1999年度後期の講義、科目名「言語哲学講義」

題目「知の基礎付け問題と問答学」



<シラバス>
「誰でも、「なぜ、なぜ」と繰り返して問われると、答えることが出来なくなります。そこから懐疑主義が登場します。徹底的な懐疑主義を克服するものとして、現代哲学では、決断主義(ポパー、バートリー)、規約主義(ウィトゲンシュタイン)、基礎付け主義(アーペル)などの立場が主張されています。しかし、これらの立場はいずれも、<命題は問いに対する答えとしてはじめて確定した意味を持つ>ということを考慮していません。もし、我々がこのように考えるとすれば、彼らの主張は、修正の必要がでてくるでしょう。その修正の向こうに、知の基礎付け問題に関する、もう一つの立場が見えてくることを期待しつつ、「問答」にこだわりつつ、知の基礎付けについて徹底的に考えてみたいと思います。」


§1 序論



 この講義は、次の講義につづくものです。
  1995年度の講義「問答の論理と意味」
  1996年度の講義「問答の哲学的意味論」
に続くものです。

1、ミュンヒハウゼンのトリレンマは、基礎付けの不可能性を証明するものである。
2、ここから生じるのは、次の4つの態度である。
(1)懐疑主義 skepticism
(2)決断主義 decisionism(ポッパーの批判的合理主義 critical rationism、
         実存主義 existentialism)
(3)規約主義 conventionalim(限定的規約主義 limited? conventionalism、
         根源的規約主義 radical conventionalism、
         ウィトゲンシュタインの岩盤主義)
(4)基礎付け主義 faoundationalism(アーペルの「討議倫理学」Diskurs Ethik、
           バートリーの汎批判的合理主義 pancritical r.)

3、決断主義や規約主義や基礎付け主義では、基礎になる命題を問との関係なく意味が確定できるもの、また真であると見なすことが出来るものと考えている。しかし、それは間違いである。「全ての命題は、問いの答えとしてのみ、一定の意味を持ち得る」ということが正しならば、このような立場は修正を必要とする。




注<思慮、協議>

理性的決定  非理性的決定
 個人の自己決定 理性的推論 思慮(反省的均衡)
 集団の合意形成 理性的議論 協議deliberation
                   a妥協調整(個々人の意思が明確であるとき)
                   b????(個々人の意思が明確でないとき) 

 思慮(フロネーシス、prudence)は、理性的な推論によって、答えを得ることができないときの、答えの出し方。
 deliberationは、他者との議論だけでなく、もともとは個人の「熟考」という意味ももちますが、最近の政治哲学では、理性的な討議だけでは全てのことを決定できないところから、討議や妥協調整などを含めて「協議」と呼ぶようです(J.Cohen,J.Habermas,S.Benhabib)。ですから、ここでの「協議」の用法は、現代の通常の用法よりは、狭いものです。
 bについて:脳死や死刑などの問題で、当人自身の意見がその時点で、理性的に明確に決定できないとき、個人の意思決定は思慮になる。とこで、この意思決定を集団の議論の前に予めおこなっているときには、議論に臨むときに、既に自分の立場は明確であるから、その議論は、a妥協調整になるだろう。しかし、理性的に明確に自己決定できないままに、合意形成のための議論に参加して、その議論を通して自己決定するのであれば、それはbになるだろう。
 理性的議論は、公共性をもつが、デリバレーションは公共性をもたない。前者には、だれでも参加できるが、後者に参加できるのは、利害当事者だけである。

 ポパーの立場(決断主義)で、合理主義の立場を非合理な決断によって選択するのは、理性的議論による決定ではなく、非理性的決定である。規約主義の立場が、原則を約束によって設定するのは、理性的議論ではなくて、協議であることになる。もし、われわれに究極的な基礎付けが不可能であるのなら、われわれの自己決定も他者との議論も、その基礎は非理性的な決定である思慮や協議になるだろう。
 (このことは、「公共性」そのものが、全ての人間が当事者として「協議」することによって可能になる、ということを意味する。)