第七回講義  §5 問答学の立場からの討議倫理学の再検討


 
                 <復習>
ここで、これまでの検討を振り返り、整理しておこう。
(1)決断主義への批判
§3で述べた批判は、次2点である。
  ・決断は、問いに対する答えとして、成立する。
  ・決断に先行する問いが、すでに大枠において、決断の内容を規定している。
  ・我々が、理性と意志をもつ主体として決断するというよりも、我々は他者との関係   において、つねにすでに決断したことになってしまうのである。
これを踏まえると、例えば、私が「矛盾律」を真理とみなすことを決断するとしても、その決断が、どのような問いに対する答えなのか。そして、その問いはどのようにして設定されたのか、ということを反省することが、<よく考え、よく生きる>ためには、必要になるだろう。さらに、最後の批判を考慮すると、決断は、むしろ約束である。つまり、「君は、・・・と決断するんだね」「はい、そう決断するんです」という約束である。

(2)規約主義への批判
(a)約束主義への批判
 (これへの批判は、これまで、特に述べていません。この検討は後にします)
(b)慣習主義への批判
§4での述べた批判は、次の点である。
  ・慣習主義は、ある基礎的な判断は慣習となっているというが、より正確には、問答   が慣習になっているのである。
  ・基礎的な問答は、基本行為であり、それ以上に分解できないものである。
以上を踏まえると、基礎的な問答を我々が反省したときには、我々は、それをこれまでとどうように採用するかどうかを、決断することになるだろう。このような立場から、慣習主義よりも決断主義がより根源的であるという批判に対しては、次のような反論をのべた。
 すなわち、決断は問いの答えとしてのみ成立し、問いはさらに<意図>と<現実認識>を前提しており、それらはさらに問いを前提しており、このように遡行するならば、これは、慣習となっている問答に行き着くだろう、ということであった。

 ここで、我々は、次のようなアポリアにぶつかった。

 もし、<問い>が<意図>と<現実認識>の矛盾によって成立し、さらに<意図>は決定問題の答えとして成立し、<現実認識>は理論問題の答えとして成立するのだとすれば、それらの問題が、さらに別の<意図>と<現実認識>の矛盾によって成立するはずであるから、ここに無限背進が生じる。このような無限背進を現実に想定することはできないので、この説明はどこかで間違っていることになる。どこが間違っているのか?

 この問題に取り組む前に、もう一つの立場の検討を済ませておきたい。

       §5 問答学の立場からの討議倫理学の検討
 
 
-------------------------拙論「問答の意味と基礎付け問題」から引用
 アーペルに代表される討議倫理学は、我々が言語を用いて考えたり議論するには、それが成り立つための一定の前提条件があり、それを疑ったり否定することは、語用論的な矛盾をおかすことになり、無意味であると考える。これによって、彼は、懐疑主義や非合理主義の発話が無意味になると主張する。こうして、彼は、超越論的語用論の諸前提を認めざるを得ない、ということを基礎付けるのである。「私が、あるものについて、現実に自己矛盾に陥ることなくしてはそれを否認できず、また形式論理的な意味で論点先取におちいることなくしてはそれを否認することができない場合、このあるものとは、論証という言語ゲームがその意味を失わずに存在することを望むならば、必ず受け入れていなければならない、論証の超越論的語用論的な諸前提である。」
 このような語用論的前提として、彼が具体的に挙げるのは、レンクのいう「最小論理」であり、ヒンティカが語用論的分析によって、確実性を論証した「我あり」であり、討議参加者の「相互承認」などである。
 以上のような討議倫理学の主張に対して、ここでは次の点を批判したい。つまり、アーペルが、超越論的語用論的な諸前提は、否定できないだけでなく、それを疑うことも語用論的矛盾になる、と考えている点である。
 たとえば、彼は、「私が存在する」を疑うことすらできないと考える。しかし、我々が第1、2章で証明を試みたテーゼ1が正しいとするならば、「私が存在する」という発話もまた、問にたいする答としてのみ意味を持ちうるはずである。したがって、もしアーペルのように、「私は存在するのか」という自問を認めないとすると、「私は存在する」という発話も無意味なものになるだろう。それゆえに、もし我々のテーゼ1が正しければ、我々は、「私は存在するのか」という質問は、語用論的に矛盾しているとしても、しかし無意味ではなくて、有意味な問いであることを認めなければならない。これによって、我々は、「私」の存在を疑うことが可能であることを認めることになる。
 アーペルは、超越論的語用論的諸前提を否定したり、疑ったりする発話が、無意味であると考えて、それに基づいて、懐疑主義の主張が無意味であると批判するのである。もし、我々がテーゼ1を主張するならば、我々は懐疑主義の意味論的な可能性を認めなければならないだろう(もちろん、このことは懐疑主義に立つということとは別のことである)。

・・・・・・中略・・・・・

 もしアーペルが「なぜ私は存在するのか」という問を有意味な問として認めて、これに答えるとすると、彼はどのように答えるだろうか。「なぜなら、私が存在しないという主張は語用論的矛盾になるからです。」もし彼がこのように答えるのだとすると、この答えは、次のような推論になっていないだろう。
    私は存在するかしないかのどちらかである。
    私が存在しないという主張は語用論的矛盾になる
    ゆえに、私が存在するという主張は語用論的に必然的である。
アーペルは、このような推論によって、「私が存在する」を根拠づけようとするのではない。もしそうならば、それは最終的に根拠づけられた命題ではなくて、派生的な命題であるだろう。このような推論は、事後的に「根拠付けの試みを対象化する」ことによって言えることであると、見なされている。
 デカルトに似て、彼もまたここで「明証性」に依拠しようとする。ただし、原理的に孤立した意識の内的経験ないしは内観にとっての「明証性」ではなくて、「言語ゲームの範型的明証性」に依拠しようとするのである。この「範型的明証性」は、「思惟行為、あるいは発話行為における、現実の自己反省によって媒介された、超越論的遂行論的な反省的洞察の上に成り立っている」と言われている。つまり、先の問いに対する彼の答えはこうなるだろう。「なぜなら、それは明証であるから」と。
 しかし、「私が存在する」が「言語ゲームの範型的明証性」をもつとしても、我々のテーゼ1が正しいとすれば、この命題もまた、問に対する答としてしか意味をもちえないのである。このことを、第一章で論じた焦点に注目して、確認しておこう。この命題は、二つの意味をもちうる。つまり、「私」に焦点がある場合と、「存在する」に焦点がある場合である。
   「(他でもなく)私が、存在する」
  「私は、(無ではなく)存在する」
 デカルトが「我あり」の認識を直観だと考えるときには、おそらく、その直観は、上の二種類の焦点のどちらにも対応しない直観であるだろう。さもなければ、「我あり」の直観には二種類あることになるからである。ただし、その直観を命題で表現するときには、我々は、どちらかに焦点をあてることによってしか、この命題を理解することはできないだろう。(デカルトのコギトをこのどちらに解釈するのか、という解釈上の問題が生じるが、これはここでの我々の問題ではない。)これに対して、アーペルのいう「コギト」の「言語ゲームにおける範型的明証性」は、言語的に分節されたものであるので、デカルトの直観のように焦点の区別(あるいは知覚のアスペクトの区別)をもたない、ということはないだろう。この「範型的明証性」は、上のどちらかの焦点をもつ発話の「明証性」でなければ、「言語ゲームにおける明証性」とは言えないはずである。あるいは、上の二つの発話の両方が、それぞれに、「範型的明証性」をもつ最終的に根拠づけられた知識である、ということになるのかもしれない。
 (1)もし「(他でもなく)私が、存在する」ならば、それは、「何が存在するのか」という問に対する答である。そして、この問は、何かが存在することを前提しているのではないか。すくなくとも「存在する」ということの意味の理解を前提している。したがって、この場合には「存在の意味の理解」が、「私が存在する」の認識に先行し、存在の意味の明証性が、「私が存在する」の明証性に先行することになるだろう。
 (2)もし、「私は、(無ではなく)存在する」ならば、これは、おそらく「私は、存在するのかしないのか」という問に対する答であろう。
 このいずれにしても、この「コギト」は、問に対する答としてのみ明確な意味をもつはずである。我々は、語用論的な諸前提についての問が、語用論的に矛盾するということを認めるとしても、それにも拘らずそれが有意味であることを認める必要がある。なぜなら、仮に「言語ゲームの範型的明証性」を認めるとしても、それは単一の発話がもつ明証性ではなくて、問いに対する答えの発話がもつ明証であるからである。我々は、討議倫理学が依拠する「言語ゲームの範型的明証性」を、問答関係に注目しつつ分析することが必要だろう。
-------------------------------------引用はここまで

<この批判の要点>
 ・語用論的諸前提の明証性は、問答関係に依拠しているのである。
 ・語用論的諸前提の明証性は、語用論的矛盾に依拠しており、その語用論的矛盾は、一つの発話の自己矛盾である。しかし、   その発話の意味が確定するには、それは問いに対する答えでなければならない。