2000年前期講義  「承認論の可能性」

第6回

               

§3 愛から承認へ(つづき)
1、愛の限界(つづき)

(2)愛は所有を超えられない。

 愛が権利関係に立ち入らないことについては、先週の引用でのべた。権利関係に立ち入らないことによってのみ、和解を可能にするからである。しかし愛が、所有関係を越えられないということは、所有をめぐる権利関係を超えられないということでもある。

 「財産というものの運命は私達にとってあまりにも強力であるから、それについて反省することは耐えられないし、それから離れてしまうことは、私達に考えられないからである。しかしながら、このことだけは、悟らねば成らない。財富の所有は、それと結びついたあらゆる権利ならびに心労とともに、人間の中にもろもろの規定性を持ち込み、それらのもつ枠が徳に限界を設け、条件と依存性を与えるということである。こういう条件や依存性の内部ではもちろん義務や徳のための余地はあるが、全体的なもの完全な生命は許されない。」前掲訳書158

 「財富は一つの権利であり、様々な権利の中に含まれているということによって、自分が愛や全体性に対立することをただちに暴露する。」訳159

 「愛の喜びは、他のいかなる生命とも交わり、それを承認するが、個別性の感情にあえば、萎縮する。人間が自分の教養と関心について、また世界との関係において個別的であればあるほど、また各人が多くの財産を持てばもつほど、愛はますます自分自身に局限されてるようになる。」訳231

 

 このように、愛では権利関係を克服できないのだとすると、律法と犯罪者の対立を、愛は和解にもたらすこともできないのではないか、という疑問が生じる。「財産というものの運命」に対して愛は無力である。

 

(3)隣人愛は排他的である。

 ヘーゲルは、「普遍的な人間愛」を批判して、次ぎのように述べる。

 「自分がその人についてまったく何も知っていないし、知り合いでもないし、いかなる関係ももたないような人々、そういうすべての人々に及ぼされるべき人間愛、こういう普遍的な人間愛というものは、現実が貧困なので、一つの思考物に対比して理想的な要求である徳を並べ立て、こういう考えられた客体をかりて仰々しい姿をあらわさざるを得ないような時代の特徴的な、しかし空疎な発明である」訳190

 「普遍的な人類愛という壮麗な理念の不自然さと浅薄さ」訳232

 

 ヘーゲルは、「普遍的な人間愛」というものが、時代の産物であることを認識している。(このような抽象的に考えられた人間に対する愛への批判は、後に述べる法的な人格の相互承認(人権の承認)への批判に通じる。)これに対して、彼が主張するのは、隣人愛である。

 

 「隣人愛とは、ひとが関わりをもつ人々に対する愛である。考えられたものは、愛せられたものではありえない。もちろん愛は命ぜられることはできない。もちろんは愛は情動的なものであり、傾向である。」訳190

 

 しかし、このような隣人愛とは、排他的である。そのことをヘーゲルもまた自覚しているように思われる。

 「において人間は他者の中に自分自身を再発見した。愛は生命の合一であるから、それは分離、すなわち生命の発展、形成された多面性を前提する。そして、生命がおおくの形態の中で生きているほど、生命はそれだけおおくの点において合一し、みずからを感ずることができるし、愛はそれだけ誠実なものでありうる。また愛する者達の関係や感情が多様性において広がるほど、愛が深く集中すればするほど、それだけ愛はますます排他的であり、他の生命形態に対してますます無関心である。」訳231

 

 隣人愛がこのように排他的なものであるならば、同じように排他的な関係である所有などの権利関係の対立を愛では克服できないであろう。

 (ところで、愛はなぜ排他的になるのだろうか。それは、愛は合一の感情をもとめるが、愛による合一の欲求は、他者を排除することと裏表の関係にあるからではないだろうか。)

 

2、承認論の登場

 愛がこのような限界をもつとすれば、ヘーゲルが課題としなければならないのは、<所有をめぐる対立がどのようにして克服されるのか>を説明することになるだろう。所有めぐる戦いの解決は、所有の「承認」あるいは「相互承認」という概念によって、説明されることになる。これは、フィヒテの承認論の影響をうけたものである。

 (ここでは、『人倫の体系』1802/03における承認論の登場と、その後の『精神哲学』(1803/4)と『精神哲学』(1805/6)の承認論の展開を、簡単に紹介するつもりでしたが、この調子では肝心の問題に辿り着かないので、省略することにします。 平石隆敏、高田純、Siepなどの文献を参照してください。)

 


§4 契約と相互知識

 ヘーゲルが「人倫性」を主張するときに、否定する立場は、一つはロマン主義的な「愛」という立場であり、もう一つは啓蒙主義的な「契約」の立場である。ここでは、ヘーゲルが契約をどのように考え、それをどのように批判するのかを、確認しておきたい。

 ヘーゲルの基本的な立場は、<契約での「共同意志」は、偶然的なものであるので、「普遍的意志」ではない。ゆえに、偶然的な共同意志によって、つまり契約によって、国家を作ることは出来ない>というものである。

 ところで、ヘーゲルは、<契約は、承認を前提する>と明確に述べている(『法哲学』§70)。それは、<契約は、所有を前提する、つまり相手の人格とその所有権の承認を前提する>ということであろう。しかし、このような承認は、市民社会を可能にする原理でしかない。(注)

 この承認と、彼が「人倫性」および「国家」について語る「承認」との質的な差異と、両者の関係を明らかにする必要があるだろう。

 

1、『法哲学』の「契約」論

 

Zusatz71

「契約の中で、わたしは、共同の意志gemeinsamer Willeによって所有を持つ。主観的な意志が普遍的になるということ、この実現へと自己を高めることは、理性の関心Interesseである。この意識という規定は、契約の中にのこっている。しかし、他の意志との共同性の中にある。これに対して普遍的な意志は、共同性Gemeinsamkeitの契機と形態のなかで、ただ登場しているだけにすぎない。」

§74

「この関係は、それだけで存在する所有者の絶対的な区別において同一である意志の媒介である。それは各所有者が、自分の意志および相手の意志でもって、「所有者たることを止め、所有者でありつづけ、所有者となる」ということを含んでいる。それは、ある一つのしかも個別の所有を手放そうとする意志と、そのような所有、したがって他者の所有を受け取ろうとする意志との媒介である。しかも、一方の意欲はただ他方の意欲が現存している限りにおいてのみ決断するという、同一的な連関のなかでの媒介である。」訳276

 Hothoのノートには、「一方の意志が他方の意志によってのみ決断し、決断のこの共同性(Gemeinsamkeit)において同時に個別的で排他的な意志であり続けている。」3-265とある。

§75

「二人の契約する当事者は、直接に自立している人格として、互いに関係するので、契約は、α)恣意から、出発し、β)契約によって現存在するようになる同一の意志は、彼らによって措定された、したがって単に共同のgemeinsamer意志であり、完全な意味で普遍的な意志なのではない。γ)契約の対象は、一つの外面的な物件である。というのは、そのようなもののみが、それを放棄するという彼らの単なる恣意に従属しているからである。」

                     §80

A 贈与契約

   2、   物件の貸与

   3、   用益の贈与

B 交換契約

       α)物件の交換

       β)売買(ある特殊的物件を,普遍的物件として規定されている物件、   

         すなわちただ価値として通用するだけで他に利用のための特殊

         的規定を持たない物件、つまり――貨幣と交換すること。)

       α)特殊的物件の賃貸

       β)普遍的物件の賃貸(借入金の賃貸)

 


 

注 市場社会に人権思想が発生する

(1)資本主義とは何か

   Wallerstein『史的システムとしての資本主義』岩波書店

「ここで、史的システムとしての資本主義とよんでいる歴史的社会システムの特徴は、この史的システムにおいては、資本が極めて特異な方法で用いられる――つまり投資される――という点にある。」4

「かつての歴史的社会システムにおいては、こうした要素(資本の循環に不可欠な要素)が欠けていることが多かったというのは,それらが全く「商品化」されていないか、それほどでなくても「商品化」が不充分だったことが多いからである。つまり、その過程が「市場」を通じて取引できるものであり、また、そうされるべきものだとは考えられていなかったということである。したがって、史的システムとしての資本主義は、それまでは「市場」を経由せずに展開されていた各過程――交換過程のみならず、生産過程、投資過程をもふくめて――の広汎な商品化を意味していたのである。」7

「私見では、この史的システムは15世紀末のヨーロッパに誕生した。このシステムは、その後も、ときの経過にともなって空間的に拡大しつづけ、19世紀末までには地球全体を覆うに至ったが、今日もなお全地球をカヴァーしたままである。」13

 

(2)市場は人権の花園?

    マルクス『資本論』岩波書店 向坂逸郎訳、第一巻より。

 「ある一人は、他人の同意をもってのみ、したがって各人は、ただ両者に共通な意志行為によってのみ、自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがて、彼らは交互に私的財産所有者として、認め合わなければならぬ。」訳1-152

 「この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、対することが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない」訳1-158

 「商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点にはじまる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用を及ぼして、共同体の内部生活においても商品となる。」訳1-158

 「交換の絶えざる反復は、これを一つの規則的な社会過程とする。従って、時の経過とともに、すくなくとも労働生産物の一部は、故意に交換のために生産されなければならなくなる。」1-158

 「貨幣からこれに転化したものがなんであるかを、看取するわけにゆかぬのであるから、いっさいが商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。一切が売り得、買い得るものとなる。流通は、偉大なる社会的レトルトとなる。一切がこの中に投げ込まれて、再び貨幣結晶としてでてくる。この錬金術には、聖骨さえもていこうできない。だから、もっともっと粗っぽくないものなど、いうまでもないことである。貨幣においては、商品の一切の質的差異が消失するのであるが、同じように、貨幣の方でもまた、急進的平等主義者として、一切の差異を消滅させる。しかしながら、貨幣は自身商品であり、外的な物であって、どんな人の私的所有財産ともなることができる。こうして、社会的な力は、私人の私的な力となる。従って、古代社会は、貨幣をその経済的なおよび道徳的な秩序の破壊者として非難する。」1-230

 

・労働力商品の所有者

 「その所有者が、労働力を商品として売るためには、彼はこれを自由に処理し得なければならず、したがって、その労働能力の、すなわち彼の一身の、自由な所有者でなければならない。彼と貨幣所有者とは、市場で出会い、お互いに対等の商品所有者としての関係にはいる。ただ、一方は買い手であり、他方売り手である。したがって、両者は法律上平等は個人であるということで区別されるだけである。」1-292

 労働力を売ることができるためには、彼は労働力を自由に処分できるのでなければならない。それは、肉体や精神の活動の自由、職業選択の自由、住居の自由、思想表現の自由、などを必要とする。こうして、基本的人権は、労働力の商品化と結合している。

 

 「この関係が存続するには、労働力の所有者が労働力を、つねに一定の時間のあいだだけ売るということが要求される。なぜかというに、彼は、労働力を、ひっくるめて一度に売るならば、自分自身を売るのであって、一個の自由人から奴隷に、一個の商品所有者から商品に転化するからである。」1-292

 一定時間を売るのでなければ、奴隷になってしまう、ということは、ヘーゲルも述べていた。ただし、商品所有者から商品に転化する、という言い方はしていなかった。たとえば、売れっ子のアイドルが、24時間働き続けるとき、彼・彼女は、商品所有者ではなくて、商品になっている。しかし、実は、我々もまた、商品所有者とうよりも、むしろ商品に転化しているのではないだろうか。

 

・人権の花園

「労働力の買いと売りとが、その柵の内で行われている流通または商品交換の部面は、実際において天賦人権の真の花園であった。ここにもっぱら行われることは、自由、平等、財産、およびベンサムである。 自由! なんとなれば、一商品、たとえば労働力の買い手と売り手は、その自由なる意志によってのみ規定されるから。彼らは自由なる、法的に対等の人として契約する。契約は、彼らの意志が共通の法表現となることを示す終局の結果である。 平等! なんとなれば、彼らは、ただ商品所有者としてのみ相互に相関係し合い、等価と等価とを交換するからである。 財産! なんとなれば、各人が自分達のものを処理するだけであるからである。 ベンサム! なんとなれば、両当事者のいずれも、ただ自分のことに関わるのみであるからである。彼らを一緒にし、一つの関係に結びつける唯一の力は、彼らの利己、彼らの特殊利益、彼らの私的利益の力だけである。」1-306