2000年前期講義  「承認論の可能性」

第5回  §2 愛と相互知識

                  

<考察編 補足>
補足1、契約との違い


 先週、次のようにのべた。
  「愛する者たちは、一つの生きた全体である。」HW1,246
ここに必要なのは、
  K"ab「aとbは、一つの全体をなす」
という相互知識である。
 この相互知識は、<aとbが、一つの全体をなす>ということが成立したあとに、それについての相互知識として成立するのではない。<aとbが、一つの全体をなす>ということが成立する必要条件のなかに、この相互知識自体が含まれているのである。
 しかし、このことは、結婚の場合にも同様である。
aとbの結婚が成立するには、
   K"ab「aとbは結婚する」
という相互知識がその不可欠な成立条件になっている。そして、このことは、他の約束の場合にも、当てはまる。つまり、約束が成立するには、約束するということが、当事者の相互知識になっていることが不可欠である。
 先週述べたように、行為遂行的発話によって、このことは可能になる。しかし、発話によらずとも、このことは可能である。

 ヘーゲルは、友人との飲食の例、イエスの晩餐の例をもとに、つぎのように述べている。
 
「誰かと飲食をすることは、合一(Vereinigung)の行事であり、しかも生々しく感ぜられた合一(eine gefuehlte Vereinigung) であって、慣習的な徴(ein konventionelles Zeichen)ではない。一杯のぶどう酒を酌み交わすことは互いに敵である自然的な人間の感覚にはそむくであろう。この行為のなかでの、共同性の感情(Gefuehl der Gemeinschaft)と彼ら相互のこれまでの気分とは矛盾するであろうから。」(『キリスト教の精神とその運命』HW,B1,364, 邦訳『ヘーゲル初期神学論集U』以文社、193)

「イエスと弟子たちとが一緒に夕食をみとめたことは、それだけでもすでに友愛の行事である。ましてや厳かに同じパンを食べ、同じ杯からぶどう酒を飲むことはもっと強く結びつける働きをする。これも友愛の単なる徴であるだけではなくて、友愛そのものの、愛の精神の行為であり、感覚である。」(Ibid.)
「彼らはすべてが飲んだわけだから、等しい感情が彼らすべての中にある。全員が同じ愛の精神に浸透されている(durchdrungen)。」(HW,B1,367. 邦訳196)
 我々は、このような共同の行為の中で、合一の相互知識と合一を、一気に成立させることができる。

 さて、最初の問題に戻って、愛における合一が、愛の告白(行為遂行的発話)や共同行為によって、成立したとしよう。そこで成立しているのは、
    LaB・LbA・K"ab(LaB・LbA・「aとbは、一つの全体をなす」)
である。では、こういう表現で説明しきれているだろうか。そうではないだろう。ここでは、LaBとLbAとK"ab(LaB・LbA・「aとbは、一つの全体をなす」)の3つの出来事が独立しており、相互に影響を与えないかのように表現されている。少なくとも、これらの出来事の間の影響関係が明示されていない。契約による集団の構成については、このような側面を考える必要がないのかもしれない。そして、この点が、契約論と自然的共同体論の重要な違いになるように思える。この点について、次ぎに考えよう。


補足2、愛にテロスはないのか?


先週つぎのように述べた。
今仮に
   LaB
がなりたつ、つまり、aさんがbさんを愛しているとしよう。
   KaLbA
という知を得れば、aさんはうれしい。このことは、
   LaB=WaLbA
であることを意味している。つまり、愛は、相手に愛されたいという欲望を含んでいる。。

 ところで、aさんは、
   LaB・LbA・KaLbA
これが成り立っているときに、それで満足しはしないだろう。aさんは、
   K"ab(LaB・LbA)
という相互知識を求めるはずである。その証拠として、その相互知識が成立したときに、aさんには、喜びが生じるだろう。
   WaK"(LaB・LbA)
つまり、愛には、このような欲望が含まれている。愛は、互いに愛し合っていることの相互知識をもとめている。

 ところで、aさんは、
   Ka「aさんとbさんが一つになっている」
という知によって、喜びを感じるだろう。ところで、aさんとbさんが一つになっているためには、そのことが相互知識になっているということが、成立しているはずである。つまり、上の知が成立するときには、次ぎの知が成立しているはずである。
   K"ab「aさんとbさんがひとつになっている」
我々はこのような相互知識を獲得したときに、喜びを感じるのである。つまり、愛は合一の相互知識を求めている。
 さて、もし愛というのが、愛されることを求める事であるとすれば、そのことが実現したならば、それは充たされて、終わるはずである。しかし、現実には、相手に愛されていることを知ることによって、愛が終わるということはない。さらに、互いに愛していることの相互知識が得られても、また合一の相互知識が得られても、愛はおわらないだろう。
 むしろ、たいていは、これらの知や相互知識は、むしろ愛を強くする。
 では、その後もつづく愛は、何を求めているのであろうか。それは相手のより強い愛を求めているのだろうか。それとも、相手の愛が続くことを求めているのだろうか。それとも、それは感情においてだけでなく、行為においても合一することを求めているのだろうか。おそらく、愛はこれらのすべてを求めている。このような愛には、終わりがない、つまりそれが実現されれば愛は目的を果たして終了する、というような明確な目標がない。(愛と言うのは、際限のない無定形な欲望であって、それを満たすためにどうしたらよいのか、わからない。つまり、自分でもどうしたいのか、わからない。それゆえに、愛は人を不安にさせる。このような性格は、男女の愛に限らないだろう。)


§3 愛から承認へ


1 愛の限界


(『キリスト教の精神とその運命』邦訳『ヘーゲル初期神学論集U』より)

 ヘーゲルは、<愛は,正義や不正義にかかわらない。所有などの権利関係にかかわらない。>と考えた。そのことによって、愛は、律法の立場では出来なかった犯罪者と社会の和解を可能にする。しかし、逆に、所有関係や国家の領域には、かかわりえないことになる。

「イエスは一般に、愛による権利の放棄Aufgebung、つまり愛によって義または不義の全領域を超えることを要請する。というのは愛の中では権利とともに不平等の感情および平等を要求するこの感情の当為、すなわち敵に対する憎悪をも消えるからである。」訳155
「彼(イエス)がそれら(律法)に与えた補完は、彼がそれらを律法および義務として確立し、しかも動機としてそれらに対する純然たる尊敬を要求したというものではなくて、むしろそれらに対する蔑視をしめしている。」訳155
(これは、カントの道徳論に対する批判でもある。)

(1) 愛と律法の違い
・律法に従う場合
「義務と傾向との対立は愛の様態の中に、つまり徳の中に合一を見いだした。律法と愛とが対立していたのは、律法の内容にもとづいてのことではなくて、この形式によるものであったから、律法は愛の中に吸収されることができたのであるが、この吸収の中で律法はその形態を失った。」訳162

・律法に反する場合
「これと反対に、犯罪と律法とは内容からして対立している。律法は犯罪によって排除されてはいるが、やはり存在する。 というのは犯罪は自然の破壊であるが、自然は一なるものであるがゆえに、破壊者の中でも被破壊者の中でと同じだけのものが破壊されていることになるからである。」訳162
「徳による律法の廃棄では、律法の形式だけが消えて、その内容は残ったのであるが、今度は形式とともにその内容も廃棄されることになるだろう。というのはその内容は罰だからである。」訳163

・しかし「犯罪者は、律法と和解しているわけではない。」訳166
「犯罪者が働くのと全く同じ仕方でそれ(律法)が犯罪者に対して反作用を及ぼしてしまえば、それは働きを止めはするが、威嚇的な姿勢に戻ることになる。その形態が消失したり、友好的なものにかわったのではない。また、後者(犯罪者)の場合に、やましい良心、つまり悪い行為を下と言う意識、自分が悪人だという意識については、罰を受けたからといって何もかわるわけではない。というのは、犯罪者は自分をつねに犯罪者として眺めているし、現実である自分の行為に何の威力を及ぼすわけではないし、こういう彼の現実は自分の律法意識と矛盾しているからである。」訳166
「疚める良心の重圧と苦痛とがふたたび彼をかりたて、自分自身と同時に律法から逃れ、それによって正義から逃れようとする不誠実に赴かせることもある。」訳166

・ 運命としての罰
「運命と考えられた罰は、全く別種のものである。運命において罰は、敵対する威力であり、ひとつの個体であって、そのなかでは普遍者と特殊者とが、そこでは当為とこの当為の実行とが、律法の場合のように分かれていないという意味でも、合一されている。」167
「律法によって規制されもせず、立法に反するのでもない一なる生命からの逸脱によって、つまり生命をころすことによって、初めて異質無縁のものが作り出される。生命の絶滅は、生命の非存在ではなくて、その分離であるから、絶滅とは生命が敵に作りかえられてしまったという点にあるわけである。生命は不死であるから、殺されると、おそるべき幽霊となって現れ,自分の分身をことごとく働かせ、復讐の女神を放つ。」訳168
「犯罪者は自分が他人の生命を相手にするつもりであった。ところが彼は自分自身の生命をはかいしただけのことである。というのは、生命というものは、一なる神性の中にあるゆえに、生命が生命から分かれて別のものになることはないからである。」168

・ 愛による運命との和解
「運命と和解するためには、絶滅(Vernichtung)というものが止揚されなければならないようにみえるから、運命との和解は、刑罰法との和解よりももっと考え難いようにおもわれる。しかし、運命は和解性にかんして、刑罰法よりも、次の点ですくれている。つまり、運命は生命の領域の内部にあるが、これに反してして律法と刑罰の下にある犯罪は克服できない対立、絶対的な現実の領域にあるということである。」訳169
「前者(運命への恐怖)は分離に対する恐怖であり、自分自身への怖れである。後者すなわち罰への恐怖は、ある異質無縁のものへの恐怖である。」訳170
     運命への恐怖     罰への恐怖
     分離に対する恐怖   異質無縁のものへの恐怖
     自分自身への怖れ   主人への怖れ
「罰は、こういう異質無縁な主人を前提することになる。罰に対する怖れはこの主人への恐れである。――これに反して運命においては、敵対する威力は敵に廻った生命の威力であるから、運命への怖れは異質無限なものへの怖れではない。」170
「自分自身を再び見出すところの生命の感情が愛であり、愛の中で運命は和解される」訳171