1,規約主義の問題点 (再説)
ここでは、1でのべた規約主義の定義(1)を<約束主義>、定義(2)を<慣習主義>と呼ぶことにしたい。このそれぞれについて、批判をもう一度まとめなおしておきたい。
(1)<約束主義>への批判
(批判1)約束は、約束する当事者の決断によって成立するのだから、決断主義の一種になるのではないか。
(反論)約束主義において、約束による決定は、約束する当事者の決断による決定に還元されない。なぜなら、当事者の決断と約束では、拘束力に違いがあるからである。
当事者の決断は、彼が自由に変更できる。しかし、約束の場合には、一方が自由に変更できるわけではない。さらに、アーレントの発言に依拠していうならば、内心の密かな感情でさえ、それが公共的に表明されることよって、はじめて確かに存在するものになるのだから、ましてや学問の基礎なるような真なる命題は、公共的になるべきであり、それゆえに、それは個人の内心の決断によるだけでは不充分であり、公共に表現され、承認を得る必要がある。この立場は、約束主義ということになるだろう。
(2)<慣習主義>への批判
(批判1)我々の思考が、慣習に依拠して成立しているとしても、それを反省した時点で、その慣習を受け入れるか/受け入れないかの決断を迫られることになるので、哲学の立場としては、このような慣習主義はありえず、決断主義になってしまう。
(反論)しかし、我々が、決断をするとき、決断が問いへの答えとしてのみ成立するのだとすると、決断の背後には、意図と現実の矛盾があることになる。そして、この意図が決断によるものだとすると、さらにその決断を促す問題があり、その問題を構成する意図と現実の矛盾があり、この意図が決断によるものかどうかが問題になる。これをくりかえすと、最終的には、意図はもはや意識的な決断によって採用されたのではないということになるだろう。この意図は、前意識的なものである。
前意識的な意図は、前意識的な決断なのだろうか。かりに、そのようなプロセスがあるとしても、その決断は、もはや自由な決断であるとはいえない。その決断は、慣習的なものだといえるだろう。
(批判2)問答学からの批判
慣習主義が、ある基礎的な命題の承認が慣習となっており、それが我々の学問その他の信念の基礎になっているというのならば、基礎になっている慣習は、命題を承認することではなくて、問答を承認することである、ということを主張するものである。
例えば、「1足す1は2である」というのは、それ以上にその根拠を説明できない基礎的な命題である。これは、小さいころからこのように習ってきて、慣習となった信念である。しかし、この命題は多義的である。これは、
「1足す1は、何ですか?」「1足す1は2です」
「1足す何が、2ですか?」「1足す1が、2です」
「何足す1が、2ですか?」「1足す1が、2です」
という3つの意味をもっている。慣習と成っているのは、この3つの全てであるかもしれない。それでも、この三つは区別されている。この区別は、問答関係の中でのみ可能である。つまり、慣習になっているのは、問答である。
2、リベラリズム−コミニタリアニズム(liberalism-communitarianism)論争との類似
サンデルは、『自由主義と正義の限界』(菊池理夫訳、三嶺書房、Michael J.
Sandel "Liberalism and the Limits of Justice" Cambridge Uni.1982)の中で、「負荷なき自我」を批判し、「状況の中の自我」を主張する。(ここでサンデルが批判しているのは、自由主義一般ではなくて、「負荷なき自我」という人格論に依拠した義務論的自由主義であって、具体的には、カントとロールズである。しかも、カントの「超越論的主体」ないし「本体的主体」については、ロールズも批判的である(p.23)。そういうわけで、サンデルが、批判するのは、もっぱらロールズである。(自由主義者であっても、ロックやミルはこれに当てはまらない(p.5,p.191)。また、ノージックも、義務論的自由主義ではない。ノージックはロールズの人格概念を批判している(p.129)。)
「彼ら(共同体論者)によれば、我々の一定の役割は、現在の我々の人格
---- ある 国の市民としてか、ある運動の成員としてか、ある大義の同士として
--- -の一部を 構成するものである。しかし、現在暮らす共同体によって、我々が部分的に定義され るとしたら、そのような共同体を特徴づけている企図や目的にも、我々は関連してい る。マッキンタイアが書いているように、「私にとって善であるものは、そのような 役割で暮らす者にとっても善であるべきである」。結末が閉じられていないとしても、 私の人生の物語は、わたしの自己同一性が導き出される、そのような共同体
---- 家 族であれ、都市であれ、部族であれ、国民であれ、党派であれ、大義であれ、----
の 物語の中につねにはめ込まれている。共同体論的な見解では、このような物語によっ て、単に心理学的相違ではなく、道徳的相違がもたらされる。その物語によって、我 々はこの世界に状況づけられ、我々の生活に道徳的な固有性が与えられる。」(前掲 訳、xiii)
状況に規定された規範や欲求があるとすれば、我々は、全ての態度決定や信念を決断によって選択することはできなくなる。これにたいして、「負荷なき自我」を主張すると、全ての態度決定や信念を我々は自由に選択できることになる。リベーコミ論争をこのように理解するとき、この対立は、上で述べた決断主義と慣習主義の対立と似ていることに気づく。
ところで、サンデルは、状況に規定された規範を反省できると考えているし、また変更できるとすら考えている。
「負荷なき自我という観念に反対することで、我々の自己同一性を形成させる共同体 や伝統を反省することは不可能であるとか、それらが要求するものを拒否することは 全く不可能であると、示唆しようとしているのではない。私の議論は、むしろ、我々 が反省するとき、状況づけられた、負荷ある自我としての反省するのであり、自らの 意向や愛着に優先して定義される自我としてではないということであり、また、道徳 的熟慮をこのように理解することは、正義に関する論争に影響を与えるということで ある。」(前掲訳、iv)
我々は、共同体の規範を反省できるし、それを拒否したり変更することも出来るのであろう。しかし、サンデルが主張するのは、その際に、それを反省すること自体もまた状況付けられているということである。規範についての立法や査法もまたそれ自体、状況付けられているということである。サンデルの次の文章は、そのことを明言している。
「自己解釈する存在として、私は、自分史を反省でき、この意味では私自身から遠ざ かるが、その距離はつねに不安定であり、仮のものであって、反省の地点は、最終的 には、歴史自体の外部に確保されることも決してない。このような性格をもつ人格は、 反省しているときでも、さまざまな仕方で他のものと関連していることを知っており、 自らが知っているものの道徳的な重要性を感じている。」(前掲訳、292)
我々は、あらゆる状況、あらゆる負荷を超越した「負荷なき自我」というものは、考えられないだろう。しかし、ある特定の状況から超越した<ある特定の負荷なき自我>を考えることは出来る。そして、ある特定の状況からの超越自体が、状況によって促されているのである。
このような視点は、決断主義に対する慣習主義者からの反論と非常に似ている。