2000年前期講義  「承認論の可能性」


第二回  §1 問題意識

 前回の続きで、昨年のヘーゲル研究会で発表したものをもとに、承認という問題を考えるときの現代における一つのアプローチを
紹介したいとおもいます。


ヘーゲル研究会発表原稿                  

入江幸男 1999.12.19.
承認論の可能性


               ・・・・・・先週につづく
 

      §2 リベラル−コミュニタリアン論争と承認論

 ところで、上の自由主義(決断主義)と共同体論(慣習主義)の論争は、規範と我々との距離の採り方についての対立だけでなく、規範の内容についても対立をもたらすことになる。規範の中でも、他者承認に関して、その違いはとくに明瞭になるだろう。

       決断主義    vs   慣習主義

       自由主義    vs   共同体論

      個人としての承認 vs  共同体のメンバーとしての承認

 

(1)自由主義の承認論

 自由主義の立場では、承認を次のように区別することになるだろう。

   (1)人間一般としての承認     (人権や差別の問題に関連する)

   (2)特殊な善き生の構想の承認   (多文化の共存に関連する)

   (3)特別な存在としての承認    (個人の生き甲斐に関連する)

 (1)と(2)はともに相互的な承認である、あるいはもし現実に相互的でなければ、相互的であることが求められるような承認である。しかし、この二つは相互承認として異質である。(1)の人間一般としての相互承認は、互いに相手の中に自分と同じものを見つけてそれを承認し合う関係である。これを<同質性の相互承認>と呼ぶことができる。これに対して、(2)の互いの善構想の承認とは、互いに自分とは異なる相手の文化や宗教や生き方などを承認し合う関係である。これを<差異の相互承認>と呼ぶことができる。

 (3)は、たとえば、すばらしい画家として認めらることに生き甲斐を感じるというような承認である。この承認は、相互的ではなく、その必要もない。(1)と(2)が社会の全員によって相互に求められる承認であるのに対して、(3)は個人が、それぞれの善き生の構想にもとづいて、その中で特別な存在として認められることを生きがいにすること、(1)(2)とは違って、一方向の承認になる。

 自由主義者が、善構想に対する正義の優位を主張するということは、(1)と(2)を分けて、(1)を(2)に優先させるということである。その理由は、ある人や集団の善構想の追求のために、他の人の権利が侵害されてはならないということであり、彼らは(2)は(1)に基づいて正当化される、と考えることになるだろう。

 これに対して、共同体論者は、この順序を逆にするのではなくて、正と善を分けることを批判するのである。そのことは、承認を上のように(1)(2)(3)に分けることを批判することになるだろう。

 

 ところで、ヘーゲルもまた、このような区別を批判する。

 <人間一般としての承認>については、法的な人格としての承認(ヘーゲルの「権利の

命令」(Rechtsgebot)つまり「一個の人格であれ、そして他の人々を諸々の人格として尊敬せよ」(Rph§36)に対応する)や、道徳的な人格の承認(カントの定言命法「君の人格の中にも他の全ての人の人格の中にもある人間性を、つねに同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように、行為せよ」(GMS,67)の立場)として、ヘーゲルの中にも登場する。

 [ヘーゲルの中に、法的な意味での人格の<承認>や道徳的な意味での人格の<承認>の議論がある。(ただし、その際に、彼が「承認」という言葉を使っているかどうかを、調べなければならない。)]

 

 また<特別な存在としての承認>に関して、次のように語っている。

 「実直さは、一部では法的に、一部では人倫的に、人間に要求される普遍的なものである。しかし、道徳的立場にとっては、実直さは、従属的なものとおもわれがちである。この立場では、ひとは自分に対しても他者に対しても、(実直さよりも)もっと多くのことを要求するに違いない。なぜなら、何か特別なものであるあろうとする熱望(Sucht)は、即且対自的に存在するものや一般的なものでは満足しないからである。この熱望は、例外においてはじめて独自性(Eigentuemlichkeit)の意識を見出すからである。」(Rph§150、括弧内引用者)

 

 [道徳的な立場での、この熱望は、単に道徳的人格一般として承認されたい、という熱望ではなくて、特別な存在として承認されたいという熱望である。では、道徳的な意味以外で、例えば、画家として特別な存在として承認されたいとか、学者として特別な存在として承認されたいとか、企業家として特別な存在として承認されたいとかの承認願望について、ヘーゲルはどのように述べているだろうか。このような態度については、『精神現象学』の中の「精神的な動物の国」の中に記述がある。

 ところで、<特別な善き生の構想の承認>についての、議論は、ヘーゲルの中にはないように思われる。(ヘーゲルが、カソリックとプロテスタントの対立について寛容を説いているとすれば、それがこれにあたるだろう。)(あるいは,アヴィネリが、ヘーゲルはナショナリストではないと主張するときには、ヘーゲルの中に、多様な民族文化の承認という発言を見つけているのかもしれない。)]

 

 ヘーゲルは、道徳の立場で、幸福を求めたり、道徳的に優れた人物となろうとすることを描いているので、上の<特別な存在としての承認>は、彼のいう道徳の立場で成立すると考えてもよいだろう。ところで、彼がこの道徳の立場を、批判する際の論点は、客観的な善と主観的な確信が、分離したままにとどまっているということである。(「道徳は差違の立場である。」(Rph§108))

 

 ヘーゲルのこの批判が、示唆するのは、(1)と(3)が分離している社会では、特別なものであろうとする熱望は、結局は決断主義にならざるをえず、その無根拠性を意識せざるをえなくなるということである。この批判は、近代以後の自由主義的な社会が、ニヒリズムを背負わざるを得ないことを指摘するものである。

 

(2)共同体論の承認論

 共同体論者は、共同体を構成する諸関係に結び付けて規範をとらえるので、他者の承認も共同体のなかでの彼の位置や彼と自分との共同体の中での関係に即しておこなわれることになるだろう。そこで我々は、自由主義者が考察する承認と、共同体論者が考察する承認を、次のように区別できるだろう。

  (a)ある人を、客観的な属性や行為にもとづいて承認する (自由主義の承認)

  (b)ある人を、その人と自分との関係にもとづいて承認する(共同体論の承認)

 自由主義での承認の(1)(2)は(a)であるが、(3)の中には(a)だけでなく、(b)に分類されるものもあるだろう。しかし、自由主義の承認は、主として(a)になるといえるだろう。これにたいして、共同体論では、承認関係は、主として(b)に分類されるようにおもわれる。

 ちなみに、この(b)は、さらに次のように区別できるだろう。

   (イ)ある人を、その人と私が同じ集団に属することにもとづいて承認する。

   (ロ)ある人を、その人と私の役割関係にもとづいて承認する。

   (ハ)ある人を、その人の私に対する行為にもとづいて承認する

 (イ)のなかでもっとも重要なのは、同じ共同体に属することにもとづく承認だろう。

たとえば、自由主義者のいう<人間一般としての承認>は、<同じ共同体の一員としての承認>の一形態として捉えられる。つまり、私が属する国家の一員として承認する、あるいは、私が属する人類共同体の一員として承認する、ということになるだろう。同じ集団のメンバーとしての承認は相互承認になるだろうが、この承認は同質性にもとづくというよりも、関係性にもとづく承認である。ゆえに、<関係の相互承認>と呼ぶことにしたい。 (ロ)としては、たとえば、親子関係や、上司と部下の関係にもとづいて、相手を親として承認したり、部下として承認するというような例が考えられる。基本的には互いに相手の役割を承認するのでなければ、役割関係そのものが成り立たないのであるから、この承認も<関係の相互承認>となる。しかし、これまでみた相互承認がすべて、対称的な関係であったのに対して、これは相補的な関係である。

 (ハ)としては、ある人が私にある利益を与えてくれたことに対して、私は彼に恩を感じ彼を承認する、ということがあるだろう。この承認は、必ずしも相互的ではない。

 

 

 

 念のために、相互承認の類型をまとめておくと、つぎのようになる。

   自由主義での相互承認

     同質性の相互承認 (対称的相互承認)

     差違の相互承認 (対称的相互承認)

   共同体論での相互承認

      関係の相互承認  対称的相互承認

               相補的相互承認

 

 ヘーゲルもまた、「身分」という共同体の中の役割ないし集団に基づく承認を重視している。そのことは、市民社会の領域における承認すら次のように言われることに、現われている。

 「個人が現実性を獲得するのは、現存在一般のなかへ、したがって、一定の特殊性の中へと入り、それによって、欲求の特殊な諸領域のうちの一つの領域へと排他的に自己を制約することによってのみである。だからこの(欲求の)体系における倫理的心術(Gesinnung)は、実直さ(Rechtschaffenheit)と身分の誇り(Standesehre)である。後者は、おのれ自身の決定により、おのれの活動と勤勉と技能を通じて市民社会の諸契機の内のどれか一つの成員となり、成員として己の地位を保ち、そしてこのように己を普遍的なものと媒介することによってのみ、己のために配慮し、またこうすることによって自他の表象において承認されているということである。」(Rph§207)

 

 ヘーゲルは、人倫性において、権利と義務が一致すると述べているが、それは例えば父親であることにおいて、子供を教育することは、彼の権利であると同時に義務であり、さらに言えば、それが彼の喜びでもあり生きがいでもある、ということとして考えることが出来るだろう。ここでは、上で分離していた<人間一般としての承認>と<特別な存在としての承認>が、いわば結合して一つになっている。一般に、共同体の人倫的諸関係においてその役割を果たすことは、このように義務であり同時に権利でも幸福でもある、と考えられる。

 

§3 問題設定のために

  さて、我々はどのような承認論を採用すべきだろうか。我々が現実に行っている承認には、多かれ少なかれ上の全ての形態が含まれているが、我々が承認を他者に要求することが正当化できるのは、どのようにしてであり、その承認は上の分類で言うとどのような承認になるのだろうか。

 

(a)慣習主義と決断主義への批判

 まず、慣習主義と決断主義では、承認の要求を正当化できないことを確認しておこう。慣習主義の共同体論者は、自分が事実として行っている承認やその他の規範の受け入れを慣習とし説明するとしても、それらの規範の正当性を主張することはできない。従って、共同体の外部や内部でその規範に反対するものが現われても、慣習主義者は、それに反論することはできない。せいぜい出来るのは、その反論の行為もまた彼が慣習として受け入れている共同体の規範に依拠しているのだ、という指摘だけである。また、個人の決断によって規範を社会的に設定することはできないので、決断主義をとることもできない。そうすると残るのは、約束主義である。

 

(b)約束主義からの出発の試み

 さて、約束主義の立場から、承認要求の正当化をこころみるとすれば、どのようなものになるのかを考えよう。

 決断主義も、規約主義(約束主義をふくめて)も、いずれも非合理な決定を出発点におくことになる。決断主義者であるポパーは、彼の批判的合理主義の立場を、合理主義の立場をとること自体を非合理な決断によって選び取る立場であると説明している。これを他者との関係に転用すれば、つぎのようになるだろう。我々は、他者との関係においても、互いに理性的に議論するということ自体を、互いに非合理な約束によって合意しなければならない(約束主義)。

 一般的にいって、理性的な討議は、真理値をもつ事実確認型発話に関して/よっておこなわれるが、非合理な協議は事実確認型発話も使用するが主として行為遂行型発話に関して/よって行われる。それゆえに、理性的な議論には、理性的な議論の能力がありさえすれば、利害当事者でなくてもだれでもそれに参加する資格があるのに対して、協議に参加できるのは、原則としてその行為遂行型発話に責任がもてる利害当事者だけであるということになる。

 ところで、我々が承認要求を正当化するために約束をするとすれば、その最初の約束が正当性をもつためには、利害当事者の約束でなければならない。その利害当事者とは、約束される承認や否認にかかわっている人である。その利害とは、約束によって正当化される承認関係の利害であり、また約束する者が約束するときにすでにそのなかに状況付けられている様々な承認や否認の関係の利害である。最初のところでのべたように、我々は、なにもないところで約束するのではないし、また約束するときに、その中に状況づけられているすべての利害関係を反省できるのでもない。

 

 ところで、約束が前提する利害関係は共同体を構成する人倫的諸関係であるかもしれないし、自由主義的な市民社会であるかもしれない。あるいは、約束によってつくられる承認関係は、共同体論的なものではありえないと考えられるかもしれない。なぜなら、ヘーゲルもいうように、契約によって共同体を作ることはできないからである(なぜなら、契約は個人を前提しているが、共同体は、個人によって構成されるものではないからである)。しかし、かならずしもそうではないだろう。なぜなら、約束するときにすでに共同体論的な人倫的関係が成立しているとすると、それを追認ないし承認するという約束をすることができるからである。

 
  -----------講義では、ここまで


研究会での発表はもう少し続いていますが、講義での紹介はとりあえずここまでとします。