1、談話論的矛盾の定義
ある発言が、それ自体では矛盾しない、あるいは別の談話の文脈の中では、矛盾しないこともありうるが、ある談話の中では、矛盾を引き起こす場合に、そのような矛盾を、談話論的矛盾とよぶ。
詳細な説明については、拙論「メタコミュニケーションのパラドクス(1)」を参照してください。
2、談話論的矛盾の種類と機能
(1)声や文字が届いていることの確認:「聞こえますか」
「いいえ、聞こえません」
(2)言葉が理解されていることの確認:「日本語がわかりますか」
「いいえ、わかりません」
(3)談話の意思の確認「私と話してくれますか」「いいえ、話したくありません」
(4)誠実性の確認:「まじめに話していますか」「いいえ、まじめに話していません」
「はい、まじめに話しています」
(5)内容の理解についての確認:「私の言ったことがわかりましたか」「わかりません」
(1)声や文字が届いていることの確認:「聞こえますか」
「いいえ、聞こえません」
「聞こえますか」と問われて、「聞こえません」と答えることは、自己矛盾している。
ところで、話し掛けることは、つねに同時に「きこえますか」というメタメッセージをともなっており、それにたいして「聞こえません」と答えることがありえない以上は、返事をするときは、つねに「はい、聞こえます」であり、返事のないときには、聞こえないのか、あるいは聞こえるけれども返事を拒否しているかのどちらかである。
これにより次のことが帰結する。もし、相手が私に話し掛けて、相手が聞こえるはずだと考える状況で、私が返事をしないでいると、相手は、わたしが返事を拒否しているのだと理解するだろう、と予期できることになる。そこで、私は、そのような誤解を防ぐためには、つねに、話し掛けに対してすぐに応答するように、心がけていることになる。つまり、我々は他者からの呼びかけに対して、つねに答える準備をしているのである。
「どなたかいませんか」「はい、だれもいません」
「鈴木さん!」「いいえ、私は鈴木ではありません」
「きいてますか」「いいえ、きいていません」
(2)言葉が理解されていることの確認:「日本語がわかりますか」
「いいえ、わかりません」
「日本語がわかりますか」と日本語でたずねられて、「いいえ、私は日本語がわかりません」と答えることは、(「いいえ、私は、日本語があまりわかりません」といういみではなくて、字義通りに理解するならば)矛盾している。この発話は、上の質問への答えでなくて、単独で「私は日本語がわかりません」と発話されるときにも、矛盾(語用論的矛盾)しているといえる。しかし、上の質問に「I
can understand English.」と答えるのならば、単独の発話としては、語用論的に矛盾しないが、談話論的には矛盾する。
(3)談話の意思の確認:「私と話してくれますか」「いいえ、話したくありません」
(a)伝達意図の確認
(b)情報意図の確認
(4)誠実性の確認
「私はうそつきです」は、意味論的パラドクスになる発話である。あらゆる発話には、「この発話は誠実である」というメタメッセージが伴っている。より具体的に言えば、
主張型の発話なら、「この発話は真である」
行為指示型の発話なら「この命令に従いなさい」
行為拘束型の発話なら「この約束を守ります」
などのメタメッセージが伴っていることになる。
ここから帰結すること。我々は、根本的に不真面目に考えることはできない。真面目と不真面目の境界・区別は、真面目に行われる。
<ケース1>
「あなたは、うそつきです」
「はい、私は、うそつきです」
<ケース2>
A1「あなたは、うそつきです」
B1「私は、うそつきではありません」
A2「いいえ、あなたはうそつきです」
A2の返答は、相手の答えB1が、誠実なものだと見なしている。ゆえに、この返答は、自分の主張と矛盾している。ところで、この発話は、B1への返答でなければ、矛盾ではない.たとえば、A1は矛盾ではない。しかし、B1への返答であることによって矛盾する。つまり、これは談話論的矛盾である。
<ケース3>
A1「あなたは、うそつきです」
B1「私は、うそつきではありません」
A2「そうです、あなたはうそつきではありません」
A2の返答は、最初の主張A1と矛盾する。それゆえに、これは普通の論理的な矛盾である。
<ケース4>
A1「あなたは、うそつきです」
B1「私は、うそつきではありません」
A2「ほら、やっぱりあなたはうそつきです」
(「ほら、ごらんなさい。あなたのその発言は、うそつきの証拠です」というよう な意味の発言である。)
A2の発言には、自己矛盾はない。しかし、これは、相手の発言についてのメタメッセージであり、同じレベルでの応答になっていない。言いかえると、この発言は、相手の発言を直接に批判しているのではなくて、それに対する応答としてでなくて、別の発言として「あなたはうそつきである」と主張しているのである。
この会話は、討議(Diskurs)になっていない。つまり、相手の発話を誠実なものとして受け止めて、それに答えるというようになっていない。
さて、この会話が次のように続くと考えてみよう。
B2「いいえ、違います。私はうそつきではありません。私を信用してください。」
A3「いいえ、信用できません」
B3「私を信用してください」
A4「いいえ、信用できません」
A4の返答とA3の返答は、Bの依頼を誠実な発話として受け取って、それを拒否している。ここで、会話は討議に戻っている。しかし、この態度は、Bがうそつきであるという発言A1と矛盾する。それゆえに、談話論的矛盾となる。
以上からの帰結。相手をうそつきだと見なすと相手と討議することは不可能になる。つまり、相手と討議しようとするときには、相手が誠実であると想定しなければならない。相手を信用しなければならない。
A「あなたを信用してもいいですか」
B「いいえ、私を信用しないで下さい。」
このBの答えは、自己論駁的である。これは、「私はうそつきである」とおなじ、意味論的パラドクスをひきおこす。そうすると、つぎのような答えしかありえない。
A「あなたを信用してもいいですか」
B「はい、私を信用してください」
我々が、誠実であればこのように答えるだろうし、不誠実であっても、このように答えるだろう。
我々が、誠実に語らなければらないのは、不誠実な発話が、語用論的な矛盾になるからではなくて、どんな発話も誠実な発話として理解されてしまうからである。もちろん、嘘をついてもよいが、嘘をつくつもりがなくても、嘘になってしまう。
<承認問題:一方的承認=談話論的矛盾>
*相互否認の対話
A「君の判断は、間違っている」
B「あなたの判断こそ間違っている」
*相互承認の対話
A「君の判断は、正しい」
B「あなたの判断も正しい」
*一方向的承認
もし、承認か否認しかないとすれば、一方向的承認は、常に一方向的否認でもある。そして、これは、次の発言のように自己破壊的である。
A「私は、君の発言を認めない」
B「それは、正しい判断だとおもいます」
つまり、AがBを否認したときに、BがAを承認すると、Aの否認は自己矛盾し無効化される。
<まとめ>
我々が、話しているときには、「きこえています」「言葉がわかります」「あなたと話したい」「私はまじめに話しています」「私はあなたを信用します」というメタメッセージを発している。
このようなしかたで、一定の態度の必然性を主張できる。
批判1:語用論的矛盾も談話論的矛盾も、論理的矛盾を前提しているように思われる。そうだとすれば、論理学をこれらによって基礎付けることはできない。
反論:この批判に対しては、エルランゲン学派のパウル・ロレンツェン(『ことばと規範』遠藤弘訳、理想社、1972年)による「対話論理学」の試みがある。(参照、島崎隆『対話の哲学』みずち書房)これは、<公理と基本変形規則>を設定する論理学ではなくて、<命題とそれに対する問いとその問いに対する答え>という関係を設定し、そこから問答の展開を導出する論理学である。
批判2:討議倫理学も、談話論的アプローチも、ある主張の不可避性を主張しているとは言えても、基礎付けを行っているとは言えないのではないか。
応答:この批判は、ただしい。