2000年前期講義  「承認論の可能性」
第3回  §2 愛と相互知識

                  

<資料編>

<Liebeついての発言>
「・・・愛が、他の人間たちの中に自己自身を見出し、あるいはむしろ自己自身を忘れて、自分の実存から外に出て、いわば、他者達の中に生き、感じ、活動するかぎりにおいて、愛は理性に似たものである。これはちょうど、理性が、普遍的に妥当する法則の原理として、すべての理性的存在者の中で、英知界の同じ市民として、自己自身を認識するのと同様である。」“das Grundprinzip des empirischen Charakters ist Liebe,die etwas Analoges mit der Vernunft hat, insofern als die Liebe in anderen Menschen sich selbst findet oder vielmehr sich selbst vergessend sich aus seiner Exis-tenz heraussetzt, gleichsam in anderen lebt, empfindet und taetig ist - so wie Vernunft ,als Prinzip allgemein geltender Gesetzte,sich selbst wieder in jedem vernuenftigen Wesen erkennt, als Mitbuergerin einer intelligiblen Welt.”("Volksreligion und Christentum" HW,B.I,S.30)

「愛の中でのみ、ひとは客体と一つである。その客体は、支配しないし、支配されもしない。」nur in der Liebe allein ist man eins mit dem Objekt , es beherrscht nicht und wird nicht beherrscht. .....("Moralitaet Liebe Religion"HW,B.I.S.242)


「愛は、鏡に向かうように、また我々の本質のエコーに向かうように、同じものに対してのみ生じる。」"Liebe kann nur stattfinden gegen das Gleiche, gegen den Spiegel, gegen
das Echo unseres Wesens."("Moralitaet Liebe Religion"HW,B.I.S.243)
(参照:「かくして、この愛人は恋する。しかし、何を恋しているのであろうか。彼はそれが解らずに、途方にくれる。彼は、自分の心を動かしているものが何であるかを知りもしなければ、説明することも出来ない。・・・・あたかも、鏡の中に自分の姿を見るように、自分を恋している人の中に、自分自身を認めているのだということが、彼には気が付かないのだ。」(プラトン「パイドロス」255d))

"die Geschlechtsbeziehung wird eine solche ,in welcher in dem Sein des Bewusstseins eines jeden,jedes selbst Eins mit dem Andern ist,oder eine ideale (Beziehung). Die Begierde befreit sich von der Beziehung auf den Genuss; sie wird zu einem unmittelbaren Einssein beider in dem absoluten Fuersichsein beider, oder sie wird Liebe; und der Genuss ist in diesem Anschauen seiner selbst in dem Sein des andern Bewusstseins."("Realphilo-sophie I",PhB版, S.221)

"Dies Erkennen (Jedes weiss unmitellbar sich im Andern) ist die Liebe. Es ist die Bewegung des Schlusses , so dass jedes Extrem vom Ich erfuellt, unmittelbar so im Andern ist, und nur dies Sein im Andern vom Ich sich abtrennt und ihm Gegenstand wird. Es ist das Element der Sittlichkeit, noch nicht sie selbst. Es ist nur die Ahnung derselben."(Realphilosophie II, PhB版,S.202)

<相互知識(相互に明白、共有知、相互予期)についての説明>

1、相互知識
(a)シファーの「相互知識」の定義
    S.R. Schiffer, Meaning, Clarendon Press, Oxford, 1972, pp.17-26.
「SとAが相互にpを知っている*」の定義
次のようにしよう。
   「K*sap」=df.「SとAが相互にpを知っている*」
我々は次のように言うことができる。
   K*sap iff
   Ksp
   Kap
   KsKap
   KaKsp
   KsKaKsp
   KaKsKap
   KsKaKsKap
   KaKaKaKsp




(b)相互知識の例
「君と私が一緒に食事をしており、我々は互いに向かい合わせに座っており、我々の間のテーブルの上にはかなり目だつ蝋燭があるとしよう。
私は、蝋燭と君に向かっており、君は蝋燭と私に向かっているという状況にいる。
(Sと蝋燭に向かっているAと蝋燭に向かっているSと蝋燭に向かっているAと蝋燭に向かっているSと蝋燭に向かっているAと・・・)

 テーブルの上に蝋燭があることを君と私は相互に知っている*。

 私は、テーブルの上に蝋燭があることを知っている。
            Ksp
 私は、君がテーブルに蝋燭があることを知っていることを知っている。私はどのようにしてこのことを知るのだろうか。第一に、「普通の」人(普通の感覚能力と知性と経験を持つ人)ならば、彼の目が開いており、彼の顔が対象の方を向いているならば、彼はその対象をみるだろうと、私は考える。第二に、君が「普通の」人であることを私は知っている。そして、君が目を明けて蝋燭に向かっていることを私は知っている。したがって、
            KsKap
 さらに、私は、私だけが、上に述べた法則に気づいている人であるとは仮定しない。それゆえに、私は、君が、普通の人は彼の開いた目の線上にあるものをみる、と考えることを知っている。そして、私は、君が私の目が開いており顔が蝋燭に向かっているのを知っているのを知っている。そこで、
            KsKaKsp
 私が君が普通の観察者についての当該の法則を知っていることを知っている。そこで、私は、君が私と同じように考えることを知っている。そこで、
            KsKaKsKap

以上から、次のことが明きらかだろう。
   (1)わたしは、これを永遠に続けることができる。
   (2)この遡行は無害である。
   (3)このケースで得られた現象は一般的なものである。

ここでの条件を明確にしておくと、
 条件1 Sが、「ふつうの人」はこうした状況でpを知る、と知っていること
 条件2 Sが、相手が「ふつうの人」である、と知っていること

シファーの定義するような相互知識は有り得ないだろう。なぜなら、例えば、
  K*sap iff
これが成立するとすれば、例えば、
  KsKaKsKap
が成立しているというのだが、これが成立するためには、
  KaKsKap
を知らねばならない。しかし、このことを予想することは出来るし、洋装しているとしても、これを知ってはいない。なぜなら、それを知るには、相手に問い尋ねて確認するしかないからである。そして、そういうことはやってはいない。
だから、シファーの定義するような相互知識はありえない。

(3)「相互予期」への修正
このような批判を考えるならば、現実に存在するのは、もし解い尋ねるならば、シファーのいうような相互知識が成立するだろう、という予期である。このような予期を両者がしているのであり、予期の予期もしており、
 Eapを Aはpを予期する、と言う意味に定義すれば
相互予期をつぎのように定義できるだろう。 

   E*sap iff
   Ksp あるいは Ksp
   Kap Kap
   KsKap KsKap
   KaKsp KaKsp
   EsKaKsp KsKaKsp
   EaKsKap KaKsKap
   EsEaKsKap EsKaKsKap
   EaEaKaKsp EaKaKaKsp
・ EsEaKaKaKsp
・ EaEsKaKsKap
・ ・
・ ・

というように定義できるだろう。
しかし、この場合にも相手が予期していることを予期する程度であればよいが、
予期が5、6回つづくとそのような予期を相手がしているとはとうてい予期できない。(そのような予期を相手がなし得るということは、予期できるとしても。)

この予期をどのように定式化するかは問題であるが、
しかし、ここに成立しているのは、知識である、というよりは予期と呼ぶべきものであるだろう。これを「相互予期」と呼ぶことにしたい。