第10回  講義  


§4  社会問題と主体化
2、社会問題と個人の主体化
(2)社会問題は、個人を社会の一員にする。(つづき)

(c)社会問題による個人の主体化

一つの現状認識:社会問題の日常化
    多くの人が、何らかの病気を抱えながら健康に生活している、ということと、同様に、現代社
   会は、社会問題を抱えながらも、日常生活が営んでいる.つまり、社会問題に取り組むことが、
    日常世界と対立することではなくなっている。

 もしこの現状認識が正しいとすれば、社会問題への取り組みは、個人の社会化のプロセスの中に組み込まれていなければならない。しかし、従来は、日常世界の中では、社会問題は考慮されていなかったので、社会化のこの側面への分析は行われていない.


 社会問題が、個人を社会的主体にするとは、どういうことだろうか。

 まず、<問う者>は、以下に説明するように、
    <個別者として問を立て、普遍者として問を解こうとする>、あるいは
    <状況内存在者として問を立て、状況超越者として問を解こうとする>
といえる。これの証明は、以下の拙論からの抜粋でおこなう。
         ----------------------------------
                     (拙論「問の構造」からの抜粋)
 人が問うのは、ふつうなんらかの問う必要があるからである。
 人が、対象、状況とこうした関係を持つのは、一定の目的を持つからである。

  例えば、玄関の鍵を探すのは、会社に行くためである。
       会社で人間関係に悩むのは、出世のためである。
       会社に行くのを止めれば、玄関の鍵を探す必要はなくなり、出世を諦めれ
       ば、人間関係の悩みもなくなるかもしれない。

 <問う者>は答えの獲得を目的としてはいるが、その目的を手段とするより高い目的を持っている。従って、<問う者>は、<目的を持つものとして問を立てる者>である。

 ある問は複数の目的のために立てられることが可能である。
 従って、問を解こうとすることは、常にある目的のためではあるけれども、どんな目的であるかには関係なく可能なのである。

 問を立てることと、問を解こうとすることがある程度独立していることは、他者に問いかけたり、問いかけられたりする場合に、一層明らかになる。
 AがBに問いかけるとき、Aは問を立て、Bは問を解こうとしているといえる。Aがある生活の必要から問を立て、これを解こうとしたが解けず、Bに問うたとしよう。Bはその問をAの信頼に応えるという目的を持って自分に立て、これを解こうとするとき、AとBは同じ問を解こうとしていても別の目的を持って問を立てている。この場合、同じ問を立てても、全く異なる目的を持って問を立てており、しかもBの目的は解こうとしている問とは全く内在的関係がない。従って問を解こうとすることは、常にある目的のためであるが、どんな目的であるかには関係無く可能であり、しかもその目的は問と全く内在的関係がないものでもよいことが解る。

 この様に目的を持って問を立てることと、問を解くことが独立していることから次のことが結果する。
 一、様々の目的で様々のひとが同一の問を解き得る。
 二、他者に問い合わせることが出来る。
    a、解らないときに他者に問い合わせることが出来る。
    b、自分で解ける時でも他者に代理で解いてもらうことが出来る。
    c、教育のために、問を与えて解く練習をさせことが出来る。
    d、遊び、ゲームとして、問を与えて解かせることが出来る。等など。
 三、知識の伝達が容易になる。
   メッセージは常にメタメッセージをともなっている。このメタメッセージ
   はメッセージがどんな文脈に於て与えられているのかに付いてのメッセー
   ジである。与えられた平叙文を一義的に理解することは、このメタメッセ
   ージを理解することによってのみ可能である。このメタメッセージは、メ
   ッセージが如何なる問に対する答えであるかについてのメッセージである
   といえるとするならば、与えられた平叙文を一義的に理解することは、そ
   れが如何なる問の答えであるかを理解することによってのみ可能であるこ
   とになる。
   ここでもしある目的を持って問を立てることと問を解くことが独立してい
   なければ、問を理解するにはその問の目的をも理解しなければならないだ
   ろう。一つの問は多くの目的のために立てられる ことが可能であるので、
   問の理解はかなり難しいものになるだろう。そうするとメッセージが如何
   なる問の答えであるかの理解もかなり複雑な作業になる。また、もし問を
   立てることと問を解くことが独立しておらず、且つ目的の理解がメッセー
   ジの理解と同じくメタメッセージの理解を必要とするならば、この理解は
   無限遡行に陥り、最初に与えられた平叙文の理解は不可能になる。
   ちなみに、一つの平叙文は複数の問の答えと成り得、更にその各々の問は
   複数の目的によって立てられ得る。

 この二と三によってコミュニケーションが可能になる。コミュニケーションの成立は、他者の立場に立てるということ、つまり自分の個人的状況を越えてより普遍的な立場に立てるということを条件としている。この条件もまた先の独立性と関係している。問を立てることと問を解こうとすることの独立性ゆえに、問を解こうとすることは次の意味で普遍性を持つことになる。

 一、得られた答えが、様々の目的で同じ問を立てた多くの他の人の役に立つ、
   つまり普遍的な妥当性を持つ。
 二、問を解く作業は、一定の目的を持つことから解放されている。一定の目的
   を持つということは、一定の状況の中にいるということである。故に問を
   解こうとすることは、一定の状況を超越していることになる。この故に、
   得られた答えが普遍妥当性をもち得るのであろう。

 <問う者>は、<個別者として問を立て、普遍者として問を解こうとする>と言えないだろうか。
 別言すれば、<状況内存在者として問を立て、状況超越者として問を解こうとする>のではないか。
 <問う者>のこの二重性を経験的意識と超越論的意識などの言葉で表現される意識の二重性に関係づけて考察することが出来るだろう。

 <問を解こうとする者>は、状況、目的を超越しているつまり問の必要性を超越している。それ故に他方では、答えの得られない可能性を意識することが可能になり、答えの得られないことを常に無意識にでも覚悟しているといえるのではないか。
 <問う者>が向かっている欠如、空所、無は、状況からの解放の希望と閉塞の絶望の間の搖れ、めまい、不安である。人は常に何かを問うている故に常に不安である。

         ----------------------------------(抜粋おわり)

 このことを、社会問題に適用してみよう.
 社会問題を問う者もまた、問う必要性を持っている。その必要性は、次のような人たちでことなる。
  (1)社会問題で苦しんでいる人
     (例えば、失業問題では、失業している人やその家族)
  (2)社会問題の解決に取り組むべき人
     (企業や行政の関係者、政治家、専門家)
  (3)その他の人々
 これらの人々が、社会問題に取り組む必要性、目的は、異なっている。彼らは、失業者として問いを立て、また行政官として問いを立て、学識経験者として問いを立て、社会の一員として問いを立てる。しかし、彼らは、同じ問いを立てるのであり、その限りで、その問いを解こうとしているときには、彼らの特殊な個人的な状況を超えた、普遍者として問いを解こうとしている。
 この普遍者とは、何者だろうか.「社会人」だろうか、「公人」だろうか、「学者」だろうか。

 ところで、たとえ少数の人間であっても、困っている個人が存在しなければ、社会問題は存在しない。その場合、困っている人にとっては、それは彼の個人的な問題でもある。
 失業問題を例に考えてみよう。例えば,xさんが、失業しているとしよう。彼が失業という個人的な問題にであって立てる問いは、「新しい就職口をどうやって探そうか」とか、「新しい就職口が見つかるまで、どうやって生活しようか」という問いであろう。彼は、「とりあえず知り合いのところをまわって、ハローワークにも行ってみよう」また、「とりあえず、失業保険の手続きをして、しかし、二年くらいは失業が続く可能性を考えて、できるだけ生活を切り詰めよう」と考えるかもしれない。
 このような問いを立てるのは、「働いて、生活費を稼がなくてはならない」という必要性があるからである。その背後には、たとえば「幸せな生活をしたい」とか「家族に人並みの生活をさせてやりたい」などの目的があるだろう。
 では、このような問いを立てるのは、このような目的を持ち、失業という状態にある個別的な存在者としてのxさんである。この問いに答えるとき、それは、xさんとして答えるのではなく、その状況を超えたものとして答えるのである。たとえば、それは就職の相談を受けた友人であるかもしれなし、ハローワークの職員であるかもしれない。xさんの状況がわかっていれば、上の問いに対しては、別の人でも答えられるし、xさんよりも良い答えを出せるかもしれない.
 ところで、これの答えは、xさんにしか、役立たないのだろうか。そうではないだろう。もしxさんと条件の似ている人がいれば、その人にも役立つだろう。

 さて、このxさんが、自分の個人的な問題ではなくて、社会問題としての失業問題を問うときには、どうなるだろうか。彼は、「どうすれば雇用が増えるだろうか」「失業率が今後も増大していけば、失業保険制度は、今のままで維持できるのだろうか」などの問いをたてるだろう。
 彼が、このような問いを立てるのは、失業問題を解決することが、自分の問題の解決にもつながるからである。つまり、自分の失業という個人的な問題を解決する必要性が、このような問いを立てる理由であり、その目的は例えば「幸せな生活をしたい」ということである。
 彼にとって、社会問題としての失業問題を解決しようとすることは、個人問題としての失業問題を解決するための手段である。
 ちなみに、上の(2)の専門家は、自分の職務を全うするという目的のために、問いを立てるだろう。そして、上の(3)のその他の人は、失業問題を解こうとするのは、困っている人を助けたいという動機、あるいは、自分が将来失業する可能性を小さくしようとする動機、あるいは、景気をよくしてその恩恵にあずかろうとする動機、あるいは、失業が増えて、その結果として犯罪が増えることを心配して、それを未然に防ごうとする動機、などから問いを立てるだろう。

 さて、社会問題としてしての失業問題の解答は、たとえば雇用が増えるような産業政策を行うことであり、また失業保険の拡充をすること、あるいは、失業保険が足りなくなることを予測して、対策を立てること、などである。
 ところで、これの答えはxさんの生活する社会にしか、役立たないのだろうか。もしxさんの生活する社会とよく似た条件の社会があれば、その社会にも役立つだろう。(日本が近代化の過程で行ってきた政策を、アジアの国々は参考にしようとした。日本もまた、欧米の政策を勉強している。)

 ところで、これだけならば、個人問題も社会問題も<個人として問題を立て、普遍者として問いを解く>という点において、おおきな違いがないように思われる。
 大きな違いは、相互知識を想定するときに、出現する。失業問題が社会問題であることが相互知識になっているとき、この問題を立てる者は、皆がこの問題を立てているということが、皆の相互知識になっている。つまり、この問題を立てる者は、そのような相互知識の一部であることを意識している。つまり、社会という主体の一部であることを意識している。(なぜなら、<社会問題は、社会が抱えている問題であり、社会が解決しなければならない問題である>というような表現は、<社会は、問題を抱えて困っており、その解決に取り組もうとする主体である>という理解を含意しているからである。---但し、後述のようにこの理解の妥当性は危うい。)
 したがって、このような場合には、問題を立てる者は、社会の一員として問いを立てている。その限りにおいて、x氏も(2)(3)に属する人も同じである。
 さらに、問いを解くときには、x氏は、社会の一員であることを超えて、より普遍的なものとして問いを解こうとしている。ここでは、問いを解こうとする者は、社会を超えている。このとき、問いを解く者は、問題を立てている主体としての社会を対象化している。しかし、皆がその問いを解こうとしていることが、相互知識であるとすれば、ここで主体としての社会を対象化しているのは、主体としての社会そのものである。社会が、自己を主体として反省しているのである。
 社会問題を解こうとするとき、x氏は、<自己を主体として対象化するような社会>の一員となっている。

 しかし、である。次の「補足1:「社会問題と社会の主体化」への補足」で述べるように、相互知識の成立は、原理的に確認不可能であって、推測するしかなく、その推測をめぐって、対立があるときには、つぎのような発言、
「社会問題を解こうとするとき、x氏は、<自己を主体として対象化するよう  な社会>の一員となっている。このとき、x氏は、社会の単なる一つの歯車  になっているのではなくて、社会の脳の一部、あるいは社会の自己意識の一  部になっている。」
は、幻想である。

 では、もし相互知識が成立していないとすれば、社会問題にも個人問題にも、個人にとっては、大きな違いはない、ということになるだろうか。


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 例によって、曖昧さを残したまま、夏休み明けには、次のような問題を扱いたいとおもいます。

残っている問題
問題1:次の対立を解決すること
  ・社会システム理論は、個人の心的システムと社会システムは、部分と全体
   の関係でなく、互いに、システムと環境の関係であると捉える。
   これは、正しいのだろうか.
  ・これと一見したところ矛盾するのは、社会構築主義が、心を社会的に構築
   されたものだと考えることである。このとき、心と社会や連続体として考
   えられているようにおもわれる(ちょうど、語が文の中で意味を持つよう
   に)。

問題2:社会問題の設定をめぐる争いは、社会の主体性を否定するのか、強化す
    るのか。この争いは、社会人としての個人の主体性に、どのような影響
    を与えるのか.

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補足1:「社会問題と社会の主体化」への補足

ここに10人の人間がいるとしよう。
(A1)xさんは、他の9人の中のaさんと彼を代表する契約をした。
    また、bさんとも契約した。これを繰り返して、すべての人と、その 
    人を代表する契約をした。

しかし、これだけでは。xさんは、10人の集団を代表しているとはいえない。
(なぜ?)

(A2)(A1)にくわえて、上の10個の契約がすべての人に知られており、    またそのことが相互知識になっている。

しかし、これだけでも、xさんは、10人の集団を代表しているとはいえない。
(なぜ?)

(B1)xさんは、xさんがこの集団全体を代表する、と考えている。

しかし、これだけでは、xさんは、10人の集団を代表しているとはいえない。
(なぜ? なぜなら、aさんは、aさんが10人の集団を代表していると考える
 かもしれないから。)

(B2)(B1)に加えて、aさんも、xさんが10人の集団を代表している、
    と考えている。また、bさんも同様に考えている。さらに、他の各人も、
    すべて、同様に考えている。

しかし、これだけでは、xさんは、10人の集団を代表しているとはいえない。
(なぜ? なぜなら、各人は、自分がだけがそう思っているだけかもしれず、他の人は別様に考えているかもしれない、と考えるから)

(B3)(B1)と(B2)に加えて、その二つが相互知識に成っている。

このとき、xさんは、10人の集団を代表していると言えそうである.
この(B3)を簡単に言いかえれば、つぎのようになる。

(c)xさんが集団を代表していると、全員が考えていて、しかもそれが相互知識になっている。

 では、集団が大きくなり、全員がそのように考えているかどうかが、わからないとき、また、相互知識が成立しているかどうか、よくわからないときを考えてみよう。今ここに1億人からなる集団があったとしよう。

(d1)aさんは、xさんが集団を代表している、と考えている。
    aさんは、xさん自身もそのように考えている、ことを知っている。
    aさんは、多くの人がそのように考えていることを直接に知っている。
    aさんは、ほとんどの人がそのように考えていることを、マスコミを
         通じて知っている。
    ほとんど人が、aさんと同じように上の4点を満たしている.
    ほとんど人が、<ほとんどの人が上の4点を満たしている>こと    
         が相互知識になっているとおもっている。

しかし、これだけでも、xさんが集団を代表しているとはいえない。
(なぜ? なぜなら、「ほとんどの人」ではなくて、「すべての人」と言えるならば、xさんが集団を代表しているといえるだろうが、「ほとんどの人」では、正当性をもたないからである。非常に多くの人からなる集団では、「すべての人」の間に相互知識が成り立っているかどうか、確認できないので、それは各人の推測にとどまってしまう。)

(d2)(d1)に加えて、
    aさんは、xさんが集団を代表することに反対ならば、そのときには、
        反対することが保障されていることを知っている。
    aさんは、すべての人も、上のことを知っている、と推測している。
    aさんは、それにもかかわらず、現実には、反対の意見がない、と推測
        している。
    aさんは、それゆえに、<xさんが集団を代表することを、すべての人 
       が承認している>と推測する。
   すべての人が、aさんと同様に<xさんが集団を代表することを、すべ 
       ての人が承認している>と推測する。
   すべての人が、<xさんが集団を代表することを、すべての人が承認し
        ている>と推測していることが、相互知識になっていると推測 
        する。

 こうして、国家のような大集団が、主体になるためには、批判の可能性が保障されていなければならない、ということがわかる。つまり、民主主義によってのみ、国家は、主体になりうるのである。
 しかし、このような大集団の場合には、相互知識の確認は、小集団の場合以上に困難である。その困難は、批判の可能性を周知することによって、ある程度は、克服できるが、しかし、これによって完全に克服できるわけではない。
 そこで、多くの社会問題では、相互知識が成立しているかどうかについて、論争になるのである。

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1、相互知識が成立していることを確認することは、原理的に不可能である。
 従って、社会が主体であることを確認することは、原理的に不可能である。しかし、他方で、相互知識を想定しなければ、我々はコミュニケーションできない。例えば、交通信号すら信頼できなくなる。

2、社会が主体になるためには、相互知識だけでは、不充分である。
 なぜなら、つぎのような場合があるからである.二人の人間がテレビのチャンネル争いで、けんかしているとしよう。そのときに、二人の人間は、お互いの要求を知っており、何を争っているかを知っており、これらのことが相互知識に成っている。しかし、この二人は、主体にはなっていない。
 では、この場合、相互知識には、主体がないのだろうか。このことは、<相互知識は主体を前提しない>ということの証明になるのだろうか。

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   <<レポートについて>>
課題:講義に関連した内容であれば自由
分量:4000字
用紙:原稿用紙、あるいは、ワープロ A4用紙。
締め切り:9月末日
提出先:本館4階、哲学助手室前のレポートボックス(入江)。

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Have a nice vacation!