疑問文を、諾否疑問/補足疑問(規定疑問/選択疑問)に区別しました。その際に、
規定疑問:なに、なぜ、どのように、
選択疑問:どれ、どこ、いつ
と分類しました。しかし、「いつ」は、規定疑問にいれるべきだと考え、訂正します。
理由は、以下の通りです。次の3つの疑問文を見てください。
a「次回の会議は、いつにしましょうか」
b「次回の会議は、何日にしましょうか」
c「次回の会議は、どの日にしましょうか」
cの質問は、一定の候補日を列挙した後の発言になるとおもわれます。それにたいして、bは、候補日を列挙しているときもしていないときにも、発言可能です。つまり、bは規定疑問であり、cは選択疑問です。ところで、aはbよりもcに近いものです。(もちろんaとbはおなじ意味ではありません。例えば、aは時間を決めるときにも使用可能だからです。)ゆえに、「いつ」は規定疑問に入れるべきでしょう。
興味ある方は、次の問いに答えてください。
「「どこ」も規定疑問に分類すべきでしょうか?」
「「だれ」も規定疑問に分類すべきでしょうか?」
参考、1、野矢茂樹『心と他者』勁草書房。
2、J.L.Austin, "How To Do Things With Words", Oxford UP.
(オースティン『言語と行為』坂本百大訳、勁草書房)
3、J. Searle, "Speach Act", Cambridge UP., 1969
(サール『言語行為』坂本百大、土屋俊訳、勁草書房)
<間奏>
私はこれまで、哲学にとって(また私にとっても)、最も重要な問題は、知の基礎付けである、と考えてきた。しかし、知の基礎付け以前に、「ある命題の意味を理解するとはどう言うことか」という問いの方が重要である。なぜなら、ある命題の意味を理解して、しかる後その根拠が問題になるからである。あるいは、懐疑主義の克服が、最重要課題になるとしても、その前に、懐疑主義の命題「全ての命題は疑わしい」という命題の意味の理解が問題になるはずである。
(しかし、何が最も重要か、何が第一哲学か、というこの問い自体が、まだ基礎付
け主義の傾向をもっている。)
ところで、「与えられた言葉を理解するとは、どういうことか」言語学者が、言葉の理解と言うとき、与えられた言葉を聞き手がどのように理解するのか、ということを探求する。しかし、この探求は、しばしば、聞き手がすでに言葉で考える能力をもっている。つまり聞き手が話す能力を持っていることを前提している。
では、「言葉で考えるとは、どういうことなのか。」「命題の意味を理解するとはどういうことなのか。」これらの問いに対するとりあえずの答えは、すでに用意されている。それは、「考えると言うことは、問いに答えることである」「命題の意味は、それを答えとする問いとの関係において、確定する」などである。
では、「問いの意味は、どのようにして確定するのか。」この場合にも、言語学者は、問い掛けられたときに、受け手がどのようにその問いを理解するか、を研究するように思われるが、ここではそもそも問いは、どのようにして立てられるのか。問いを立てるとはどういうことなのか、が問題なのである。
(誤解のないように補足すると、これらの発言は、言語学ないし言語学者への批判ではない。言語の発生論や言語の習得理論も、言語学の一部に入るかもしれないが、言語学が、つねに発生論や習得論を基礎に構築されるべきであるとはかぎらないからである。)
さて、「ひとが問いを立てるというのは、どういうことなのか。」これについても、我々はさしあたりの答えを持っている。「人が問いを立てるのは、意図と現実とが矛盾したときである。」
さて、問いは、意図や現実の認知を前提する。しかし、意図は、決定問題の答えであり、現実の認知は、理論問題の答えである。問いの設定は、別の二つの問いとその答えを前提する。そうすると、ここにも無限背進が生じそうである。しかし、そうではない。たしかに、意図と現実の認知が別々に成立しており、それが矛盾することが知られる、という場合もあるだろうが、その矛盾に気づくことによってはじめて、現実の認知と意図を自覚するということもあるのではないだろうか。例えば、階段を踏み外して、はじめて階段を予期していたことに気づく、ということがあるだろう。また道具がなくなってはじめて、道具の必要性に気づくということもあるだろう。スムースに事態が推移しているときには、我々はそこで何が意図されているのかすら気づかない。たとえば、問いが簡単に解けるときには、問いを解いていることすら意識しない。問いが解けないとき、我々は問いに気づき、意識する。問いを解いていることにすら気づいていないとき、我々は意図と現実との矛盾に気づかずに、それを解決していると言うことになる。ところで、問いを意識せずに解いているのは、習慣的に解いているとい
うことである。問いを意識するのは、意図と現実の矛盾の習慣的な解決がうまく行かないときである。
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1、Conventionalism 規約主義とは何か?
「規約主義」には、二つの理解があるだろう。
(1)一つは、公理系に関する規約主義のように、ある分野の学者集団で、いくつかの命題を真であると約束するというものである。この場合には、この約束をする個々人にとっては、これは約束するするかしないかという決断をすることと同じであって、上でのべた「決断主義」の一種であると見なすことができそうである。
(2)もう一つの規約主義は、我々が「なぜ」と問い続けたときにゆきつく基本的な命題は、幼い頃から習い憶えたものであって、それらの命題を真だとみなすことは、誰が設定したのでもないしまた決断によって受け入れたのでもなく、いつのまにか身に付き受け入れている慣習としての規約であると、考える立場である。
これらの規約主義者は、「なぜ、なぜ」と問われたときに、最終的には<根拠>を答えられず、(1)では、「なぜなら、・・・しようと約束したからだ」と<理由>を答え、(2)では「なぜなら、・・・とならったからだ」と<原因>を答えることになる。後者における習慣と信念の関係は、理由帰結の関係ではなくて、原因結果の関係であろう。
(習慣となっている問答と信念の関係も、原因結果の関係である。もちろん、習慣となっている問いと習慣となっている答えの関係は、原因結果の関係ではなく、問いと答えの関係である。問いと答えの命題の関係は、前提結論の関係ではない。問うことと答えることの行為の関係は、原因結果の関係でも、理由帰結の関係でもない。では、なにか?)
ここでの問題点は、二つある。
<問題点1>
第二の規約主義者に、我々がもう一度「なぜ、あなたは根拠がないにもかかわらず、習ったとおりに振る舞うのか」と問うとどうなるだろうか。このように問われた規約主義者は、<根拠>がないにも関わらず、慣習を受け入れ続けるか/それを中止する、という決断することになるだろう。そうだとすると、これもまた「決断主義」になってしまうだろう。そうすると、少なくとも命題の基礎付けについて考察し、反省する哲学者にとっては、第二の規約主義は、ありえないことになる。つまり、第二の規約主義は、命題の基礎付けについて反省していない場合の、自然的な態度の一形態であるということになりそうである。(果たして、このような理解でよいのだろうか? ウィトゲンシュタインならば、反対しそうである。彼ならば、どのように反対するだろうか?)
<問題点2>
「1足す1は2である」とか、「赤は黄色ではない」というような<文法的に真>である命題もまた、意味を確定するには解釈を必要とするということである。たとえば、「これは、赤い」と有意味に言えるためには、「赤い」「黄色い」「青い」などの色の名前をある程度体系的に学習していなければならない。そのような体系を受け入れることには、「赤は、黄色ではない」「赤は青ではない」「黄色は、赤ではない」「黄色は、青ではない」などの命題を真とみなすことが含まれている。これらの命題は、<文法的に真>である。これを認めるのは、第二の意味での規約主義である。この意味の規約もまた、問いへの関係において意味を持つのである。
ところで、今仮に三種類の色つきの札があって、赤の裏は青で、黄色の裏は青で、青の裏は赤だとすると、「赤は、黄色ではなく、赤は青だ」という発話が真となる。ここに登場する、「赤は黄色ではない」という命題の意味は、先の意味とは異なる。ところで、先の命題が「文法的に」真であるとすると、これは、<文法的に偽>になるのだろうか。そうではないだろう。なぜなら、両命題の意味は異なるからである。<文法的に真>である命題もまた、一定の解釈のもとでのみ、真なのである。そして、<文法的に真>である命題もまたやはり、それを答とする問いとの関係においてのみ意味をもつのである。
我々が言葉の意味を規約によって学習すると言うときにも、我々はある命題だけを学習するのではなくて、それを含む問答の言語ゲームを習ってきているはずである。
2 習慣としての問答、あるいは習慣としての思考 (問題点2について)
第二の規約主義では、「なぜ、なぜ」と問われて、最後に答えられなくなって、「なぜなら、そのように習ったからだ」と答えることになる。そのように信じることが、習慣でになっているということである。そして、ここにあるのは、ある問答の習慣である。
ここでは、習慣としての問答が、どのように行われているのかを分析しよう。
思考において、我々は、どのようにしてそうするのか、と問われても、それに答えつづけることは出来ない。どのようにしてかをもはや言うことが出来ない「基本行為」に行き着くのである。それは、習慣的にそのように行っているとしかいえない。
我々は、「なぜ、Pなのか」という根拠への問いを、「どのようにして、Pと主張するのか」という問いで言い換えることができるのはないか。
(ちなみに、日本語の「どうして」はしばしば「なぜ」と同じ意味で用いられる。
たとえば、「どうして学校をやすんだのか」これは、「なぜ、学校をやすんだの か」と同じ意味の問である。
「どうして学校から帰ったのか」は「なぜ学校から帰ったのか」という意味にも とれるが、「どのような仕方で学校から帰ったのか」という意味にもとれる。
大抵の場合には、我々は文脈によって、どちらの意味であるのかを簡単に判別で きる。)
このように、根拠の「なぜ」への問いが、「どのようにして」という主張の作り方を問うことだとすると、根拠の「なぜ」の繰り返しが行き詰まるとき、それもまたおなじところで行き詰まることになる。
たとえば、「どうして1に1を足すと2になるのか」と問われると、もはや答えられない。なぜなら、「1を足す」という行為は、それ以上分解する事ができないものであり、いわば「基本行為」だからである。なぜこれがもはや分解できない基本行為であるのかといえば、これは「1に1を足すと2になる」というのは、定義として、つまり約束として、習ったことだからである。
根拠の「なぜ」は思考の「基本行為」で行き詰まる。あるいは、根拠の「なぜ」が行き詰まることころを、思考の「基本行為」と考えることができる。この点をもう少し、詳しく説明しよう。
<基本行為の説明>
たとえば、「どのようにして窓を開けたのか」と問われると、たとえば、「まず、取っ手を回し、そして窓枠を向こうに押して、窓を開けた」と答えることができる。そこでまた、「どのようにして取っ手を回したのか」と問われると、たとえば、「取っ手を右手でつかみ、手を右に回した」とこたえることができる。しかし、この「どのようにして」という問いを繰り返すと、誰もがどこかで答えられなくなるだろう。このようにして「どうして」と問続けて最後に行き着く行為、「他の何かを為すことによって遂行される」という言い方ができないような行為、それをウリクトは、「基本行為」と呼ぶ。
「取っ手を右手でつかむ」行為は、「右手の人差し指を内側に曲げる」という行為に分解される。しかし、「人差し指を内側に曲げる」という行為は、もはや分解不可能である。
もちろん、それは指の内側の筋肉を収縮させることによって、生じるのであるが、我々は指の内側の筋肉を収縮させようとするときには、人差し指を内側に曲げようと意図することによってしか、それを行うことが出来ない。
(参照、ウリクト『説明と理解』丸山高司、木岡伸夫訳、産業図書、P.87。)
基本行為は、いわゆる身体行為について論じられてきたのだが、我々は、思考についても「基本行為」を考えることができるだろう。つまり、「どのようにして、そう思考したのか」という問いを繰り返して、もはや答えられなくなるとき、それが思考における「基本行為」であるといえるだろう。
<計算の例>
たとえば、かけ算をするときに、かけ算は、足し算の繰り返し、わり算は引き算の繰り返しを為すことによって、遂行される。そして、足し算や引き算は、「1を足す」あるいは「1を引く」ことの繰り返しによって、遂行される。計算するときの「基本行為」は「1を足す」と「1を引く」である。ここで、「なぜ、7に5を足すと12になるのか」と問われると、我々は「なぜなら、5を足すということは、1を5回たすことであり、7に1を5回足せば、12になるからである」と答えることができる。しかし、「なぜ、7に1を足せば8になるのか」と言われると、もはや我々はそれに答えることができない。そのような主張を引き出すための正当な手続きをもたないからである。このような思考の「基本行為」については、もはや「どうして」「なぜ」に答えられないし、また根拠を求めて「どうして」「なぜ」を繰り返して答えられなくなったときには、思考の「基本行為」に行き着いているのである。
<推論の例>
推論の場合には、「どのようにして、・・・と推論するのか」という問いは、推論の「基本行為」にゆきつくだろう。たとえば、同一律や矛盾律や分離則の適用ということが、推論における「基本行為」になるだろう。そこで、例えば「なぜ(どのようにして)同一律を適用するのか」と問われると、もはや答えられない。もちろん、規則の適用のためのメタ規則を立てることはできる。(この方法が、メタメタ規則を必要とするために、規約主義のパラドクスに陥るということを別にすると)この方法は、「基本行為」と見られたものを、さらに細かな諸行為に分けることに成功しているのだろうか。おそらくそうではないだろう。
(注 限定的規約主義のアポリアについて、
(1)ルイス・キャロルの指摘について
(参照:ホフスタッター『ゲーデル・エッシャー・バッハ』)
(2)クワインの「規約による真理」(1936)について
(参照:飯田隆『言語哲学大全U』勁草書房
第一部、第二章「規約による真理」の章) )
<二つの例の区別>
この二つの例は、少し異なっているように思われる。計算の基本行為は、定義によって、つまり約束によって決めた操作である。それに対して、推論の規則は、約束によって決めた操作ではないように思われる。我々は、それの正しさをメタレベルの規則で説明することが出来るからである。
・・・・つづく