第九回講義 §6 談話論的矛盾と基礎付け問題(つづき)


       
3、談話論的矛盾と基礎付け問題(2の再説)
 前回の議論では、談話論的な矛盾の事例やその機能についての一般的な議論と、その機能を基礎付け問題との関連で議論することとが、混在していたために、曖昧で混乱した議論になってしまいました。それを反省して、ここでは、基礎付け問題との関連における談話論的矛盾の機能に絞って、まとめなおしをしたいとおもいます。

(1)我々はつねに呼びかけを待っている。
   理由1:相手を否認すること、相手と敵対することさけるため。
       「聞こえますか」と問われて「聞こえません」とは、言えないので、返事をしな
       いことが、拒否の返事に採られる可能性があるため。相手を否認することを避け
       ようとすれば、聞こえたときには、直ちに返事をしなければならないので、つね
       に呼びかけに対して答える準備をしている。
    理由2:我々は、承認を求めているので、つねに呼びかけられることを待っている。
   メタレベルの理由:我々は、他者との関係において、承認するか否認するかのどちらかしかない。
(2)討議において「私は誠実である」と言わざるをえない。
   理由1:「あなたは真面目ですか」と問われたときには、我々が真面目でも不真面目でも、
       「いいえ、まじめではありません」と答えることはありえない。我々は、つねに
       「はい、真面目です」と答えることになる。
(3)討議において、「あなたは誠実である」とみなさざるを得ない。
  理由2:我々が相手に「あなたは不真面目ですか」と問うことは可能だが、
       「いいえ、不真面目ではありません」と相手が答えたときに、さらに、「いいえ、あなたは不
       真面目です」と答えることは、談話論的に矛盾する。つまり、我々は、討議にお
       いて相手に「あなたは不真面目(不誠実、うそつき)である」という信念を持ち
       つづけることは、不可能である。
       ゆえに、議論するとき、我々は相手が誠実であると見なさざるを得ない。

(4)上の(2)と(3)から相互承認の不可避性を論証できますが、次のようなし方でも議論できます。
*相互否認の対話はつぎのようになる。
  A「君の判断は、間違っている」
  B「あなたの判断こそ間違っている」
このような相互否認では、議論にならない。

*相互承認の対話はつぎのようになる。
  A「君の判断は、正しい」
  B「あなたの判断も正しい」
このときには、議論が成立する。

*一方向的承認の対話はつぎのようになる。
 もし承認か否認しかないとすれば、一方向的承認は、常に一方向的否認でもある。そして、これは、次の発言のように自己破壊的である。
  A「私は、君の発言を認めない」
  B「それは、正しい判断だとおもいます」
つまり、AがBを否認したときに、BがAを承認すると、Aの否認は自己矛盾し無効化される。一方向的承認でも、議論にはならない。つまり、議論が成立するには、相互承認が求められる。

4、「基礎付け」から「正当化」へ
 ある主張の基礎付けが不可能であるにもかかわらず、他でもなくある主張を暫定的に採用するのが合理的な態度であると考えるとき、これを<主張の正当化>と呼ぶことにしよう。
 討議倫理学のように語用論的矛盾に基づくものであれ、あるいは談話論的矛盾にもとづくものであれ、我々が、常に既にある論理法則を採用してしまっており、かつその採用を承認しあってしまっていると主張するだけならば、たしかにこれは独断論である。しかし、一方では、我々にはこのように考えるしかなく、他方で基礎付けは不可能であるといえるのだとすれば、たとえそれが独断であるとしても、とりあえず、そのようにしか考えようがない立場を選択するすることが<合理的な態度>であるといえるのではないだろうか。
 しかし、これは、ある論理法則や規範の採用をポパーのように<非合理な決断>によっておこなうことではない。基本的な態度選択は、(語用論的必然性をもつだけでなく)談話論的必然性をもつ、つまり我々はそのような態度選択をすることを談話の中で約束してしまうことになるのである。そのような約束をしないで、談話をすることが不可能なのである。

・ 従来の説に対する私の批判は次のようになる。<討議倫理学>はある立場の基礎付けになっているとはいえない。それはある立場の採用の正当化にはなりうる。ただし、その正当化は、<決断主義者>のような非合理な決断であるとはいえない。むしろ、談話のなかで、決断したことになってしまうのであり、このような決断は、談話の中で約束したことになってしまう、ということである。つまり、<約束主義>の一種である。ところで、<決断であれ、約束であれ、それらは問いを前提しており、その問いはさらに意図や現実認識などを前提しているので、遡ればつねに意識されていない慣習を前提していることになる>という<慣習主義>からの批判に対しては、つぎの考察を踏まえて答えよう。

5、無限背進問題について(木村君の問題提起への解答)
(1)木村健君の質問
 第4回講義で、本論の前に次のように述べたところ、木村君から質問を受けました。
        ----------------------(いくつかに改行しました)
 さて、問いは、意図や現実の認知を前提する。しかし、意図は、決定問題の答えであり、現実の認知は、理論問題の答えである。問いの設定は、別の二つの問いとその答えを前提する。そうすると、ここにも無限背進が生じそうである。
 しかし、そうではない。たしかに、意図と現実の認知が別々に成立しており、それが矛盾することが知られる、という場合もあるだろうが、その矛盾に気づくことによってはじめて、現実の認知と意図を自覚するということもあるのではないだろうか。
 例えば、階段を踏み外して、はじめて階段を予期していたことに気づく、ということがあるだろう。また道具がなくなってはじめて、道具の必要性に気づくということもあるだろう。
 スムースに事態が推移しているときには、我々はそこで何が意図されているのかすら気づかない。たとえば、問いが簡単に解けるときには、問いを解いていることすら意識しない。問いが解けないとき、我々は問いに気づき、意識する。問いを解いていることにすら気づいていないとき、我々は意図と現実との矛盾に気づかずに、それを解決していると言うことになる。
 ところで、問いを意識せずに解いているのは、習慣的に解いているということである。問いを意識するのは、意図と現実の矛盾の習慣的な解決がうまく行かないときである。
        ------------------------ここまで
 ここでの主張は、<問いは、意図と現実の矛盾によって成立するので、意図と現実の認知を前提している。しかし、意図と現実の認知は、それぞれ問いの答えであるので、さらにそれぞれが問いを前提し、その問いがまた意図と現実の認知を前提する。かくして、ここに説明の無限背進が生じる。したがって、このような説明は、問いの発生の説明に失敗している>という批判に対して、反論することである。ここで考えようとしていたことは、問いを設定する以前ニ、現実の認知と意図の自覚が成立しているのではなくて、「その矛盾に気づくこと(問いの設定)によってはじめて、現実の認知と意図を自覚するということもある」というケースを想定することによって、無限背進を回避できるだろうということであった。しかし、これは明確な反論にはなっていなかった。(そこを木村君に突かれた次第です。)

(2)意味論的な関係と実在的な関係(無限背進問題の解決のために)
 全ての発話の意味は、それがどのような問いの答えであるかを知ることによってのみ、確定することが出来る。このときの問いと答えの関係は、意味論的な関係である。たいていの発話は、実際にも、自問に対する答え、あるいは他者からの問いかけに対する答えとして、行われている。このときの問いと答えの関係は、意味論的な関係であるだけでなく、理由と帰結の関係であり、時間的な前後関係である。
 さて、問題状況とは意図と現実との矛盾した状況であり、この矛盾を解消するために、問題状況を疑問文で表現したものが、「問い」である。したがって、意図と現実を表現する発話と問いの発話の関係は、意味論的な関係ではなくて、理由と帰結(ないし原因と結果)の関係であり、時間的な前後関係である。
 つまり、ある発話が有意味であるためには、それが答えとなる問いとの関係において理解されることが不可欠であるが、ある問いを理解するためには、意図と現実を表現する発話との関係において理解することが不可欠である、ということはない。このことは、理論問題の場合には、同じ問いが、様々なひとによって、様々な事情(現実)のもとで、様々な目的(意図)で問われるという事実とも一致している(参照、拙論「問いの構造」。決定問題の場合には、これは妥当しない。参照、拙論「社会問題とコミュニケーション」(『コミュニケーション理論の射程』ナカニシヤ出版、近刊予定、所収))。

 さて、上に引用した第4回講義の文章の前には、つぎのような文章があります。
――――――――――――――――――――――――ここから
  では、「問いの意味は、どのようにして確定するのか。」この場合にも、言語学者は、問い掛けられたときに、受け手がどのようにその問いを理解するか、を研究するように思われるが、ここでは「そもそも問いは、どのようにして立てられるのか」「問いを立てるとはどういうことなのか」などが問題なのである。
 (誤解のないように補足すると、これらの発言は、言語学ないし言語学者への批判ではない。言語の発生論や言語の習得理論も、言語学の一部に入るかもしれないが、言語学が、つねに発生論や習得論を基礎に構築されるべきであるとはかぎらないからである。)
 さて、「ひとが問いを立てるというのは、どういうことなのか。」これについても、我々はさしあたりの答えを持っている。「人が問いを立てるのは、意図と現実とが矛盾したときである。」
---------------------------ここまで
 「ひとが問いを立てるというのは、どういうことなのか」という問いと、「問いの意味はどのようにして確定するのか」を区別する必要がある。前者の問題は、無限背進するだろうが、後者の問題は無限背進しない、というのが、ここで主張したいことがらである。
 問いの意味は、とりあえずは、答えとなることが可能な命題の集合によって、確定することが出来る。したがって、問いの意味の成立には、上に見たような無限背進は生じない。出来事しての問いの成立には、無限背進が生じるかもしれないが、それは全ての現象に、原因の原因を遡る無限背進が生じるのと同様である。
 さて、「問いの意味は、答えとなることが可能な命題の集合によって、確定することが出来る」と主張することは、「問いの意味は、答えとなることが可能な命題の集合である」と問いの意味を定義することではない。なぜなら、「sはpですか」という問いの意味は、その答えと成り得る、「sはpである」と「sはpではない」によって、確定されるが、しかし、その二つの命題を提示すること(例えばその選言命題を提示すること)は、問いを提示することとは別のことだからである。
 そうすると、我々には問いの意味の定義が、つぎの重要課題になるだろう。

5、残した問題に戻る
 問答学の立場からの<慣習主義>への批判として述べた要点は、<我々の思考が、意識されていない慣習に基づいているとしても、その慣習はある主張のみからなるのではなくて、問答からなるはずである>ということであった。
 3で残した問題は、意識されていない問答における「問い」は、さらに意識されていない意図と現実の矛盾を前提するのか、そしてこれの繰り返しは無限に背進するのか、ということであった。しかし、意味論的な関係は、決して無限背進しないことは、上で述べたとおりである。しかし、無限に背信することはないにしても、約束が、無意識の問答となっている慣習まで遡ることは、あるかもしれない。
 むしろ、つぎに重要になるのは、どのような命題を、基本命題として承認するのか、ということであり、それに関して、慣習の問題を考えなければならない。

・ <決断主義>への第一の批判は、<何の必要も無いところでいきなり、決断がしょうじるということはない。決断は,常に何らかの必要性があって生じるのである。それをいいかえると、決断は、つねに問いへの答えとして生じるのである>ということである。ここでは、問いと決断の関係は、理由と帰結として理解されていた。しかし、問いと決断の関係には、意味論的なものもある。つまり、決断は、何らかの必要があって生じるとはかぎらない。むしろ決断の成立にとって不可欠なのは、決断と言う行為の理由の存在ではなくて、ある振る舞いが決断と見なされることになる、意味論的な関係であり、そのような意味での問との関係である。

<現実にも無限背進しないようにみえる事例1>
 駅前を歩いているときに、「赤い羽根の募金にご協力をお願いします」と呼びかけられたとしよう。そのときの私の選択肢は、寄付するか、しないかのどちらかである。その場で考えつづけたとしても、また考えながら通りすぎてしまったとしても、寄付しないことには違いない。寄付を呼びかけている人たちは、私が寄付するつもりがない、寄付しないことを意図した、と判断するだろう。私は、そのように判断されることを予期する。私がそのように予期することを、呼びかけている人たちは予期するだろう。・・・このような状況で、私が「寄付しようか、どうしようか」という問1を立て、「寄付はやめておこう」と答えを出したとしよう。このとき、問1を私が立てたのは、「呼びかけに答えよう」と意図するからかもしれない。しかし、呼びかけに対して答えたことになってしまう、と予期したときには、それを受け入れるかどうかを決定しなければならないので、問1をたてるということもある。我々は、この問いを立てたくて立てたのではない。この問いを立てざるを得なくなったのである。

<問答と相互知識>
 上のような決断や、問答が成立する条件として重要なのは、時間と相互知識である。一人でいても、我々は時間によって、決断したことになってしまうということがある。他者といるときには、時間だけでなく、他者との間に一定の相互知識がなりたってしまうこと、が重要な条件である。では、この相互知識と問答は、どのような関係にあるのだろうか。
 これについても、今後さらに考えなければならない。ここでは、次のような簡単な分析を提示しておきたい。

・問い「相互知識と問答は、どちらがより根本的であろうか?」
定立「相互知識がより根本的である。なぜなら、問答が成立するには、ある発話が問いへの答えであることが相互知識にならなければならないからである。(ただし、一人で、思考するときには、その問答は、相互知識を前提しない。短期記憶を前提する)」
 反立「<問いについての相互知識>というものは考えにくい。しかし、ある知識が相互知識に成っているというとき、その知識は問いとの関係において理解されていなければならないのだから、ある問答が相互知識になっているということである。つまり、相互知識は、つねに問答関係の相互知識としてのみ成立するのである。(この場合の問答関係は、自問自答の関係である。)」
 綜合「自問自答の問答関係が、相互知識に先行し、相互知識が、他者との問答に先行する。」

 反立2「相互予期が、成立しているということは、もし「その発言は、あの問いの答えですか」と問えば、「はい」と答えるだろうと予期しているということである。これは、暗黙の問答があると言うことではないだろう。相互予期が、問答の予期として説明されるならば、意味論的には、問答が相互予期に先行する。」

 綜合2「問答がうまく行くとき、我々は相互知識が成立していることを認知し、相互知識が成立していることが相互知識になる。相互知識によって、問答がうまく行くと同時に、問答がうまく行くことによって、相互知識の成立が知られる、つまりは、相互知識が成立する。」

 以上で、今年度後期の講義をおわります。
 問答に注目し、問答における談話論的矛盾に依拠して、基礎付け問題、ないし正当化問題を捉えなおす、という作業がどれほど前進したがわかりませんが、少しは前進し、少しは問題点がはっきりしてきたと思います。
 半年間、御清聴、ご質問、ありがとうございました。