは、擬人的な比喩でしかありません。
相互知識については、拙論「メタコミュニケーションのパラドクス U」(『大阪樟蔭女子大学論集』31号、1994)、また昨年度の共通教育の講義「認識と存在」の「第4回 相互知識」を参照してください。)

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注:偽人的な答え方
 たとえば、犬がほえているときに、「なぜあの犬は、吠えているのですか」と問われた人が、「あの犬は、餌がほしくて、いつも時間にほえるのです」と答えるとき、その人は、犬の振る舞いを、意図的な行為とみなしているのである。犬の振る舞いについての「なぜ」の問いへの答えを与える人は、犬の振る舞いを、意図的行為とみなしているのである。あるいは、犬には意志がないと考えている人であっても、犬に意志があるかのうように擬人的に語っていることを認めるだろう.
 「なぜ、あゆは、ここに集まってくるのですか」と問われた人が、「なぜなら、こういう場所に餌があるからです」と答えるものは、あゆに意志があるとは思っていないかもしれないが、意志があるかのような擬人的な語り方をしていることをみとめるだろう。
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注:社会問題の分類

・個人問題については、つぎのように考えられる。
  問題状況=意図と現実との矛盾した状況
  問題  現実変革問題
         実践問題
         理論問題
         決定問題
      妥協調整問題
     
(この問題の分類については、拙論「問題の分類」(『待兼山論叢』28号、1994)を参照。)

・これならって、社会問題を考えるとどうなるだろうか.
 まず、社会問題は、次のように定義できるだろう.(この定義と、§3での暫定的定義との関係については、次回以降に考察する。)

    社会問題=社会についての価値判断と社会の現実との矛盾した状況

 この矛盾を、現実変革によって解決する、というのが社会問題の多くの場合であろう。この矛盾を妥協調整によって解決するということ、つまり、社会についての価値判断を変更することによって、解決するということもよくあることである。たとえば、社会の変化を嘆くのではなくて、自分の価値判断のほうを訂正するということも、よくあることである。
 たとえば、不登校の生徒が増えているときに、現実変革をかんがえるとト同時に、他方では、子供は学校に行かなければならない、という価値判断を訂正するということもある。

 そこで、社会問題は、どのような解決方法をとるかで、次の二つに区別できる。
     現実変革問題
     価値観修正問題(妥協調整問題)

 さて、では、ある社会問題が生じたときに、上のどちらの問題として捉えるかの、決定をおこなうことが必要である。これは決定問題である。
 次に、現実変革問題として、社会問題が捉えられたときに、実践によって問題を解決するとは、どのようなことだろうか.
 たとえば、「失業の増大という現実を変革するためには、どうすればよいのか」
この問題に答えるために、「なぜ失業が増大しているのか」「失業増大の最大の要因はなにか」「新しい雇用を増大させるためには、どうすればよいのか」などの問いに答える必要があるだろう.これらの問いは、すべて「理論問題」である。
 この結果、いくつかの政策が選択肢として提案されたときに、そのなかのどれを採用するのかを決定するのは、「決定問題」である。
 さて、その結果、失業保険の給付期間を延長し、そのための公的支援を行うことが決定された、つまりそのような法改正などの手続きがとられたとしよう。
このような法改正などの手続きをおこなうことは、決定問題の解決にほかならない。
 このあと、法改正によって、失業保険の給付延長が行われるとき、それが「実践問題の解決」であるということになるのだろう。政治的な決定によって、制度の改正がおこなわれたあと、行政システムがそれを実施することが、「実践的な解決」になるのである。

・社会問題においては、問題の認知がまず、重要な論点になる。ある事柄をある人は社会問題であるといい、他の人は社会問題ではない、ということがありえる。それは、「現実の認識」の違いによる場合もあれば、「社会についての価値判断」の違いによる場合もある。


2、社会問題と個人の主体化

(1)問題による個人の主体化
個人は、彼の問題を、母親によって、解決してもらう.
食事や排泄、環境から身を守ること、
    (1)まず、子供は母親にすべてをやってもらう。
    (2)次に、子供もその一部を行うようになる。
    (3)次に、母親の指示のもとに、子供は多くの部分を行うようになる。
    (4)次に、母親の後見のもとに、子供はすべてを行うようになる。
    (5)最後に、母親なくして、子供はすべてを行うようになる.

こうして子供は一人前になってゆく。これを別の仕方で語るとこうなる。
    (0)子供が困難な状況にある。
    (1)a母親は、子供の困難な状況がどのような問題なのかを理解する。
       b母親が、その問題の解決方法を考える。
       c母親が、その問題の解決を実行する。
    (2)次に、子供もその一部を行うようになる。
    (3)次に、母親の指示のもとに、子供は多くの部分を行うようになる。
    (4)次に、母親の後見のもとに、子供はすべてを行うようになる。
    (5)最後に、母親なくして、子供は
         問題設定、解決方法の検討、解決の実行
       を行うようになる.

これをつぎのように言いかえることもできる。
(1)問題状況のなかで困っているのは、子供であり、問いを立てる者は、母親   であり、解決するのも母親である。(あるいは、こう言う方が適切かもし   れない。困っているのは、母子共同体であり、母親が問いをたて、問題解   決をおこなう。)
(2)次の段階では、母親が、状況を定義し、解決策を指示するだけになる。
(3)最後に、子供自身が、自分の状況を自分で定義し、解決策を自分に指示す   るようになる。

<問う者は、主体である>
 問題を解こうとするとき、人は問題状況を対象化しており、問題状況から抜け出て超越している。この超越によって、主体が成立する。
(なぜ、この超越によって主体が成立するのか? 
 なぜなら、この超越によって、問題解決行動は、問題状況と直接に結合するのではなくて、状況の認知と行動の間に、いくつかの選択が挿入される、それによって、「なぜ」という問いに、答えることができるようになるからである。)

<超越的な立場は、問題状況からの超越としてのみ可能である>
 すべての制約から超越した立場に立つと言うことは不可能である。超越した立場にあると考えるときには、つねに人は、ある一定の問題に直面しているということである。つまり、状況の中のxが状況を越えたyとして問うのである。

 では、このような構造は、個人が社会問題を考えるときには、どうなるのだろうか。

(2)社会問題は、個人を社会の一員にする。社会問題が、市民をつくる。

(a)社会問題は、個人が、社会問題を話しあい、社会についての意見を述べる媒体となる。社会問題を語ることによって、個人は、公共性の一員となる。ニュース番組を見て、「ああでもない、こうでもない」と考えている時、かれは、公共の討議の参加者である。もちろん、これは錯覚かもしれない。むしろ、そのような参加意識を持たせることが、マスコミの機能かもしれない.
 われわれは社会について語ることを通して、社会の一員となる。我々が、社会について語る主題で最も多いのは、「事件」や「事故」であろう。そのつぎに、「社会問題」であろう。

(b)個人が、社会問題の解決に取り組むことによって、個人は、社会の一員となる。しかし、個人は、社会問題に、積極的に取り組むことによって、社会の一員になるだけではない。
 社会問題が、共有知になることによって、個々人は、それに対する態度を選択せざるをえなくなる。なぜなら、何もしないことは、その問題を知っているにもかかわらず何もしないことを選択している、という意味を持つことになるからである。たとえば、環境問題がマスコミで報道され、それが共有地になることによって、人々は環境にやさしい商品を、たとえ少し高くても購入する。それは、そのような商品を購入することが、単に環境の保護に貢献するというだけでなく、私は、環境保護に貢献しますという意図表明をすることになるからである。
 こうして、社会問題が共有知となることによって、個人の振る舞いは、選択による一定の社会的行為(ないし意図表明)という意味をもつことになる。つまり、人は、これによって、社会的な主体となる。
 社会問題を設定することが、社会的主体を前提している、と同時に、社会的な主体を構成することになる。