第11回  総集篇  これまでの復習  


 夏休み前に講義した内容を思い出してもらうために、簡単に復習しておきたいとおもいます。

§1 問題意識

§2 社会問題の定義(1) 社会構築主義のアプローチ
<キツセとスペクターの定義>
    「社会問題」=「何らかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを              申し立てる個人やグループの活動」119

§3 社会問題の定義(2) 社会システム論のローチ
1、マートンの「社会問題」論−−中範囲の理論としてのアプローチ
       「社会問題」=「広い範囲の人々が共有している社会的標準と社会生活の               現状との実質的な食い違い」
                (マートン『社会理論と機能分析』青木書店、p.416)
       「社会問題」=社会解体と逸脱行為
       「社会解体」=「相関連する地位や役割の社会体系における不適切inadeq               uancies ないし欠陥」前掲訳442

§3 社会問題の定義(3)(この部分の想起に際しては、新しい内容も盛り込みました) 

1 社会問題の定義
(1)社会問題を困っている人の人数、解決によって利益を受ける人の人数によって、定義することはできない。
 なぜなら、たとえ、全員が困っているとしても、老いや死の問題は、社会問題ではない。恋愛問題や、進学問題や、就職問題も、社会問題ではない。また、逆に、死刑の問題などのように、あるいはある種の差別のように、非常に少数の人が困っている問題であるとしても、それが社会問題である、という場合がある。  ところで、たとえば、家庭内での夫の暴力が、私的な問題ではなくて、社会問題であると、考えられるようになるとき、問題の理解はどのように変化したのだろうか。

(2)社会問題とは、社会のあり方と深く関係した問題である。しかし、これだけでは、非常に曖昧である。これは、次のうちのどの関係だろうか。  
  (a)社会問題は、「社会的な原因」で生じる問題である。
  (b)社会問題は、社会が解決すべき責任のある問題である。    
  (c)社会問題は、社会全体の取り組みによってしか、解決できない問題である。
     社会だけが解決の能力をもつ問題である。

 (a)はマートンも批判しているように、天災であっても、その結果が甚大であれば、それは社会問題になりうるので、この定義では、狭すぎる。(b)もまた狭すぎる。なぜなら、社会に解決の責任がある問題というのは、責任主体としての共同体の存在を前提している。ところで、共同体そのものが、社会問題の解決のための手段であるとすると、この場合の社会問題が、この定義に含まれないことになるからである。したがって、我々は社会問題の定義として(c)を採用したい。
 ところで、(a)も(b)も定義として狭すぎるが、それらで定義される問題も、社会問題に含まれる。なぜなら、「社会的な原因で生じる問題」については、社会が解決すべき責任があるだろうし、また「社会が解決すべき責任がある問題」を放置しておくことは、社会問題であるだろうからである。

2 社会問題の社会的機能
(1)社会の中での位置付け
 社会問題を図1のように位置付けることが出来るだろう。

   社会的出来事  →  社会問題 →  社会運動 →  社会制度
(事件・事故・災害など)← ← ←

          図1 社会問題の位置付け

 まず、社会的出来事と社会問題の関係を説明しよう。失業者が通行人を無差別に刺すという事件があると、それは失業問題とか犯罪の増加という社会問題の現れ、一事例として「解釈」される。逆に、事件が頻発することによって、はじめて社会問題が見えてくるということがある。全ての社会問題は、具体的にある人(人々)が困窮するということして、現象する。当初は、その社会現象は、社会問題としては「解釈」されておらず、たとえば、単なる偶然の不運とか個人的な問題などとして「解釈」されているだろう。あるときからそれが社会問題として「解釈」されるというしかたで、「社会問題」というものが社会的に構成されるようになるのである。(たとえば、最近社会問題として認知され始めた「家庭内暴力」「児童虐待」などがこの例になるだろう。)
 次に社会問題と社会運動の関係を説明しよう。塩原勉は、社会運動について次のようにまとめている。「もしも、社会行為を組み立ている複数の構成素のどれかに障害、ストレインが生ずるならば、期待通りの社会行為は遂行できなくなり、したがってまた生活を遂行できなくなる。それに対しては、ストレン源と見なされる特定の社会構成素を再構成しさえするならば、危機は一挙に解決するはずであるという「一般化された信念」が成長し拡大するであろう。こうして「ストレン下にある人々は一つの一般化された信念によって社会秩序を再構成するために動員をおこなう」事になる。この非制度的動員こそ集合行動である、とスメルサーはいう」(『転換する日本社会』121)
 これをつぎのように言いかえることが出来るだろう。社会問題とその解決方法についての「一般化された信念」が成長すれば、その解決の実現を求める社会運動がおきるだろう。
社会的出来事(事件や事故など)が、社会運動が活性化するきっかけになるということもあるだろう。(たとえば、阪神淡路大震災によって、ボランティア運動が一気に盛り上がったことなどがこの例になるだろう。)社会問題は、社会運動の原因となる。社会運動は、社会問題によって正当化されている。社会運動の広がりが、社会問題の認知度を高めるということもあるだろう。
 さて、社会運動と社会制度はどのようにかかわるのだろうか。社会問題の解決の為に、社会運動が、ある制度の創設・修正を目標にするということがある。社会問題によっては、社会運動を経由することなく、社会制度の創設・修正によって解決されることもある。また、社会運動の中には、制度の創設・修正を目標にしないものもある。たとえば、災害救援のボランティア活動のように、運動そのものが、社会問題の解決である場合がある。
 社会制度は、社会問題を解決するために創設されたり修正されるのであるから、逆にいうと、社会制度は、社会問題によって正当化されている。もちろん、社会制度が、新しい社会問題を生み出すこともある。ある社会問題を解決するために、制度を修正しなければならないということは、既存の制度が社会問題を引き起こしているということでもある。
 さて、以上の説明から社会問題の社会的機能を列挙してみよう。
  1、社会的出来事の解釈を提供する
  2、社会運動を引き起こす原因となる
  3、社会制度を創設したり修正する原因となる。
  4、社会運動や社会制度を正当化する。

 これらの機能は、社会問題をコードとして理解することによって、包括的に理解できるように思われる。社会問題は、社会のコードであり、社会分化を促進する。このような循環によって、社会制度は次第に複雑になって行く、つまり、社会問題は、社会のコードであり、それを前提して社会分化が促進されることになる

(2)社会問題とリスク
・リスクと危険の区別
「生じ得る損害は、決定の結果とみられ、したがって決定のせいにされるか、それとも、外的な原因によるものと見られ、したがって環境のせいにされるか、そのどちらかしかない。前の場合にはリスクが、しかも決定のリスクが問題にされ、後の場合には危険が問題にされる。」(SdR,30f.クニール&ナセヒ203)

・社会問題の一部が、リスクである。
 損害が、人間ないし社会の決定のせいにされるときリスクとよばれ、外部の環境のせいにされるとき危険とよばれる。ある状況が、人災とみなされるか、天災とみなされるか、というちがいによって、それがリスクが問題になるか、危険が問題になる。しかし、いずれにせよ、社会問題である。

・全ての社会問題が、リスクである。
 社会問題の解決には、絶対に確実と言うことはない。つまり、つねにリスクがともなう。社会的全体で対応すれば事態が改善されるという見とおしがあるところで、社会問題は認知される。つまり、ある事態に適切に対応しないときに生じる損害が、危険ではなくて、リスクとして理解されている社会では、その事態は社会問題として認識されるのである。

「リスクと危険という区別は、さまざまな決定によって生じうる結果が、決定者にとってはリスクとして現れ、みずから決定しない当事者にとっては、危険として現れるという事態を念頭に置いた区別である。」(クニール&ナセヒ『ルーマン 社会システム理論』新泉社、p.210)

・リスクと危険の融合
 リスクのある決定をすることは、リスクなのか、危険なのか。もしこの決定が不可避のものであるならば、それは危険である。もしこの決定が、みずから決定することをせんたくしたものであるのならば、この決定はリスクである。ところで、リスクのある決定自身が、決定されたものだとしても、さらにその決定の決定自身は、どうか、とうならば、最終的には、決定することは不可避である、という決定に行き着くだろう。つまり最終的には危険がある。
 (余談:自己言及をみとめないとすると、超越論的な論証は全て無意味になる。)

・リスクと自己決定と自己責任
 リスク社会は、自己決定を迫られる社会である。リスクの結果には、責任がともなうのだろうか。安全と思って就職した会社が倒産した。彼には、失業の責任があるのだろうか。自己決定の、自己責任は区別して考えなければならない。なぜなら、ふつうは自己責任というときには、原因と結果の関係が明確であるからである。リスクを犯して、損害を受けるときには、リスクを犯すことが損害の直接の原因ではない。



注:ベックは『危険社会(Risikogesellschaft)』(法政大学出版局,1998,原著1986)で、階級や所属集団に関係なく、全ての人は危険にさらされている。富の分配ではなく、危険の分配が大きな問題となる危険社会では、個人化がすすむ。(ちなみに、ベックはリスク(Risiko)と危険(Gefahr)を区別していない。)
 メルッチは、『現在に生きる遊牧民』(岩波書店)において、個人は、集団への帰属によって、アイデンティティを形成しなくなっているという。

§4 社会問題と主体化
1、社会問題と社会の主体化
 人々はある問題に協働して取り組むとき、そしてその協働が相互知識に成っているときに、共同体になる。つまり、一つの主体としての共同体が成立する。
 (ただし、今振り返えると、つぎのように次のような指摘を付け加えることが出来るようにおもわれる。つまり、分業などの協働がおこなわれ、且それが相互知識になっている、ということだけでは、共同体が成立しているというには、不充分である。たとえば、沈黙交易をおこなっている、山の部族と生みの部族は、分業をしているといえる。しかも、彼らにとって、その交易は相互知識になっている。しかし、彼らは、共同体にはなっていない。共同体になっているためには、共通の問題の解決に取り組んでいるということが言えなければならないのではないか。)

2、社会問題と個人の主体化
 問題にとりくむことによって、個人は主体になり、社会問題に取り組むことによって、人は社会人になる。あるいは、社会問題に取り組むことによって、個人は、社会化される。


夏休み前には、つぎのように述べて終わりました。
----------------------------
 例によって、曖昧さを残したまま、夏休み明けには、次のような問題を扱いたいとおもいます。
残っている問題
問題1:次の対立を解決すること
  ・社会システム理論は、個人の心的システムと社会システムは、部分と全体
   の関係でなく、互いに、システムと環境の関係であると捉える。
   これは、正しいのだろうか.
  ・これと一見したところ矛盾するのは、社会構築主義が、心を社会的に構築
   されたものだと考えることである。このとき、心と社会が連続体として考
   えられているようにおもわれる(ちょうど、語が文の中で意味を持つよう
   に)。
問題2:社会問題の設定をめぐる争いは、社会の主体性を否定するのか、強化す
    るのか。この争いは、社会人としての個人の主体性に、どのような影響
    を与えるのか.

-----------------ここまで

上の二つの問題を次のように言いかえることが出来ます。

問題1 心的システムと社会システムの関係をどのように考えるべきか?
(社会システム理論と社会構築主義は、この点に関して対立するのか?)
問題2 社会問題の設定をめぐる論争の社会的機能は何か?
    社会問題の設定をめぐる論争の個人的機能は何か?

この二つの問題を来週から扱います。以下の予定です。

§5 社会問題の設定をめぐる論争という社会問題
    1、この論争の社会的機能
    2、この論争の個人的機能
§6 個人と社会の関係