2000年前期講義  「承認論の可能性」
第8回

§4 契約と相互知識 (つづき)
               
4、契約は承認を前提する


 ヘーゲルは、契約は、互いに「人格および所有者」として相互に承認しあっていることを前提するという。
 「人格性」はつぎのように定義される。

 「人格性は、つぎのようなことを含む。すなわち、この者としての私はあらゆる面からいって(内面的な恣意、衝動、欲望の点でも、また直接的外面的な現存在からいっても)完全に規定されて有限な、しかもまったくただ純粋な、自分への関係であるといこと。」
 「人格性が始まるのは、主体が単に自己意識一般を、具体的なものとしての自分、何らかの仕方で規定された者としての自分、についてもつときではない。むしろ、あらゆる具体的な制限されたあり方と妥当性が否定されていて妥当しないところの、完全に抽象的な自我としての自分について、主体が自己意識をもつかぎりにおいて、そこにはじめて人格性が始まる。」(『法哲学』§35)
 このような「人格」概念の本質は、商品所有者であるといえるだろう。
「精神的なもろもろの熟練、つまり学問と芸術、そして宗教上のもの(説教、ミサ、祈祷、聖別された諸物における祝別)でさえも、また発明なども、契約の対象となり、売り買いなどのやり方における公認された物件と同一視される。はたして芸術家や学者(また聖職者)などは、自分の芸術や学問、また説教やミサを行う能力などを法的に占有しているのであるか、つまり、この類の諸対象は物件であるのか、と問われるかもしれない。
 そのようなもろもろの熟練,知識、能力などを物件と呼ぶことは躊躇されるであろう。」(『法哲学』§43)
「もろもろの知識、学問、才能などは、もちろん、自由な精神に固有のものであり、この精神の内面的なものであって、外面的なものではない。しかしまた精神は外への表明によって、それらの知識、学問、才能などに一つの外面的な現存在を与えることも出来、それらをそとに譲渡することもできる。このことによってそれらの知識、学問、才能などは物件という規定のもとにおかれるわけである。したがって、それらは最初には、直接的なものであるのではなくて、精神が自分の内的なものを直接性と外面性におとしめるその媒介によって、はじめて直接的なものとなるのである。」(『法哲学』§43)

 我々が、契約できるのは、このような外的な物件についてだけであるので、互いの人格の尊重そのものを契約によって、基礎付けることは出来ない。人格の尊重は、あくまでも、契約の前提なのである。
 もし、国家契約論が、自然状態ですでに個人が何らかの権利を持っているというのならば、それに対して、ヘーゲルは自然状態でいかなる権利ももたないと批判する*が、他方で、もし、国家契約論者が、自然状態では個人は権利を持たないが、国家契約によって個人が権利を持つことになるのだと主張するのならば、それに対して、ヘーゲルは、契約では人格の尊重そのものを基礎付けられない、と批判することになるだろう。

(*「自然状態」とよばれる関係における「諸個人の唯一の関係は、この関係を廃棄することである。この関係においては、諸個人は互いに対して如何なる権利も義務も持たない。」(GW,Z,214)) 

          

5 契約しないことも別の約束をすることである


 ヘーゲルによる<選択の自由への批判>からすれば、契約しないという選択は、契約するという選択肢からの復讐をうける。たとえば、Aさんから「これを上げましょうか」と問われたBさんが、「はい、ください」といえば、前回分析した、贈与契約が成立するのであるが、しかし、「いいえ,結構です」と答えたとすると、このときには、Aさんの申し出を断わったというということについての、相互知識が成立し、このことが、以後の二人の行為の意味を規定するということについての相互予期が成立する。
 たとえば、Aさんが、もう一度前回とおなじく「これを上げましょうか」といえば、これはもはや前回と同じ意味をもたない。それは、おそらくさらにつよく勧めるという意味になるだろう。また逆にAさんが申し出を繰り返すことをしなければ、それは先の申し出が儀礼的なものであった、という意味を事後的に与えることになるかもしれない(「京都の茶漬け」?)。
 つまり、契約しないという選択もまた、一定の意味の場の変容についてのある合意を形成することになってしまう。つまり、ある種の約束をすることになってしまうのである。ユダヤの格言に「黙っていても嘘はつける」というのがあるが、それは、状況によっては、黙っていることがある約束をすることになる、ということを示している。そのような状況では、そのことを利用して、嘘をつくことができるということである。
 ある約束をしないことは、とあえずはその約束をしないという約束をしたことになるのである。約束しないときにも、別の約束が成立してしまうのである。
 ただし、この約束は拘束力がないので、これを「約束」と呼ぶのは、あるいは不適切かもしれない。映画の誘いを断わった者が、後で映画に行くことに気持ちを変えても、それが約束違反として責められることはないだろう。
 この「約束」の拘束力をどのように見積もるにせよ、ある種の<約束>が成立しているといえるのではないだろうか。そして、このことは、契約は、それを成立させる相互知識や相互予期の成立している人間関係を前提しているということである。
 さらに、人がかりにその人間関係を承認したくないとおもっていても、それは社会的に承認されてしまっている。

<注:このような承認の事例:市場社会>


 上にも書いたように、我々が商品所有者として市場に参加するというというは、事態の一面であり、他面では我々は、市場に参加せざるを得ない。つまり、市場で商品所有者として契約することはできるが、しかし契約しないことは出来ない。言いかえると、選択できるが、選択しないことを選択することは出来ない。(契約における私的自治の原則は、実質的に成立していないと言うことである。)ルーマンにならっていうならば、我々の決定は、先行の決定に規定されており、我々は決定を控えることも、一つの決定を行うことになってしまうのである。
 もちろん、選択しなければならないとしても、選択の自由があるには違いない。しかし、そのような「負荷無き自我」は、結局は、一定の状況の中で、何かを選択すること自体からはのがれられないのである。その意味では、もはや「負荷なき自我」であるとは言えない。
 もちろん、選択を避けられないとしても、その際に、自分自身が空っぽであるというように考えるだろう。しかし、空っぽであると感じながらも、他方では選択状況への拘束は動かしようのないものである。彼は、限定された選択肢を引きうけねばならず、その限定された選択肢の組織が、彼にとっての負荷としての状況である。そこが彼のロードスである。(このことをへゲルは見ぬいていた。)
 我々は、選択をしないでいられるという意味での「負荷なき自我」ではない。我々はつねにある一定の選択肢の中で選択せざるを得ない、という負荷を背負っている。
(ただし、そこには、この図式が要求する必然的な規定性がある。
    抽象的な自由を否定できない
    特別なものとしての承認願望を否定できない
    市場システムを否定できない )

 そして、これと同じことが討議の公共性のもとでも生じるとき、フーコーがいうように、言説の主体は、個人ではなくて、言語である、ということになる。しかし、言語というものが、どこかにあるわけではない。またシステムというものが、どこかにあるわけではない。
 言説の体系、選択肢の組織の全体を見とおすことは出来ない。そのシステムと対峙することもできない。そのシステム(運命)は、<特殊なもの>として襲いかかってくる。(このことをヘーゲルは見ぬいていた)
 (このような状況で出きることとして、選択状況をかえること、新しい選択領域を開いて行くということがある。つまり、そこで何かを選択することによって満足できるという領域をつくりださなければならない。たとえば、勉強のできる少年ならば、よい成績を取ることによって評価され満足が得られる選択領域がある。これは、その少年がもっているある種の能力が、ある選択領域で高く評価されるということである。 他には、ないのだろうか?)