2000年前期講義  「承認論の可能性」


第一回  §1 問題意識

 この講義の課題は、ヘーゲルの承認論の検討を通して、現代における他者承認論の可能性を明かにすることにあります。

 ヘーゲルに関心のない方もおられるでしょうから、まず最初に、他者承認論とはどのような議論であり、現代においてどのような文脈で問題になるのか、ということの説明のために、昨年のヘーゲル研究会で発表したものを、一つの見解として紹介したいとおもいます。


ヘーゲル研究会発表原稿                  

入江幸男 1999.12.19.

 

承認論の可能性

 

 現代において、承認論の可能性の中心は、多文化社会の中でのマイノリティ集団の尊重の正当化、あるいは多文化集団の共存の仕方、女性や障害者などへの差別の問題、普遍的な人権の正当化問題、などであろう。我々は、そのような承認の正当化をどこから始めたらよいのだろうか。

 

         §1 基礎付け問題とリベラル−コミュニタリアン論争

(1)決断主義vs規約主義

 「なぜ、なぜ」と問いつづけると、我々はすぐに答えることが出来なくなる。その結果あきらかになるのは、ミュンヒハウゼンのトリレンマとして示されているような、基礎付けの不可能性である。この問題に対する哲学的な主な立場として、次の4つをあげることができるだろう。

  @懐疑主義

  A決断主義(ポッパーの批判的合理主義や実存主義がこれに入る)

  B規約主義(科学者集団の約束によって公理などを立てる「約束主義」。

        いつだれが始めたのかわからないし、いつどのように習得したのかもよ        

        くわからない慣習に出発点を求める「慣習主義」)

  C基礎付け主義(討議倫理学)

 

(a)決断主義vs約束主義

 (決断主義から約束主義への批判)約束は、約束する当事者の決断によって成立するのだから、約束主義は決断主義に依存することになるのではないか。

 (約束主義からの反論)約束主義において、約束による決定は、約束する当事者の決断による決定に還元されない。なぜなら、当事者の決断と約束では、拘束力に違いがあるからである。当事者の決断は、彼が自由に変更できる。しかし、約束の場合には、一方が自由に変更できるわけではない。

 (約束主義からの決断主義への批判)アーレントの発言に依拠していうならば、内心の密かな感情でさえ、それが公共的に表明されることよって、はじめて確かに存在するものになるのだから、ましてや学問や規範の基礎となる命題は、公共的になるべきであり、それゆえに、それは個人の内心の決断によるだけでは不充分であり、公共的に表現され、承認を得る必要がある。この立場は、約束主義ということになるだろう。

 

 

(b)決断主義vs慣習主義

 (決断主義から慣習主義への批判)我々の思考が、慣習に依拠して成立しているとしても、それを反省した時点で、その慣習を受け入れるか/受け入れないかの決断を迫られることになるので、自然的な態度としてはありえても、哲学の立場としては、このような慣習主義はありえず、決断主義になってしまう。

 (慣習主義からの反論)我々が、決断をするとき、決断が問いへの答えとしてのみ成立するのだとすると、決断の背後には、一定の問題設定があり、その問題を構成している意図や現実認識などの前提がある。それらの前提が、かりに意識的な決断によって、行われているとしても、その決断について、さらに前提を遡っていくならば、我々は意識的に立てていたのではない諸前提に行き着くはずである。それらは、もはや習慣ないし慣習によって前意識的に立てられているのだといわざるを得ない。したがって、決断主義もまた、一定の慣習を前提してのみ成立するのである。

 

(2)リベラリズム−コミニタリアニズム(liberalism-communitarianism)論争との類似

 ここでは、上の議論がリベ−コミ論争との類似点をもつことを確認したいとおもいます。

 サンデルは、『自由主義と正義の限界』(菊池理夫訳、三嶺書房、Michael J. Sandel "Liberalism and the Limits of Justice" Cambridge Uni.1982)の中で、「負荷なき自我」(unemcumbered self)を批判し、「状況の中の自我」(situated self)を次のように主張する。(なお、ここでサンデルが批判しているのは、自由主義一般ではなくて、「負荷なき自我」という人格論に依拠した義務論的自由主義であって、具体的には、カントとロールズである。)

  「彼ら(共同体論者)によれば、我々の一定の役割は、現在の我々の人格 ---- ある  

  国の市民としてか、ある運動の成員としてか、ある大義の同志として ---- の一部を  

  構成するものである。しかし、現在暮らす共同体によって、我々が部分的に定義され  

  るとしたら、そのような共同体を特徴づけている企図や目的にも、我々は関連してい  

  る。マッキンタイアが書いているように、「私にとって善であるものは、そのような  

  役割で暮らす者にとっても善であるべきである」。結末が閉じられていないとしても、  

  私の人生の物語は、わたしの自己同一性が導き出される、そのような共同体 ---- 家  

  族であれ、都市であれ、部族であれ、国民であれ、党派であれ、大義であれ、---- の  

  物語の中につねにはめ込まれている。共同体論的な見解では、このような物語によっ  

  て、単に心理学的相違ではなく、道徳的相違がもたらされる。その物語によって、

  我々はこの世界に状況づけられ、我々の生活に道徳的な固有性が与えられる。」(前掲  

  訳、xiii

 このように規範や欲求が状況に規定されているとすれば、我々は、全ての態度決定や信念を決断によって選択することはできなくなる。これにたいして、「負荷なき自我」を主張するならば、全ての態度決定や信念を我々は自由に選択できることになる。確かに、我々は常に既に一定の規範の中に生活しているとしても、それを反省し、選択しなおすことが出来るだろう。ところで、この点に関してはサンデルもまた、状況に規定された規範を反省できると考えているし、また変更できるとすら考えている。

「負荷なき自我という観念に反対することで、我々の自己同一性を形成させる共同体や伝統を反省することは不可能であるとか、それらが要求するものを拒否することは全く不可能であると、示唆しようとしているのではない。私の議論は、むしろ、我々が反省するとき、状況づけられた、負荷ある自我として反省するのであり、自らの意向や愛着に優先して定義される自我としてではないということであり、また、道徳的熟慮をこのように理解することは、正義に関する論争に影響を与えるということである。」(前掲訳、iv)

 このように我々は、共同体の規範を反省できるし、それを拒否したり変更することも出来るだろう。しかし、サンデルが主張するのは、その際に、それを反省すること自体もまた状況付けられているということである。規範についての立法や査法もまたそれ自体、状況付けられているということである。サンデルの次の文章は、そのことを明言している。

「自己解釈する存在として、私は、自分史を反省でき、この意味では私自身から遠ざ  かるが、その距離はつねに不安定であり、仮のものであって、反省の地点は、最終的には、歴史自体の外部に確保されることも決してない。このような性格をもつ人格は、反省しているときでも、さまざまな仕方で他のものと関連していることを知っており、自らが知っているものの道徳的な重要性を感じている。」(前掲訳、292)

  さて、自我に関する、自由主義者と共同体論者のこのような論争は、知の根拠付けをめぐる上述の決断主義者と慣習主義者の議論と非常によく似ている。これは、上の議論を別の角度から行ったものだということができる。


               ・・・・・・来週につづく