第6回講義  §番外篇 承認論の諸相


 
1、「承認」の諸相
 哲学で「他者論」と呼ばれるている議論は、「他者認識」の問題と「他者承認」の問題に分けることが出来るだろうとおもいます。この二つを分けると、どちらが根源的な他者経験であるか、という問いが出てくるでしょう。あるいは、根源的な他者経験においては、この両者が不可分に結合しているという主張もありうるでしょう。

2、承認の諸区別
A:承認内容の区別
(1)人間一般としての承認
    (2)特別な人としての承認
B:承認理由の区別
    (1)人間として共通に持っている規定性による承認
    (2)その人のある特別な属性・行為による承認
    (3)その人の属性や行為のかけがえのなさによる承認
    (4)その人との関係による承認

A:承認内容の区別
(1)人間一般としての承認
   <私が人間として承認する相手>と<私を人間として承認してもらいたい相手>は   同じ集合に属する。
    *この場合に、承認されない人は特別な人として排除・差別されている。
    *この相互承認は、公正原理にもとづいているのかもしれない。
*この相互承認は、交換的正義にもとづいているのかもしれない。
(2)特別な人としての承認
   <私が特別な人として承認する相手>と<私を特別な人として承認してもらいたい   相手>が同一人物の場合と異なる場合がある。

(a)特別−一般(一方的承認)
   <私が優れた学者として承認する相手>と<私を優れた学者として承認してもらい   たい相手>は、異なる。つまり、後者は、全ての人間である。
(b)特別−やや特別(一方的承認)
   <私が優れた学者として承認する相手>と<私を優れた学者として承認してもらい   たい相手>は、異なる。つまり、後者は、哲学研究者一般であるかもしれない。
   <首相として承認される人>と<ある人を首相として承認する人として承認される   人>は同一人物ではないが、しかし、後者は全ての人間でもない。
(c)特別−特別(双方向的承認)
   <私が優れた学者として承認する相手>と<私を優れた学者として承認してもらい   たい相手>は、同一の場合がある。つまり、私は、私が尊敬する学者たちに尊敬さ   れたい。
   恋愛の承認関係
   <私が恋人として承認する相手>と<私を恋人として承認してもらいたい相手>は   同一人物である。

    *この場合に、承認されない人は、特別でない人、普通の人であって、とくに差     別・排除 されているのではない。)
    *この承認は、配分的正義にもとづいている。
    *この相互承認は、排他的な集団を形成する。
    *特別な人として承認されるためには、批判にさらされることが必要である。

(番外1)<特別優れた人  普通の人  特別劣った人>
 上の二つの承認は異質であると見ることも出来るが、しかし、優れた人を尊敬することが、劣った人を軽蔑することを伴うとすると、それは、特別優れた人(の集団)に対する尊敬と、特別劣った人(の集団)に対する軽蔑を生じさせるだろう。

(番外2)生きがいとして求められる承認、
 我々にとって、生きがいとなりうるのは、特別な存在として承認されることであろう。我々は、生きるに値する人生、すばらしい人生を送りたい。そのような人生を送っていると思えるためには、他者にそのように思ってもらうことが、不可欠である。我々のアイデンティティは、他者の承認によってのみ確実なものになるからである。したがって、我々は、他者に承認をもとめるのである。
 生きがいとして求められる承認は、特別な存在としての承認である。
たとえば、ノーベル賞をもらうことが生きがいであるとき、それは、特別な存在として全ての人から承認されることを、求めているのである。
 会社の中で認められることが生きがいであるとすると、それは特別な存在として、会社の同僚や上司などから承認されることを求めているのである。

B:承認理由の区別
    (1)人間として共通に持っている規定性による承認
    (2)その人のある特別な属性・行為による承認
    (3)その人の属性や行為のかけがえのなさによる承認
    (a)その人の客観的な属性や行為による承認
    (b)その人との関係による承認

ある人を 人間一般として承認する
     特殊性において承認する
     個別性において承認する
ある人を、客観的に、彼の属性や行為によって、承認する
     主観的に、彼と私のとの関係によって、承認する。
ある人を、彼の属性によって、承認する
     彼の行為によって、承認する

これらの組み合わせにより、3×2×2のパターンが考えられる。
(パターン例1)ある人を、彼の私に対する行為によって承認する。
  例1:xさんが、私に利益yを与えてくれたことに対して、感謝し、そのことによってxさんを承認する。
(パターン例2)ある人を、彼の私に対する関係によって、承認する
  例2:Xさんが、私の上司であるから、私はxさんを承認する。
  例3:xさんが、私と同じ集団に属するので、集団のメンバーとしてxさんを承認する。

3、承認と承認規則
 承認に関する一般的な規範を承認規則と呼ぶことにしよう。承認規則は、たとえば、<aさんがbさんに対してyという関係にあるときには、aさんはbさんを承認すべきである>という形式をとる。このような承認規則を受け入れた上で、その法則の適用によって、私がxさんを承認するという場合がある。上の例2、3は、それにあたるだろう。その場合の承認規則は、「部下は上司を承認すべきである」「同じ集団のメンバーは承認し合うべきである」となるだろう。

  例4:日本国憲法13条「すべて国民は、個人として尊重される。」を認め、かつxさんが日本国民であるので、xさんを個人として      尊重する。
 個人的で個別的で一回的な関係によって生じる承認関係であっても、そこに「私は、xさんを承認す<べき>である」という規範意識がともなうならば、その背後には一般的な承認規則が伴っていると言えるだろう。(なぜなら、・・・・)

<特別な存在としての承認>の二つのケース
(1)ある人を私との特殊な関係ゆえに承認するばあい、私は、xさんを特別な存在として承認していることになる。しかし、例えば、xさんが私の上司であるから承認するという場合、xさんは、私にとっては、特別なひとであるが、他の人にとっては、そうではない。
(2)私が、xさんを優れた学者として承認するとき、xさんは、私にとって特別な人であるのではなくて、他の人にとっても特別な人である。つまり、xさんが優れた学者であるのは、彼と私との関係に関係なく成立している彼の属性である。この場合にも、背後には、「優れた学者は、尊敬され承認されるべきである」という承認規則がある。
 ところで、学問を尊敬しない人は、たとえxさんが優れた学者であることをみとめても、彼を承認することはない。このような人は、xさんが優れた学者であることは認めるが、上の承認規則を認めない人である。

<人間としての承認>
(1)私が、Xさんを個人として承認するときにも、「私は、全ての人を個人として尊重すべきである」という承認規則が背後にある。
 しかし、「私は、全ての人を個人として尊重すべきである。ところで、xさんは人間であるのだから、わたしはxさんを個人として尊重すべきである」というのは、どこかおかしい感じがする。
 
 問い「承認というのは、必ずこのような規範意識を伴うものなのだろうか?」

<愛と規範意識>
 愛というのは、このような規範意識を伴うとは限らない。確かに「君の隣人を愛しなさい」という命令には、規範意識が伴っている。近代家族には、「夫婦は、互いに尊敬しあい、愛しあうべきである」とか「母親は子どもを愛するべきである」というような規範意識がある。しかし、恋人を愛するときには、「恋人を愛すべきである」という規範意識は存在しない。
 「母親は子どもを愛するべきである。ところで、xは私の子どもである、ゆえに、私はxを愛するべきである。」このように考えて、子どもを愛する母親は、立派な母親だとは思われていない。つまり、「母親が子どもを愛する」というのは、規範であるが、しかしそれと同時に、それは命令されることではなくて、自発的にそうなるべきものなのである。つまり、それが規範であるから、そうするのではなくて、そうしたいと感じるべきものなのである。(このことは、人倫性において権利と義務が同一である、というヘーゲルの主張を思い出させる。共同体の伝統的慣習的規範は、このような性格を持っている。)

 カントは愛について次のように述べている。
 「神に対する愛は傾向性(パトローギッシュな愛)としては不可能である。神は感官の対象ではないからである。また人間に対する(パトローギッシュな)愛は、確かに可能であるが、しかし命令され得るものではない、他者の命令のままに何びとかを愛するということは、人間の能力の能くしうるところでないからである。」(A148『実践理性批判』岩波訳173)
 「何にもまして、神を愛し、君の隣人を君自身のごとくに愛せよ」という命令における愛は、「実践的愛」である。
 「神を愛するとは、このような意味(実践的愛という)においては、神の命令を進んで果たすことである。また隣人を愛するとは、彼に対する一切の義務を履行することである。」
(A147 訳173)
 「しかし、これらのことを我々にとって規則たらしめる命令といえども「義務に相応する行為において、このような心意をもて!」と命令することはできない、せいぜい「このような心意を持つように努めよ!」と命令するだけである。」(A148、訳173)
 「実際、何事かをみずから進んで為すべし、というような命令は自己矛盾である。もし我々が、自分の為さねばならぬことがなんであるかをすでにみずから知っているならば、またそのうえこのことを進んで為す所存であるならば、これについていまさら命令を必要としないからである。またわれわれが、なるほど命令されたことをはたしはするが、しかしみずから進んでこれを為すのではなくて、ひたすら法則に対する尊敬に基づいてなすのであれば、いまさら「この尊敬を、ほかならぬ君の格律の動機にせよ!」などと命令することは、かく命じられた人の心意を踏みにじるものであろう。」(A148,訳173f)

 愛することを命令することは、語用論的矛盾である。なぜなら、愛を強制することは矛盾しているからである。ここでは、命題内容と発語内行為が矛盾している。「自律的であれ」「勝手にしろ」「自由に行為せよ」などは、すべて語用論的に矛盾している。
 では、愛を依頼すること、要求することは、どうだろうか。これは、強制ではないので、矛盾しない。しかし、もし「私を愛してください」「はい、わかりました。愛します」
というのでは、愛を求める方は、納得しないだろう。では、「私を愛するように努力してください」「はい、わかりました。愛するように努力します」ならば、少しましなような気がするが、これでじゅうぶんだろうか。
 愛を求めるものは、「依頼」したり「要求」したことが原因となり、その結果として、相手の愛を手に入れるのではなくて、それがいわば誘因となって、相手が自発的に私を愛することを求めているのである。愛については、促したり、誘ったりすることが出来るだけである。「要求」や「命令」の発話は、そのための手段となるだけであって、厳密にいえば、語用論的矛盾である。「依頼」ならば、語用論的に矛盾しないように思われる。
 規範でもある愛(たとえば、親子間の愛)ならば、それを「要求」することは、語用論的に矛盾しないように思われる。

<承認と命令>
・承認感情を承認規則より根源的なものとして設定するということではない。そのような実感信仰は、説得力を持たないし、危険でもある。
・承認規則を受け入れた後、他者を承認するというのは、おかしい。(なぜ?)
・「<承認−否認>関係は、他者と出会ったときに、不可避的に生じるものである。」
証明:我々は、他者とであったときに、承認も否認もしないということは不可能である。
なぜなら、相手とであって、相手を承認しないでいるという態度は、相手にとっては、否認するという意味をもつことになるからである。なぜなら、相手にとって、否認と採られるかもしれないということを私が予期できて、しかも私がそのような予期が出来ることを相手が予期しているときに、なおも私が相手を承認しないという態度をとることは、相手を否認していると理解されてもよいということを相手に伝えていることに他ならないからである。
 ふつう大抵の人は、はじめて他者とであったとき、平和をもとめるために、相手を承認する。この承認には、規範意識はともなわないだろう。相互に承認しあって、平和に暮らしている集団のなかでは、平和をみだすこと、他者を否認することは、禁止される。こうして、承認に、規範意識が伴うことになるのではないか。
(未完成ですが、このつづきは、討議倫理学の検討の後、行います)





***レポートについて、 分量:4000字程度、締め切り2月はじめころ(未定)
       テーマ:授業で取り上げた内容に関連していれば自由
**** 楽しいクリスマスと、よい新年をお迎え下さい!! *****