2000年前期講義  「承認論の可能性」
第9回


§5 承認と相互知識
1. 『エンツュクロペディー』の承認論

ヘーゲルは、彼の哲学体系の全体をまとめて叙述した著作は、"Enzyklopadie der philosophischen Wissenschaften" (1817,1827,1830)である。これは、
Erster Teil , Die Wissenschaft der Logik
Zweiter Teil, Naturephilosophie
Dritter Teil, Philosophie ders Geistes
からなっている。この第3部は(第3版では)次ぎのようになっている。
   Erste Abteilung, Der subjektive Geist
A. Anthropologie. Die Seele.
B. Die Phanomenologie des Geistes. Das Bewustsein.
a. Das Bewustsein als solches
b. Das Selbstbewustsein.
α Die Begierde
β Das anerkennende Selbstbewustsein
   γ Das allgemeine Selbstbewustsein
c. Die Vernunft
C. Psychologie. Der Geist
Zweiter Abteilung, Der objektive Geist
Dritter Abteilung, Der absolute Geist

ここでは、この「精神現象学」の「自己意識」の章をもとに、彼の承認論を紹介し検討したい。
  


        

「精神現象学」
b、自己意識
§424


「意識の真理(真の姿)は、自己意識であり、そして自己意識は意識の根拠である。そのために、ある他の対象の意識はすべて現実存在においては自己意識である。私は対象を私のものとして知っている。(対象は私の表象である)私はそれゆえに対象の中で私について知ることになる。自己意識の表現は「私は私である」(Ich = Ich)である。これは、抽象的自由であり、純粋な観念性である。したがって、この自己意識は実在性をもたない。なぜかといえば、自己意識の対象である自己意識自身は対象といえるようなものではないからである。というのは、自己意識の対象と自己意識自身との間には何らの区別も現存していないからである。」
 これは、自己意識が対象をもっていても、対象は実在性をもっていないと見なし、振舞うということである(ただし、このことことを自己意識が自覚しているのではなくて、このことは、我々哲学者から見てのことである)。


             

Zusatz

「「私は私である」という表現の中には、絶対的理性および自由の原理が言い表されている。――私は私を「私は私である」という形式へ高め、すべてのものを私のもの・私として認識し、あらゆる客観を私自身であるものの体系における一分枝として捉える。簡単にいえば、私は一つの同じ意識の中に自我および世界を持ち、世界の中に私自身を再発見し、かつ逆に私の意識の中に、存在しているもの・客観態をもっているものをもっている。自由および理性はこのことのなかに存立している。――自我と客観とのこの統一は、精神の原理を形成している。けれどもこの統一は初めは単に抽象的な仕方で直接的な自己意識の中に現存しているにすぎない。」
 これは、独我論の主張であるようにみえる。このことを独我論の主張として理解することは、次ぎの欲望の段階では可能であるかもしれないが、他者に承認を求める段階では、いわゆる独我論とは、対自的にも即自的にも(つまり、自己意識の自覚においても、我々哲学者から見ても)異なるように思われる。
 実は、このような有限な自己意識(抽象的な自己意識と世界の多様についての意識からなるもの)は、本性上は先なるものではない。おそらく幼児が、このような自己意識をもつに先だって、幼児は、たとえば母子の一体感の中で相互知識をもっているのである。これは、相互知識というよりもまだ主客未分の一つの意識であるというべきかもしれない。(注1)

§425

「意識および否定一般は、「私は私である」において既に即自的には、廃棄されているということによって、客観に対立する自己自身のこの確信としての自己意識は、自分の即自的にそうである姿を措定しようという衝動である。言いかえれば、自己意識は自分に関する抽象的知に内容と客観態とをあたえようとする衝動であり、かつ逆に自分を自分の感性から解放し、与えられた客観態を止揚し、そして自分と同一なものとして措定しようという衝動である。」

α、Begierde 
§426


「自己意識の直接態(自己の直接性における自己意識)は、個別者であり欲望である。・・・・意識を止揚することによって出てきた自己自身(自己意識自身)の確信にとっては、客観が虚無的なものとして規定されており、客観に対する自己意識の関係にとっては、自己意識の抽象的観念性が同様に虚無的なものとして規定されている。」
Zusatz
「自己意識は、たと潜勢的自体的には全体性(Totalitat)、主観的なものと客観的なものとの統一であるとしても、それにもかかわらず、さしあたりは一面的なもの・単に主観的なものとして実存する」

 つまり「直接的な自己意識、それゆえに自然的・個別的・排他的な自己意識」である。「我々哲学者」からみれば、自己意識は、即自的には、全体性なのであるが、自己意識自身は、それを自覚しておらず、対自的には、個別的で排他的な自己意識である。

§428


「欲望は、その満足にかんして、一般的には快適であり、その内容に関しては、我欲的である。満足が単に個別的なものにおいて生じるだけなので、その満足において、ふたたび欲望が生み出されるのである。」
Zusatz
「この客観化は、自分の目標を絶対的に達成するということはけっしてなく、単に無限の進行をもたらすにすぎない。」

§429


「しかし、満足の中で自我に生じる自己感情は、内的側面からみれば、あるいは即自的には、抽象的対自存在、あるいは個別性のなかにとどまっておらず、むしろ直接性と個別性の否定として、この成果は、普遍性という規定、自己意識の対象との同一性という規定を含んでいる。この自己意識の判断、分割は、自由な客体の意識である。この客体において、自我は、自分を自分の外にある自我として知ることをもつ。」
 つまり、欲望の満足において、我々哲学者から見れば、即自的には、対象の中で、自分を自我として知るということが成立している、というのである。

β、Das anerkennende Selbstbewusstsein
§430


「自己意識は、自己意識にとって存在する、最初には、直接的に、他者にとっての他者として存在する。」
 この表現は、<自我が自己を意識するのは、自分が他者に見られていることを意識することによってである>という主張を、ヘーゲルの中に読み取ることを可能にする。

「私は、自我としての他者の中に私自身を直観する。しかし、またその中に直接に現存在する、自我として絶対的に私に対して自立的な他の客体を直観する。」

 これは、フィヒテの原則論の反対である。フィヒテでは、「絶対的自我」が措定され、その中に互いに対立する「自我」と「非我」が措定された。

「このような矛盾が、自己を自由な自己として示し、他者にたいして自由な自己として現に存在しようとする衝動Triebを、与える、つまり承認のプロセスを与える。」

Zusatz


自己意識の第二の発展段階は、第一の発展段階である欲望と次の点で共通している。それは「直接性という規定」においてである。「この規定の中に、つぎのような法外な矛盾がある。つまり、自我は、完全な普遍、絶対的な浸透するもの、いかなる限界によっても中断されない者、すべての人間に共通の本質であるから、ここで互いに関係している二つの自己Selbstは、一つの同一性、いわば、一つの光を構成している。しかし同時に、彼らは二つのものであり、完全な硬直性、つれなさ、において、互いに対立しており、各々は、自己内に還帰したもの、他者から絶対的に区別され突破されないものとして、存立している。」

 我々は、ヘーゲルが「一と多の綜合」あるいは「同一性と差異性の同一性」を考えるとき、具体的なモデルとして、自己意識に加えて、対他者関係を指摘することが出来るだろう。
@自己意識:自己意識において、意識する自己と意識される自己は、異なっていると同時に同一である。そして、この両方の契機がそろうことによって、一つの自己意識が成立する。
A対他者関係:他者との関係において、自己は他者と相互に浸透していると同時に、自己内に反省して独立した者である。   
 
 ヘーゲルは、<二つの自己意識が出会ったときには、両者が一つであると同時に区別されているという「矛盾」が生じる>と考えているようである。そして、この矛盾を解決するために、自己を「自由な自己」として示そうとする衝動が生じる、と考える。
 この「矛盾」は、二つの自己意識がであったときに、そこに相互知識が生じると同時に、両者は、区別されている、ということとして解釈できるだろう。あるいはむしろ、相互知識ということ自体が、ここでいう「矛盾」であるといえるかもしれない。
 この相互知識は、我々に一定の意図表明を強制する。相互知識のために、我々は他者とであったときに、一定の意図を表明せざるを得ない。そして、そしてその意図の尊重を求めることになる。かくして、我々は、他者とであったときに、承認を求め合うことになるのである。
 (フィヒテは,促しが、自己意識に、ダブルバインドをかけることに気づいていたが、へーゲルは、我々がつねに不可避的にダブルバインドをかけあうということに気づいていたのだといえるだろう。)
 
                 

§431


「承認の過程は、闘争である。なぜかと言えば、他者が私にとって直接的な他の現存在である限りは、私は他者の中の私を私自身として知ることができず、それゆえに、私はこの他者の直接性の廃棄へむけられているからである。
 同様に、私は、直接的なものとしては承認されることができず、むしろ私が、私自身において直接性を廃棄し、それによって私の自由に現存在を与える限りでのみ、承認されることができるのである。」
 これによって、自分と他者の直接性を否定しようとする衝動となる。

「しかし、この直接性は、同時に、自己意識の身体性である。彼の記号と道具としてのこの身体において、自己意識は、自身の自己感情と、他者に対する存在と、その存在を他者と媒介する関係とをもっている。」

Zusatz


「前のパラグラフの補遺で述べた矛盾のより詳しい形態は、次ぎの通りである。互いに関係している自己意識的な主体は、直接的な現存在をもっているから、自然的で身体的な主体である。それゆえに、それらは、疎遠な力Gewaltに従属している物というあり方で実存しており、そのようなものとして互いに関わっている。しかし、それらは同時に端的に自由であり,互いに対して、単に直接に現存在する者あるいは、単に自然的な者として扱われてはならない。」
「この矛盾を克服するためには、つぎのことが必要である。互いに対立している両者の自己Selbstが、その現存在、その対他存在Sein-fuer-Anderes において、それらが自体的にあるいは概念にしたがってそうであるところのものとして、つまり自然的であるだけでなく自由な存在者Wesen として、自己を措定し承認することが必要である。」

「このようにしてのみ、真の自由は成立する。なぜなら、真の自由は、私と他者の同一性Identitat の中にのみ成立するので、他の者もまた自由であり、私によって自由なものとして承認されたときにのみ、私は真実に自由であるからである。」

§432


「承認の闘争は、生と死へ向かう。両方の自己意識の各々は、他の自己意識の生命を危険に陥れ、自己自身も危険に陥れる。しかし、単に危険に陥れるだけである。なぜなら、自分の生命を自由の現存在として維持することへ向かうからである。一方の死は、一面では矛盾の解決である。つまり直接性の抽象的なつまり粗野な否定による、矛盾の解決である。しかし、本質的な側面、つまり承認の現存在に関しては、それはそこで同時に廃棄されており、新しい矛盾、最初のものよりもより高次の矛盾が生じている。」

Zusatz

「上述の承認のための闘争は、人間が個別者としてある自然状態の中でのみ生じ得る。この闘争は、市民社会や国家からは、とおく隔たっている。なぜなら、それらは、あの闘争の成果を形成しているもの――すなわち、承認されていること Anerkenntsein がすでに現前しているからである。というのは、国家は、暴力Gewalt によっても成立し得るが、しかし、国家は暴力の上に安定することなないからである。暴力は、国家の出現のさいに、即自かつ対自的な正当化されているもの、法律や憲法を実存させるのである。」

 承認をもとめる闘争は、その極端な形式では、自然状態に登場するが、しかし、極端ではない形式ならば、おそらくすべての自己意識が経験するのである。

「国家においては、民族の精神、習俗、法律が、支配するものである。そこでは、理性的存在者としての人間は、自由なもの、人格として承認され、扱われている。個別者が自己をこの承認に値する者にするのは、次ぎのことによってである。個別者は、自己意識の自然性の克服によって、普遍的なもの、即かつ対自的に存在する意志、つまり法律に従い、それゆえに、他者にたいして自己を普遍的に妥当する仕方で規定し、他者を、それに対して個別者が自己を妥当させようとする者、つまり、自由なもの、人格として、承認する。」
「市民は、国家において、自分が奉職している職務・自分が営んでいる職業・自分のその他の勤労活動によって自分の名誉を維持する。市民の名誉はそのことによって実体的・一般的・客観的内容をもち、もはや空虚な主観性に依存しない内容をもっている。しかるにこのような内容は、自然状態においてはなお欠けているのである。自然状態では、諸個人は彼らがたとい何であろうとも、また彼らがたとい何をなそうとも、無理に自分を承認させようとするのである。」

               

§433 支配と隷属

「生命は自由と同様に本質的であるので、闘争は、さしあたり不等性をともなった一面的な否定としておわる。闘争する者の一方は生命を優先し、個別的な自己意識として自己を維持する。しかし、かれは承認されていること Anerkanntsein をあきらめる。他方はしかし、それの自己自身への関係を固持し、服従する者としての最初の者から承認される。これが支配と隷属の関係である。」

「承認の戦いと主人への服従は、人間の共同生活が、国家の始まりとして、そこから出現した現象である。この現象における根拠である暴力は、法Rechtの根拠ではない。たとえ、暴力が、欲望と個別性の中に沈んだ自己自意識の状態から普遍的自己意識の状態への移行における必然的で正当化された契機であるとしても、である。」
 ここで、自然状態のなかで承認のための闘争が生じて、最初の国家は、支配と隷属の関係になることがわかる。具体的には、古代のギリシア人、ローマ人の国家が考えられている。(注2)

Zusatz


「ギリシア人およびローマ人の自由国家のなかには奴隷制度が存在していたし、かつローマ人のもとでは、奴隷達が自己を解放しようとしておこなった血なまぐさい戦争が発生した。そしてまた奴隷達はそれらの戦争において、自分たちの永遠な人権の承認(Anerkennugn ihrer ewigen Menschenrechte)を獲得することを求めたのである。」

§434

「支配の手段すなわち奴隷はそれの生命においては維持されなければならないから、この関係(支配と隷属との関係)は一方では、欲求の共通性および欲求の満足に対する配慮の共通性である」

§435


「第二に区別に関して言えば、主人は奴隷および奴隷の奉仕の中に、自分の個別的な独立存在が妥当しているのを直観する。そしてもとよりこのことは直接的な独立存在の廃棄を介して行われる。しかしその廃棄の厄にあうのは他人である。しかるにこの他人すなわち奴隷は、主人に対する奉仕において、自分の個別的意志と我意とをすり減らし、欲望の内的直接性を廃棄し、そしてこの外化と主人に対する恐怖とのなかで知恵Weisheitの端緒を作り出す。すなわち一般的自己意識への移行を作り出す。」
 奴隷は、「奉仕」と「恐怖」のなかで、知恵の端緒を獲得する。

γ 普遍的自己意識
§436


「普遍的自己意識とは、他の自己の中で自己自身を肯定的に知ることである。その各々の自己Selbstは、自由な個別性として絶対的自立性を持っている。しかし、その直接性ないし欲望を否定しているために他者から区別されておらず、普遍的自己意識であり、客観的である。各々は、またつぎのような仕方で、相互性Gegenseitigkeitとしての実在的な普遍性を持っている。各々の自己は、自由な他者の中で自己が承認されているのを知っているが、それは彼が他者を承認し、他者が自由であることを知っているかぎりにおいてである。」
「自己意識の普遍的な再現Wiederschein、・・・すべての本質的な精神性(家族、祖国、国家)の実体の意識の形式、またあらゆる徳(愛、友情、勇気、名誉、名声)の実体の意識の形式である。」

Zusatz

「一般的自己意識とは言いかえれば、自由な自己意識である。しかもこの自己意識に対しては、自分にとって対象的な他の自己意識が――第2の段階においてとは異なって、――もはや自由でない自己意識ではなくて、同様に独立である自己意識である。」
「こうして、この立場においては、相互に対して関係しあっている自己意識的な主観が、自分たちの不等な特殊的個別性を廃棄することによって、自分たちの実在的普遍性の意識へ、自分たち全部に帰属する自由の意識へ高まり、かつそのことによって自分たちの明確な相互的同一性の直観へ高まった。」
「奴隷に対立する主人はまだ真実に自由ではなかった。なぜかと言えば、奴隷に対立する主人は他者の中にまだ全く自分自身を直観していたわけではなかったからである。したがって、奴隷の解放によって始めて主人も完全に自由になるのである。」
「この普遍的自由という状態においては、私は私自身へ反省していることによって、直接に他者へ反省している。そしてまた逆に、私は私を他者へ関係させることによって、直接に私を私自身へ関係させる。それゆえに、我々はここで精神が種々なる自己へ――それ自身においても相互に対しても完全に自由独立であり、また絶対的に不屈であり抵抗力を持っており、かつそれにも関わらず同時に相互に同一であり、そのことによって独立でもなく浸透し難いものでもなく、いわば融合しているもろもろの自己へ――強力に分割されているのを見る。この関係は、全く思弁的な(speklativ)あり方である。」


  

注1:「感ずる心die fuhlende Seeleの直接態」§405


「母体と子供との関係は、単に肉体的でもなく、また単に精神的でもなくて、心理的である。言い換えれば心の関係である。二つの個体が存在している。しかも二つの個体は、まだ分離されていない心的統一のなかにある。一方の個体(こども)は、まだなんら自己ではなく、またまだ浸透されないものでもなくて、無抵抗な個体である。他方の個体(母)はこの無抵抗ナ個体の主観(主語)であり、両者(子供と母)の唯一の自己である。」(岩波訳、p.203)
「心はすべてのものに浸透して行くものであった、ただある特殊な個体の中に実存しているだけのものではない。なぜかといえば、我々が既に以前に述べたように、心は真実態として、すなわちすべての物質的なものの観念性として、言いかえれば全く一般的なものとして捉えられなければならないからである。この全く一般的なものにおいては、あらゆる区別は単に観念的なものとして存在するにすぎず、またこの全く一般的なものは、一面的に他者に対立するものではなくて、他者に覆い被さるものである。しかし同時に心は個体的な心・特殊的に限定された心である。」(岩波訳、p.232)

注2 相互承認の3レベル


ヘーゲルが「相互承認」を語るときには、次の3つのレベルがあることがわかる。もっとも、ヘーゲル自身は、次のような相互承認の三段階をどこにも明示してはいない。
  @(相互)承認によって、国家状態が生じる。
A相互承認によって、主人と奴隷の状態から、法状態へ移行する。
  B相互承認によって、「人倫性」「最高の共同」が成立する。

この3つの承認の内容の違いは、つぎのように規定できるだろう。
  @は、民族の一員としての(生命の)相互承認。(個別性の承認)
  Aは、法的人格としての相互承認。法的な相互承認。(普遍性の承認)
  Bは、人倫的(道徳的な)相互承認。(主体性の承認)



      2、 相互知識が、自己意識の真理(真実態)である。




   3、 17・18世紀に登場する「人間に固有な情念としての承認願望」

「キケロとダンテは、承認願望というものは、厳密にいえば徳ではないけれども、ある種の人々には徳と殆ど変らない結果をもたらすと主張しましたが、すべての人が常にこうした動機によって支配されているとは主張しませんでした。しかしながら、これから我々が考察する17・18世紀においては、あらゆる人間というものは、みずからの社会的行為を、承認願望以外のいかなる動機によっても行うことはありえないということが、広汎に受容された前提となっていたのです。言い換えますと、感嘆されることや喝采されることへの強い欲望が、人類にとってありふれたものであると見なされていただけではなく、それが、人間に欠如した理性や徳に代わるものとして、創造者によって人間の内部に巧妙に植え付けられ、善行の唯一の主体的な誘因として、また社会の優れた秩序と人間の進歩のために必要なあらゆる行為の事実上の動機として働いているということが、広汎に受容された前提となっていたのであります。」(ラヴジョイ『人間本性考』名古屋大学出版会,p.176)

 このように17世紀に「称賛への愛」ないし「承認願望」が登場するということは、これが従来の共同体の中での名誉欲とは別のものであること示している。これは、市民社会の中に登場した欲望である。マルクスならば、これは、抽象的な人間である「商品所有者」に特有な、願望であるというだろう。第2回目に、自由主義での承認形態を以下のように三つに区別した。
   (1)人間一般としての承認     (人権や差別の問題に関連する)
   (2)特殊な善き生の構想の承認   (多文化の共存に関連する)
   (3)特別な存在としての承認    (個人の生き甲斐に関連する)
ラヴジョイのいう「承認願望」とは、(3)にあたるものである。マルクスならば、特別な存在として承認されるということは、特別な商品の所有者として承認されるということである、というだろう。
 ヘーゲルの承認論は、近代におけるこのような承認願望への広汎な注目を背景に、登場したものであるといえるだろう。もちろん、彼は自然状態での承認は、国家における市民の承認願望とは異なることを自覚していた。しかし、承認願望を人間に本質的な願望と捉えることは、近代に特有なことである。


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