2000年前期講義  「承認論の可能性」
第7回

               

§4 契約と相互知識(つづき)

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<先週、岩井克人氏の「朝日新聞」2000年5月9日づけの記事のコピーを配布しました。---------以下は、これについてのあるMLでのわたしの発言の一部です---------->

 岩井氏は、人権が市場社会で成立したものであるということを指摘しますが、しかしそこから、<それゆえに、人権はいかがわしいものである>と考えているのではないとおもいます。むしろ、彼は、国際NGOの人達が、「人権」概念が市場社会から誕生したことを自覚せずに、「人権」概念にもとづいて、市場経済のグローバル化を批判していることを批判しているだけです。
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 単に「階級社会における人間の価値の苛酷な序列化」から「人権」思想がうまれるのならば、資本主義社会でなく、中世の封建制の下での「苛酷な序列化」から「人権」思想が生まれてもよいはずです。しかし、歴史的にはそうではありませんでした。わたしは、岩井氏と同じく、「人権」概念は資本主義的な市場社会でこそ生まれることができたのだとおもいます。しかし、この点に関して、岩井氏とわたしの理解は若干異なっているかもしれません。
 岩井さんは、インドの少女も、ビルゲイツも、価格に大きな違いはあるが、同じようにドルで計られる価値を持っている。つまり、彼らが所有している商品(ビルゲイツの資産など、少女の労働力など)は、量的な大きな違いがあるが、質的に同じものである。この点に人間として平等な存在であるという「人権」思想の根拠を見ようとしているようにおもえます。
 わたしは、やはりマルクスのように考える方が正しいだろうとおもいます。つまり、ビルゲイツとインドの少女がもっている商品が、市場社会の中では、同質のものであるから、二人が同等なのではなくて、ビルゲイツと少女は、商品所有者であるという点で、平等であるということです。
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 マルクスが、「天賦人権の花園」についての語る段落で言いたい結論は、資本主義はいかがわしい、それゆえにそこに花咲く「人権」概念もいかがわしい、ということでしょう。わたしは、人権思想を尊重します。それゆえに、そのような人権思想の花を咲かせる市場というものを(問題があることは認めつつも)再評価してもよいのではないか、と考えています。
 市場を評価する理由は、もう一つあります。それは、近代西洋に近代科学を花開かせることになったものは、学問的な議論の公開性、つまり(学問にかぎりませんが)議論の公共空間であり、この公共圏というものは、いわば言説の市場であるということです。市場と公共性の大きな違いは、コミュニケーション・メディアが貨幣であるから、真理であるか、という違いであって、公開性において、両者は非常に似ています。市場での取引は、商品の評価についての自由な討議を前提するはずであり、公共性というものの社会的な背景は、やはり資本主義的な市場システムにあるとおもいます。(これは、昨年論文に書いたのですが、未だに発行されないので困っています。)
------MLでの発言はここまでですが、ついでに補足します。


 わたしの肉体的能力や精神的能力は、すべて商品となる。つまり、商品所有者であるわたしには、何も残っていない。わたしは、わたしの思想や感情のすべてを公開して、討議にかけることができる。そうすると、討議する私には、何も残らない。このような<私>が、自由主義者のいう「負荷なき自我」である。
 しかし、市場や公共の討議にかけることが出来ずに残っているものがある。わたしに残っているのは、わたしの歴史である。わたしの歴史だけは、商品にはならない。なぜなら、それが商品になったとき、それはすでにわたしの作品であえり、歴史そのものではないからである。私の歴史は、市場や公共の討議にかけることが出来ない。つまり、そこではそれは存在しないのも同じである。わたしの物語りが考慮されるのは、身近な人達においてだけである。それは,家族や友人や仲間である。(もちろん、仕事の中にも友人仲間関係ができるだろう。そして、そこでは(物語的な存在)人間としての関係をもつだろう。しかし、そのような仲間意識は、仕事には無関係なものであり、それを混同することは、公私混同と批判される。


2 契約における相互知識


 ヘーゲルは、契約によって、「共同の意志gemeinsamer Wille」成立しているという。(ただし、これは人倫性を成立させる「普遍的な意志」とは区別される。)この共同性は、相互知識によって可能になるものである。これは、どのようにして可能になるのだろうか。

 問題を簡単にするために、贈与契約(片務契約)を考えてみよう。
 AさんとBさんの二人がいて、P「AがaをBに譲渡する」ということを契約したとしよう。
このとき何が相互知識になっているのだろうか。
   (1)AさんとBさんが、Pを契約した
この(1)が相互知識になっていなければ、およそ契約が成立しているとはいえないだろう。しかし、この(1)が成立するためには契約が成立しなければならず、そのためには、(1)の相互知識が必要である。この循環を解決するには、一気にこのことが成立するのでなければならない。それは、「契約」の行為遂行的発話によって可能になる。この契約における相互知識の内容をもうすこし分析してみよう。

 AさんとBさんの二人がいて、P「AがaをBに譲渡する」ということを契約したとしよう。
ここで成立しているのは、つぎの二つのことだけではない。
    (ア)Aさんがp「AがaをBに与える」ことを意志する
    (イ)Bさんがq「BがbをAから受取る」ことを意志する
また、つぎの相互知識を付け加えてもまだ不充分である。
    (ウ)この二つのことが、相互知識になっている。
なぜなら、ここでは契約ということが行われているのであるから、かりに、(ア)や(イ)が、契約の前から個別に成立していたとしても、契約のなかは、(ア)は(イ)を条件にし、(イ)は(ア)を条件にしている、ということが意識されているはずである。そこで、つぎのことが成立しているはずである。

 このことを、ヘーゲルはつぎのように述べている。「一方の意欲はただ他方の意欲が現存している限りにおいてのみ決断するという、同一的な連関のなかでの媒介である。」§74、訳276
 Hothoのノートには、「一方の意志が他方の意志によってのみ決断し、決断のこの共同性(Gemeinsamkeit)において同時に個別的で排他的な意志であり続けている。」3-265とある。

    (エ)(ア)と(イ)は互いに条件となっている。
       (つまり、AとBの二人の意志(の内容)が一致しており、
        そして、この一致ゆえに、両者は、そのことを意志する。)
    (オ)(エ)が両者の相互知識になっている。

 この(エ)の段階には、複雑な知と意志の絡まりがある。それをもう少し分析してみよう。
    (エ1)Aは、自分の意志pがBの意志qと一致していることにもとづいて、pを意 
        志する。
    (エ2)このとき同時に、Aは、Bもまた意志の一致にもとづいて意志することを
        予期して(あるいは、条件にして)意志している。
    (エ3)このとき同時に、Aが意志の一致にもとづいて意志することをBが予期して      
        意志することを、Aは予期して意志している。

この程度の予期は、現実に働いているとおもわれるが、さらに次ぎのようになるとたいていの場合には、意識されていないだろう。
    (エ4)この時同時に、Bが意志の一致にもとづいて意志することをAが予期して
        意志することを、Bが予期して意志することを、Aは予期して意志する。

 交換契約(双務契約)についてもほぼ同様のことが成立しているといえるだろう。
 「共同的な意志」というものは、両者の意志が単に一致するだけでなく、また、<両者の意志の一致>を条件に両者が意志するというだけでなく、<両者の意志の一致を条件に意志していることを相互に予期していること>を条件に両者が意志することによって成立する。もっと厳密にいえば、<両者の意志の一致を条件に意志することを、相互に予期して意志することを、相互に予期して意志すること(を、・・・・・)>を条件に両者が意志することによって成立する。
 

3 国家契約説への批判


 ここでは『法哲学』の「契約」の章での批判を取り上げよう。
      (ヘーゲルの国家契約説批判の論点の全体については、98年度に講義したこと
       がありますので、そのときの98年度の講義ノート「第19回民族国家承認論」を参照してください。)
 
                  Zusatz75
「契約は、人格の恣意(Willkuer、選択意志)から出発するのであって、この出発点は結婚もまたこれを契約と共有するところである。
 だがこっかにあっては右の点がただちにちがっている。というのは、人は自然の面ですでに、国家の市民なのだから、国家から自分を切り離すことは、個人たちの恣意でできることではないからである。
 人間の理性的な規定は、国家のうちに生きることである。どんな国家もまだ現に存在していないとすれば、国家の創設されることをもとめる理性の要求が現に存在している。
   ・・・・・・
 国家を創設することは、万人の恣意にもとづくことであるなどというのは、間違いである。かえってむしろ、なんびとにとっても、国家のうちにあるということは、絶対的に必然なのである.」訳278

 ここに、契約論批判の二つの論点をみつけることができる。一つは、契約は個人の恣意にもとづく偶然的なものでり、必然的なものである国家を説明できないという論点である。もう一つは、契約は、個人を出発点にするが、国家は個人よりも先なるものであるという論点である。
 a、国家契約の必然性という問題:
 ヘーゲルは、恣意に基づく契約は偶然的なものであるが、国家は絶対的に必然的なものであるので、契約によって国家をつくることはできないという。
 しかし、契約論をとるカントは、国家を作ることを理性にとっての必然と考えている。カントによれば、法の普遍的原理「いかなる行為も,その行為そのものについて見て、あるいはその行為の格律に即してみて、各人の意志の自由がなんびとの自由とも普遍的法則に従って両立しうるような、そういう行為であるならば、その行為は正しい(recht)」(「法論の形而上学」)を実現するために、必然的に契約による国家の設立が要請されるのである。ホッブズも、国家契約を理性にとっての必然な行為だと考えているといえる。いずれにせよ、国家契約を必然的な契約と考える立場もありうるだろう。
 b、したがって、より重要なのは、個人が主体であり、そのような個人が国家を作るという論点への批判であろう。つまり、全体こそが本来の主体であり、個人はその契機であるに過ぎないからである。この論点は、契約は人格の承認を前提するという論点と結合している。
 「契約は、契約に入るものどうしが、互いに人格および所有者として承認し合うということを前提している。なぜなら、契約は、客観的な精神の関係であるから、承認の契機は、すでにその中に含まれており、前提されているからである。(Vgl.§35,57Anm.)」§71
 ヘーゲルの議論では、承認の成立は、国家の成立を意味している。それゆえに、契約が前提とする承認が成立しているとき、すでに国家は成立しており、契約はむしろ国家を前提することになる。
 ただし、契約の前提となる承認と、国家を成立させる承認とは、次の点で異なっている。前者は、個人としての人格を存在させる承認であるが、後者は、個人が自己否定し、全体(民族)を全体として存在させる承認である。




注:ホッブズの国家契約


<どのようにしてコモンウェルスを設立するか>
*契約によって
 「この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意志を多数決によって一つの意志に結集できるよう、一個人(one Man)あるいは合議体(Assembly of men)に、かれらのもつあらゆる力と強さを授与することである。
 いいかえると、自分達すべての人格Personを担う一個人、あるいは合議体を任命し、この担い手が公共の平和と安全のために、何を行い、何をおこなわせようとも、各人がその行為をみずからのものとし、行為の本人Authorは自分達自身であることを、各人が責任をもって認めることである。」(196)

*契約内容
「これは同意や和合以上のものであり、それぞれの人間が互いに契約をむすぶことによって、すべての人間が一個の人格へと実際に結合されることである。その方法は、あたかも各人(every man)が各人(every man)に向かってつぎのように宣言するようなものである。『私は自らを統治する権利(my Right of Governing my self)を、この人間(this Man)または人間の合議体に完全に譲り渡し、権限を与える(Authorise)ことを、つぎの条件の下に認める。その条件とは、君も君の権利を譲渡し、彼の全ての行為に権限を与える(Authorise)ことだ。』」

 ここで、重要なのは、各人が各人と、うえのような契約をするとき、一人でも、権限を譲渡しないものがいるときには、すべての契約が不成立になるということである。成立するときには、全員一致が成立している。このような意味で、各人が各人と行う契約は、互いに結合している。つまり、ここにあるのは、むしろ実質的には一つの契約である。

 第4回講義でのべた注をここでもう一度取り上げよう。
 ここに10人の人間がいるとしよう。
(A1)xさんは、他の9人の中のaさんと彼を代表する契約をした。
    また、bさんとも契約した。これを繰り返して、すべての人と、その 
    人を代表する契約をした。
(A2)(A1)が10人すべてにとって、相互知識になっている。
しかし、これだけでは、xさんは、10人の集団を代表しているとはいえない。
(B1)10人のそれぞれが、xさんがこの10人の集団全体を代表する、と考え
    ている。
   (B2)(B1)が10人すべてにとって、相互知識になっている。
以上がそろったとき、xさんが10人の集団を代表しているといえるだろう。

 前回問題にしたのは、<10人が一つの集団を作る>とは、どういうことなのか、といことであった。そのためには、つぎのことが必要である。
   (C1)10人が集団をなすことが、10人の相互知識になっている。
しかし、(C1)は、集団の成立を前提している。この循環は、行為遂行的発話によって一気に解決されるのであろう。

 ホッブズの契約論では、この問題は、解決しているように思われる。
つまり、すべての契約は、互いに連結している。従って、契約する者は、そこに意志の全員一致があり、しかもその意志の全員一致のゆえに意志し、また意志の全員一致ゆえに意志することが相互予期されているから意志する、という共同意志が成立しているのである。)