第12回 社会問題をめぐる論争という社会問題


        §5  社会問題の設定をめぐる論争という社会問題 

1 社会問題をめぐる論争は、つぎのように区別できる。
   (1)社会問題の設定をめぐる論争
   (2)社会問題の解決策をめぐる論争
 この区別は、とりあえずは明確であるようにみえるが、しかし、場合によっては複雑に交錯している。

 例1:F1「電力の不足をどのようにして解決するか」をめぐる論争は、(2)である。F2「原子力発電は危険であるか、どうか」をめぐる問題は、(1)である。なぜなら、原子力発電が危険であれば、それは、我々が解決すべき社会問題になるからである。危険でないとする人は,原発の存在を社会問題とはみなさない。F1の答えとF2の答えは、互いに影響を与え合っており、複雑に関係している。

 例2:有害マンガの規制をめぐる問題は、社会問題の認知に関しては、合意しているのだろうか。それは、解決方法についての論争なのだろうか。解決方法として、条例による出版規制や販売規制が行われることに対して論争がある。この論争は、解決策の経済効率や有効性についての論争ではなくて、それ事態が別の社会問題を生み出すという指摘による論争である。

 この二つの例に共通なのは、ある社会問題のある解決策が別の社会問題を引き起こす可能性があるということである。もし別の解決策が見つからないとすると、我々は、どちらの問題の解決を優先するかという、問題に答えなければならなくなる。これは、(1)なのだろうか、それとも(2)になるのだろうか。(この問題は、皆さんへの宿題にします。)

2 理性的に議論しても合意できない原因・理由
 理性的に議論しても合意できない原因・理由としては、次のような事柄を指摘できる。
(1)事柄が複雑である。
(2)事実判断が異なる。
(3)事実の重要性の評価が異なる。
(4)判断の基準が曖昧である。
(5)判断の基準が異なる。それゆえにまた、証拠の判定、評価が異なってくる。判断の   基準は、彼の社会的な位置、これまでの経験、将来への展望 と結びついているか   らである。
上の(2)(3)(5)の原因としては、次のことが考えられる。

原因1:集団の利害対立
 利害の対立する集団に属しているので、これまでの経験や関心がことなる。我々は、利害関心によって、事実を判断するときに、あえてそれを曲解するのではない。我々の認知は、そもそも生存のためにおこなわれるのであり、利害関心によって、認知が成立するのである。利害関心がなければ、認知はそもそもありえない。たとえば、原発の安全性について知ろうとするとき、そこには理由があるはずである。それは自分の生活環境を守るためであるかもしれないし、原発を推進するためであるかもしれない。


3 妥協調整の可能性

 社会問題の設定をめぐる論争にも、また解決策をめぐる論争にも、妥協調整ということはありえない。なぜなら、これらは、理論的問題ないし事実判断に関する対立だからである。利害の対立が背後にあって、社会問題の判定が対立するときであっても、公開の自由な対等な議論をすることが、正義にかなうことであろう。
 しかし、この対等の議論で、合理的に考えても、合意に達することが出来ない場合には、一方で議論を継続しつつも、他方では暫定的に結論を出さなければならない。これを「妥協調整」とよぼう。たとえば、原発推進派と原発反対派の妥協調整はありうる。つまり、原発推進派が必要と見なす以上の安全基準を受け入れたり、その数を出来る限りに少なくすること、などによって双方が合意することである。
 では、「公正な妥協調整の仕方」とは、どのようなものであろうか。

4、社会問題の設定をめぐる論争の社会的機能

 社会問題の機能については、前回の復習で、つぎのように列挙した。
  1、社会的出来事の解釈を提供する
  2、社会運動を引き起こす原因となる
  3、社会制度を創設したり修正する原因となる。
  4、社会運動や社会制度を正当化する。
「社会問題の設定をめぐる論争」の社会的機能についても、これとの関連で考察することができる。
  1、社会的出来事の解釈の対立・混乱をもたらす。
  2、社会運動の正当性をめぐる対立・混乱をもたらす。
 3、社会制度の創設や修正の正当性をめぐる対立・混乱をもたらす。
これらは、普通にいう機能ではなくて、逆機能である。(ちなみに、「社会問題の解決策をめぐる論争」には1の逆機能はなく、2と3の逆機能のみがある。)マートンによれば、このような逆機能は、これ自体が社会問題である。つまり、社会問題に関する論争自体が、社会問題である。

 社会は、このような社会問題を解決する手段を持っているはずである。そのひとつは、裁判制度である。裁判は、私的な問題についても取り上げるが、社会問題もとりあげることがある。法学者は、従来型訴訟(紛争処理型訴訟)と現代型訴訟(政策形成訴訟)という区分をしている(田中成明『現代社会と裁判』)が、この現代型訴訟は、社会問題の設定や解決策をめぐる論争に決定を下すものだといえよう。たとえば、大阪国際空港訴訟、東海道新幹線騒音訴訟、などがある。(参考、黒瀬勉「理性的多元主義と討論」(『コミュニケーション理論の射程』(仮題)ナカニシヤ書店、近刊予定)


1、社会問題の論争が、集団の利害対立と結合している場合には、集団の結合を強める。
  社会内の集団間の対立を強化する。
2、社会問題の論争が、集団の利害対立と結合している場合には、社会が内部対立をもつ
  ことがあきらかになり、社会は、普遍的な原理を必要とする。マジョリティ集団の利
  害が優先されているとしても、集団の利害とは別の、より普遍的な原理による正当化
  を必要とする。社会問題の論争という社会問題を解決することによって、社会はより
  高度な正当性を獲得することになる。
  裁判制度などの公正な討議、公正な決定制度、公正な妥協調整の手続き
3 寛容という原理
  議論は、相手の主張が正しい可能性を認め、自分の主張の間違っている可能性を認める こと
  によって成立する。つまり、議論は、可謬主義的な態度を前提することによって成 立するもので
  ある。
  この可謬主義的な態度は、意見が対立していて、合意に達することが出来ないときには、 寛容
  の態度として現れることになる。
4、共同体の限界を示す。共同体の限界を超えた承認関係をしめす。


5、社会問題の設定をめぐる論争の個人的機能

 社会問題の個人にとっての機能はなにだろうか。それは、個人が社会化するということである。個人の社会化は、従来は、個人が社会的に見とめられている価値やルールを内面化することと考えられきた。これに対して、個人の社会化は、個人が社会問題を内面化することであると捉えることが出来るだろう。
しかし、社会問題をめぐる論争は、このような個人の社会化という機能をそこなう逆機能を持つことはないようにおもわれる。社会問題をめぐる論争は、個人の社会化を一層進めることになる。なぜなら、社会問題をめぐる論争は、それ自体が一つの社会問題であって、個人は、論争を通して、そのような社会問題を内面化することになるからである。たとえば、新聞を教材にして、社会問題をめぐる論争を学ぶことは、決して彼らの社会化を損なうことではない。

注:橋本努は、『社会科学の人間学』(けい草書房)において、「問題主体(autonomously problem-setting subject)」78という人格概念を提案する。「問題主体とは、さしあたって「問題を自らの人格のコアに設定する主体」と定義することができる。この人格像の基本的なアイデアは単純なものである。すなわち、人格のコアに「価値」ではなく「問題」をおく、と発想するのである。価値と問題は、それぞれ何からの意義をもつという点では同じであるが、しかし価値は諸々の問題に対する応答であり、これに対して問題は諸々の応答=価値を引き出す起点である。問題主体は、価値の変わりに問題を人格のコアに据える、その人格像は、前節における「近代主体」と対比することによって、明確に描くことが出来るだろう。」79
 私は、これに賛成したい。近代的人格像が、価値を人格のコアに置いたのに対して、問題をコアにおく、価値は、問題に対する応えであり、問題の方がより根源的である。

 ところで、社会問題に関する論争が、個人を社会化するという機能をもつとしても、この論争に特有の機能は何だろうか。

1、社会問題の論争をとおして、個人は、自分が、社会の中でどのような位置にいるのか  を知ることになる。たとえば、ある集団への帰属が明確になる。

2、社会問題の論争を考えて自分で明確な答えが出ないとき、個人は、自分の中に矛盾す  る考えを抱え込むことになる。それは、我々の人格のコアが、価値ではなくて、問題  であると考えることによって、可能になる。