第三回講義      § 問答学の立場からの決断主義の再検討



                 
             <<<前回の講義への注>>>

<「なぜ」疑問の分類(前回のまとめなおし)>




対象 自然現象 行為(発話行為を含む) 発話
「なぜ」の問いの観点   原因を問う   原因を問う
◎理由を問う
  根拠を問う
正当性を問う

                 
◎「理由を問う」場合のそのまた一部の問いだけが、決定問題になる。
 「原因」「正当性」「根拠」を問う「なぜ」は、理論問題である。なぜなら、それらへの答えは、客観的な記述であって、真理値をもつからである。それに対して、理由を問う「なぜ」には、次に見るように、理論問題と決定問題の二種類ある。

a第三者の行為の理由をたずねる場合には(自問であっても他者への質問であっても)、 理論問題である。
b相手の行為の理由を尋ねる場合には、相手の返答は事実確認型の場合と、行為遂行型の 場合がある。つまり、理論問題の場合と決定問題の場合がある。
c自分の行為の理由を自問する場合には、自分の答えは事実確認型の場合と、行為遂行型 の場合がある。つまり、理論問題の場合と決定問題の場合がある。
d自分の行為の理由を他者に質問する場合には、事実確認型発話になるので、理論問題で ある。

b、cの答えは、「私は・・・つもりである」というように一人称ではじまる。(ここでは、「我々は・・・するつもりだ」というようなケースについては、カッコにいれておく)


<行為の原因・理由・目的合理性・正当性>
行為は、実践的三段論法によって説明できる。
   大前提(意図、欲求、命令などを表現する命題)    
   小前提(状況を記述する命題)
   結 論(行為or行為への意思を表現する命題)

このとき、大前提は結論である行為を行う理由を述べており、小前提は、結論となる行為の原因を述べているということができる。

前回、「なぜ、水をのむのですか」と問われた時の答えには、次の3種類があると述べた。
   a「のどの渇きを癒したいからです」(行為の理由を答える)
   b「のどが乾いたからです」 (行為の原因を答える)
   c「水分を補給するとのどの渇きがなくなるからです」(行為の正当性を答える?)

この三つは、つぎのような関係にある。
   大前提a「のどの渇きを癒したい」(行為の理由)
   小前提b「のどが乾いている」 (行為の原因)
      c「水を飲むと、のどの渇きがなくなる」(行為の目的合理性)

 結論「水をのむ」(行為)

bもcも小前提(状況を記述する命題)であるといえるだろう。
しかし、cは、行為の原因を述べているとはいえない。行為の理由をのべているのでもない。(なぜなら、これとよく似た命題「酒を飲むとのどが乾く」「ゆえに酒をのまない」という推論では、「酒を飲むとのどが乾く」が行為の理由を述べているのではないことはあきらかであろう。)この命題は、行為の目的合理性を説明しているのだと言えよう。
(行為の目的合理性は、広い意味では、行為の正当性に含めてもよいかもしれないが、次に述べる行為の正当性とは異質であるので、以下では区別することにする。)

 さて、上の問答で「なぜ、水をのむのですか」と問われたときに、次のように答えることもできただろう。
   d「これは私のミネラルウォーターだからです」(行為の正当性)
これは、「私がこの水を飲む権利or資格がある」「私はこの水を飲むことが出来る」ということを述べている。つまり、この種の命題は、<その社会の中でその人がその行為をすることが許されているとか、する自由(権利)があるとか、する資格がある>という意味での<可能性>を述べている。これを<行為の正当性>と呼んでもよいだろう。行為の正当性を述べる命題は、行為の<可能性>を述べているだけなので、行為の必然性を説明する実践的三段論法の前提には、登場しない。


<命令型発話の正当性と命令の根拠>
 「・・・しなさい」という命令文の発話行為について、「なぜあなたは「・・・しなさい」と命令すのか」と問うとき、これにも、三通りの意味がある。
  命令する原因を問う
  命令する理由を問う
  命令する正当性を問う
たとえば、司令官が大砲を「撃て」と命令するとき、
  その命令の原因は、「敵が射程距離内に入ってきた」という事実であり、
  その命令の理由は、「味方の歩兵を援護する」という目的であり、
  その命令の正当性は、「彼が司令官であり命令の権限を持っている」という事実であ             る。

 「・・・しなさい」と命令されて、「なぜ私は・・・しなければならないのですか」と問うとき、この問いは、三通りの意味を持っている。このような問いは、
  命令の原因を問うているのか、
  命令の理由を問うているのか、
  命令の正当性を問うているのか
これらのどれかである。つまり、
  「あなたが「・・・しなさい」と命令する原因は何なのか」
  「あなたが「・・・しなさい」と命令する理由は何なのか」
  「あなたが「・・・しなさい」と命令する正当性は何なのか」
これらのどれかと同じ意味である。
-----------------------------
  a 私はあなたの司令官であり、あなたに命令する権限をもっている。
    「撃て」が私の命令である。(or 私はあなたに撃つことを命令する。)
    ゆえに、あなたは撃たなければならない。
-----------------------------
  b 我々は味方の歩兵を援護しなければならない。
  c 敵が射程距離内に入っている
    ゆえに、あなたは撃たなければならない。
-----------------------------

aを答えるときは、正当性を答えており、bを答えるときは理由を答えており、cを答え
るときは原因を答えている。aやbやcを答えるときには、上の推論の一部だけを省略して答えているのである。


<主張型発話の正当性と主張の根拠>
 主張型発話についても、命令型発話と同様に考えるべきなのだろうか?
 人がpと主張するとき、聞き手がpを信じることを説得したいのである。
聞き手が「なぜpなのか」と問うことは、「なぜ私はpと信じなければならないのか」
と問うことと同じであろうか。
 これは、相手の主張の原因、理由、正当性、などを問う次の問いと同義だろうか?
  「あなたがpと主張する原因はなにか」
  「あなたがpと主張する理由はなにか」
  「あなたがpと主張する正当性はなにか」

(これについては、答えを保留させてください。宿題)

         

       §3 問答学からの決断主義の再検討
 

 (以下は、拙論「問答の意味論と基礎付け問題」の「§7 決断主義の批判的検討」を引用しつつ、書き加えたものです。)

*定義
 「決断主義」(decisionism)とは、ここでは、「ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥った状況下で、懐疑主義を回避するために、ある命題(これは複数の命題でもよい)を決断によって真と見なす立場」を指すことにする。

*決断や規約は、知の体系の外部に立つ。
 「なぜ」の問の答は、つねに主張型発話である。それゆえに、「なぜ」と問い続けても、決断主義者が出発点にする決断の発話(「・・・しよう」など)や、規約主義者が出発点にする約束の発話(「・・・します」など)にはたどり着かない。
 決断主義者が決断したり、規約主義者が約束するのは、「なぜ」の問に対して答えるためではなくて、「なぜ」の問に答えられないことが、決断を促すのである。

 今かりに、ある決断主義者が、「私は矛盾律を正しいことにする」と決断し、それにつづいて、「矛盾律は正しい」と主張するとしよう。このような決断主義者に、「なぜ矛盾律は正しいのか」と質問しても、彼はその根拠を答えられない。
 しかし、「なぜ君は、『矛盾律は正しい』と主張するのか」という質問に対しては、彼は「なぜなら、私は『矛盾律は正しい』と主張しようと決断したからだ」と答えるだろう。
これは、主張行為の理由を答えるものである。(なぜなら、こここでの決断と行為の関係は、「右手をあげよう」と意図すること、右手を挙げるという行為との関係であり、これは理由帰結の関係であるからである。行為の非因果説をとりたいと思うが、その詳細はここでは十分に論じられない。)

*決断や規約によって知を根拠付けることは出来ない.
 「私は、矛盾律が正しいと認めることを決断した」(主張)から、「矛盾律が正しい」という命題を導出することは出来ない。決断主義では、矛盾律その他の決断された命題から導出された体系があり、決断はその体系の外部にある。ゆえに、もし、決断によって知を基礎付けようとする「決断主義」ないし「信仰主義」(fideism)」というものがあるとすれば、それは間違っている。このことは、基本的な命題を規約によって真と見なす、という意味での「規約主義」にも妥当する。その際に、規約するという行為は、規約によって成立した体系の外部にあり、体系の最終根拠にはならない。したがって、決断や規約によって、ある主張を根拠づけることは、不可能である。「決断主義」や「規約主義」では、基礎付けをおこなうことはできない。
 「私は矛盾律が正しいと認める」と決断したということから、「矛盾律が正しい」と認めるという態度が帰結するが、これは論理的に導出されることではない。つまり、前提と結論の関係ではない。むしろ理由と帰結の関係である。

*ある種の「決断主義」への批判
 決断を次のようなものとして理解する決断主義がある。
 <決断そのものはもはや如何なる根拠も持たない(決断の無根拠性)。また、何を妥当な論理とするかについても最終的には決断に委ねるので、決断そのものはいかなる論理にも基づかない非合理なものである(決断の非合理性)。また、決断は無根拠なものであるので、それは何にも媒介されていない直接的なものである(決断の直接性)。>
 しかし、決断は、何の前触れもなく、何の必要性も無い状況で、自由に意志決定する<主体>によって、根拠も理由も原因もなく突然生じるものではない。テーゼ「すべての発話は、それを答とする問いとの関係においてのみ意味をもつ」が正しいとすれば、決断の発話もまた、問いへの答としてのみ意味をもつのであり、成立するのである。そのような決断の姿をラフスケッチするとつぎのようになるだろうう。決断が生じるには、決断する必要性がある。つまり、我々を決断へと促す問題状況がある。その状況の中で、実は決断は不可避的に行われる。なぜなら、そのような状況の中では、決断しようと意図していなくても決断したことになってしまうからである。つまり、我々に決断を促す問題状況は、我々に決断を不可避なものにする状況であり、我々が決断したことにしてしまう状況であり、さらに言えば我々に選択の責任を帰し、我々を責任主体、決断主体に仕立て上げてしまう状況である。決断は、このような問題状況に媒介されており、それゆえに全く無根拠であるのではなく、全く非合理というのでもない。

*問答学からの「決断」理解
 基礎付け問題でいえば、「なぜ、なぜ」と根拠を問われ続けて、答えられなくなったときに、根拠を答えられないが故に、我々は、何らかの決断へと促される。では、子のときの決断は、どのような問いに答えるものなのだろうか。
 たとえば、ある人がpを信じており、「なぜpか」と自問したときの答えが「qであるから」であり、さらに「なぜqか」と自問したときに、その答えが見つからないとしよう。このとき、彼は、これまでqを信じていたが、それの根拠を知らないことに気づくのである。彼は、このときqは偽であるかもしれない、というように、qについての信頼を修正するだけではすまなくなる。なぜなら、qが偽であるとすると、pも偽の可能性があるからである(ただし必ずpが偽になるわけではない)。そして、pを根拠としている命題もまた偽であるかもしれないことになるからである。

 (このときの一つの反応は、<私にはわからないが、qには根拠があるはずで、それは専門家に聞けばわかることなのであり、qへの信頼を修正する必要はない>というものであろう。ここでは不特定の専門家への信頼によって、qへの信頼が正当化されている。このケースについては、別に論じることにする。)

 ここに問題状況(意図と現実の矛盾)が発生する。一方では自明なものとしてpを信じておりながら、他方ではそれを疑わしいと考えることは、矛盾している。ここで矛盾している意図と現実とは、
  pを自明なものとして信じたいという意図
  pを信じる根拠がないという現実
という二つであるか。あるいは
  首尾一貫した(consistent)態度をとりたいという意図
  pを信じており且pの根拠を知らない、という矛盾した状態という現実
という二つである。このような問題を解決するには、意図を修正するか、現実を変えるかのいずれかしかない。
 ある種の決断主義者は、「pの信念の根拠となりうるqを信じよう」と決断することによって、現実を変えようとする。
 ところで、このような状況で、自発的に決断できないでいること自体もまた、一つの立場の選択になってしまい、決断したことになってしまうはずであるが、それはどのような決断になるのだろうか。このような状況で迷いつづけていることは、一方の意図を裏切つづけることである。これは、結果としての意図を修正するという解決方法を採用したことになってしまう。哲学的には、懐疑にとどまるという立場を選択したことになってしまう。