2000年前期講義  「承認論の可能性」
第10回

 §5 承認と相互知識(つづき)
 4 相互承認における自由


 ヘーゲルは、『法哲学』§5から§7において、意志の自由ついて3つの契機を説明してい
る。
 第1の契機は、「否定的な自由」ないし「悟性の自由」(§5)であり、こういうことでであ
る。
「意志は、(a)自我のまったくなんとも決められていない純粋な無規定性、すなわ
ち、ひたすらおのれの中へおれかえる純粋な自己反省、という要素を含む。
 この純粋な無規定性のなかでは、どんな制限も解消している。つまり、自然によっ
てもろろもの必要・欲望・衝動によって直接に現存しているどんな内容も、あるいは、
何によってであれ、与えられた特定のどんな内容も解消している。
 つまり、意志は、一切を度外視する絶対的な抽象ないし絶対的な普遍性という、無
制限な無限性であり、自己自身の純粋な思惟である。」(§5、訳192f)
 これは、あらゆる制限や内容を反省して、それから距離をとる自由であり、<・・・から
の自由>と言うこともできるだろう。このような自由な自我は、<負荷なき自我>であると
いえるだろう。これは、『精神現象学』でいえば、「美しき魂」である。

 第2の契機は、「特殊化」「有限性」の契機である。
「自我はまた、区別なき無規定性から区別立てへの移行であり、規定することへの、
そして、ある規定されたあり方を内容と対象として定立することへの移行である。」
(§6、訳195)
 これは、我々が、一方ではたしかに、負荷なき自我であり、あらゆる規定性から距離を取
っているとしても、現実には、我々はつねに規定されており、ある規定を引きうけているし、
自己を限定しないでは、現存在することができないので、自己限定している、という側面を
述べたものである。これは『精神現象学』でいえば、「行動する良心」に対応するだろう。
 ヘーゲルは、カントもフィヒテもこの二つの契機を区別していたと述べている(§6)。し
かし、彼らは、この二つの契機の連関を捕らえきれなかった。彼らの立場を、ヘーゲルは、「無
限性と有限性の二元論」(§6)と呼んでいる。
 選択の自由というのは、第1の「否定的な自由」という契機と、そこにおいて同時に無根
拠に自己を限定するという第2の「特殊化」の契機によって、可能になるのである。
と同時に、この二つの契機が、分離しているところに、成立するものである。前述の「選択
の自由の批判」はこの二契機の分離への批判、「無限性と有限性の二元論」への批判である。

 ヘーゲルは、これに続けて第3の契機、「個別性」の契機を述べている(第1が、「普遍性」
第2が「特殊性」第3が「個別性」の契機となる)。
「意志は、この(a)と(b)の両契機の一体性である。すなわち、特殊性がそれ自
身の中へおれかえり、このことによって普遍性と連れ戻されたあり方、つまり個別性
である。いいかえれば、それは、自我が自分を自己自身の否定的なものとして、つま
り規定され制限されたものとして定立しながら、同時に、依然として自分のもとに、
つまり自分との同一性と普遍性のうちにありつづけ、したがって規定の中で自分をた
だ自己自身とのみつなぎあわせる、という自我の自己規定である。
 自我は、否定性の否定性それ自身への関係である限りにおいて、自分を規定する。
自我はそのように自分への関係だから、この規定されていることに対してもまた無関
心でもある。そして自我は、この規定されたあり方を自分のもので観念的なものであ
ると知る。つまり、自我は、この規定されたあり方が、単なる可能性であって、自分
はこれによってしばられておらず、自分がこの規定されたあり方のうちにいるのは、
自分がそれにおいて自分を定立するからにすぎないのであると知る。
 このことが意志の自由なのである。」§7訳197f

 前の二つ契機は「悟性的契機」(§7訳198)であり、第3の契機は、「思弁的なもの」(§
7訳198)であるといわれる。これを、「思弁の最内奥のもの、否定性がそれ自身へ関係して
ゆくものとしての無限性、あらゆる活動と生と意識とのこの究極の源泉点」(§7訳198)と
いっている。
 しかし、Zusatzの中では、つぎのようなわかりやすい例があげられている。
「第3に、自我は自分の制限、つまり右にいった他のもののうちにありながら、しか
も自分自身のもとにある。自我は自分を規定しながら、しかもなお依然として自分の
もとにありつづけ、普遍的なものを固持することをやめない。これが自由の具体的な
概念である。これに対して他方、先の両契機は、まったく抽象的かつ一面的と認めら
れた次第である。
 だが、我々はこのような自由を既に、感覚(Empfindung)の形式において、例え
ば友情と愛においてもっている。友情や愛においては、我々は一面的に自分のうちに
あるのではなくて、他のものへの関係において進んで自分を制限し、だが、この制限
する中で自分を自分自身として知る。規定されているのに、人間は自分が規定されて
いるとは感じないのだ。かえって、他のものを他のものと見なすことによって、そこ
に始めて自己感情をもつのである。
 こうして自由は、規定されていないことにあるのでもなければ、規定されているこ
とにあるのでもなくて、この両方である。」訳199

 友情や愛において、「規定されているのに、自分が規定されているとは感じない」つまり、
これは友情や愛においては、制約が制約と感じられず、むしろ喜びと感じられる、というこ
とではないだろうか。そこでは、制約は自由を妨げるものではなくて、むしろ自由を実現す
るものである。(後の表現で言えば、義務が同時に権利でもあるということである。)
 この第3の契機は、どういうことだろうか。自己を規定する、あるいは規定性を自分の規
定性として引きうけながらも、同時に自分が他方ではあらゆる規定性から自由であるという
確信を保持しており、現在の規定性もまた一つの可能性に過ぎないということを知っている
といことだろうか。そうではないだろう。これだけならば、自由に一つの規定性を選択した
という<選択の自由>と変わりがないからである。

 重要ことの第1点は、ヘーゲルがここで論じている愛や友情が、自我の自然に対する関係
ではなく、また他者に対する一方的な片思いでもないということである。つまり、この関係
は具体的な他者との現実的な相互関係である。愛の関係は、その関係を互いに承認すること、
そしてそのことが相互知識になっていることによって、成立する。したがって、規定性に対
する態度は、自分一人で自由に変更できるものではない。しかし、このことは、自分では自
由に変更できない状況にたいして、距離を取ることが出来ない、ということを意味しはしな
いだろう。たとえば、契約においても、契約で締結された関係を自分一人で自由に変更する
ことは出来ないが、しかしそのような契約関係を反省し、それを疎遠なものと感じるという
ことは可能である。契約の自由は、選択の自由であって、彼の主張する自由ではない。
 重要なことの第二点は、愛や友情は、契約とは異なり、相互承認の関係であるということ
である。第3の契機の核心は、単なる対他者関係における自己規定ということではなくて、
相互承認にあるのだとおもわれる。(『精神現象学』でいえば、この第3の契機は、最初の二
つの契機に対応していた美しき魂の二つの形態が相互承認することによって精神が成立する
ということに対応している。)しかし、愛の関係の中にありながらも、第1の契機の故に、他
方でつねにその関係を疎遠に感じるということはありうるのではいだろうか。そのとき彼は、
愛の関係を選択しなおすことになり、その愛の関係は(契約と同じように)選択の自由に基
づくことにならないだろうか。

 では、契約関係と相互承認の関係における違いは何か。とりあえず、次ぎの3点を挙げる
ことが出きるだろう。
@ 契約では、権利と義務が、分離しており別々の人間に振り分けられるが、
相互承認では、権利と義務が一致する。
  A契約では「共通の意志」が構成され、承認では「普遍的意志」が成立する。
  B契約では、個人が主体であるが、承認では、個人は主体性を放棄する。

         5、相互承認における権利と義務の一致
           
1、愛における<与えること=受取ること>
 ヘーゲルは、イエナ期の草稿の二箇所で「愛」について「相互に受取り且つ与えること」
(ein  gegenseitiges Nehmen und Geben)」( Hegel, Werke in zwanzig Banden, Suhrkamp Verlag, 1970, Bd.1, S.248,)
「与え且つ受けとること」(ibid., S.335)と述べている。
「奪う者は、そのことによって、他の者よりもより豊かになるのではない。彼は確か
に豊かになるが、他方の者と同じだけゆたかになるのである。与える者も、より貧し
くなるのではない。彼が他の者に与えることによって,かれはかれの宝をおなじだけ
増やすのである。ロミオにおけるジュリア。私がより多く与えるほど、私は益々多く
持つことになる。愛は、このような生の豊かさを、あらゆる思想や魂のあらゆる多様
の交換において、かくとくするのである。」HW1,246
 これは、いわゆるギブ・アンド・テイクではなく、愛においては、相手に与えることは同
時に相手から受取ることであり、またその逆でもある、ということを意味している。この考
えが、後に「人倫性」に関して、権利が同時に義務であると考えるようになった、その思想
の芽であるようにおもわれる。

2、人倫的国家における権利と義務の一致
『法哲学』での記述
 ヘーゲルは、『法の哲学』の一五五、二六一で、人倫性(国家)においては、義務と権利
が同一であることをのべている。
「国家は、人倫的なものであり、実体的なものと特殊的なものとの浸透であるから、
国家においては、実体的なものに対する私の責務が同時に私の特殊的自由の現存在な
のである。言いかえると、国家においては、義務と権利が全く同一の関連において、
合一されているのである。」(§261訳490)
 国家においては、市民としての義務の履行が、同時に彼の喜びでもあるのである。
「義務からすれば、臣民である個人が、市民としては、義務を履行することにおいて、
おのれの人格と所有を保護してもらい、己の特殊的福祉を顧慮してもらい、そして己
の実体的本質の満足と、この全体の成員であるという意識と自己感情とを得るのであ
る。そしてこのように市民が、もろもろの義務を国家に対する努めおよび職務として
はたすことによってこそ、国家は維持され存続するのである。」訳491
 そして、このような合一によって、国家の強さが生じるという。
「義務と権利との合一という概念は、最も重要な規定の一つであり、国家の内的な強
さを含んでいる。」(§261、訳490)
 これに対して、市民社会の抽象的な法関係や、道徳においては、権利と義務が分離してい
る。
「私的権利の圏と道徳の圏では、義務と権利の相互の関連に現実的必然性が欠けてお
り、したがって内容の抽象的同等性が存在しているだけである。つまり、これらの抽
象的な圏では、一方の者にとって権利であるところのまさにそのものが、他方のもの
にとっても権利であるとされ、一方の者にとって義務であるところのまさにそのもの
が、他方の者にとっても義務であるとされる。」(§261訳490)
 抽象的権利においては、権利と義務は、別々の人間に分離している。契約においても、こ
れは同様であろう。譲渡契約において、一方は受取る権利を持ち、他方を与える義務をもつ、
というように、権利と義務は、別々の人間に振り分けられることになる。
 道徳については、次のように言われる。
「道徳的領域では、私自身の知りかつ意志する権利と私の福祉の権利は、諸々の義務
とただ合致すべきであるにすぎず、客観的であるべきであるにすぎない。」(§155)
 道徳においては、権利と義務が同一であるべきである、というにとどまっている。つまり、
ある道徳的行為をすることは、義務であるが、しかし同時に、それは彼の喜びでもあるべき
である、ということであろう。道徳においては、権利と義務の一致が、当為として主張され
るだけである。
 1824-25年のグリースハイムによる講義ノートのなかでは、そのことがもっとも直裁に述べ
られている。
「私の義務であるものは、私の権利でもある。というのは、人倫的なものは、私の本
質でもあり、現存在をもつべきだからである。このことは、義務である。私は人倫的
なものの現存在であり、人倫的なものは、私の中で実現される。それゆえに人倫的な
ものは私の権利でもある。私は人倫的なものなしには、よりどころをもたず、私が、
人倫的なものそのものであり、人倫的なものは、義務であると同様に権利である。」
(I. Philosohie des Rechts nach der Vorlesungsnachschrift K.G.v.Griesheim 1824-25, in
Hegel, Vorlesungen uber Rechtsphilosophie1813-1831, Edition undKommentar von Karl-Heinz Ilting,
frommannshozboog, 1974, Bd.4, S.412f)

3 共同体以外での<権利と義務の一致>の偶然性
 <権利と義務の一致>という状態は、たしかに共同体において可能であるが、しかし共同
体においてのみ可能なのだろうか。例えば、多文化社会の中で、権利と義務が一致するよう
な社会ができないものだろうか。異文化を尊重することが、同時に私の喜びでもあるという
ことは、ある程度は可能である。しかし、これは、ヘーゲルが道徳について述べたように、
当為にとどまるだろう。またたとえば、真理を追究するときに、我々はそれが自分のために
なるとともに、人々のためにもなると思っている。これもまた、当為にとどまるだろう。
 この一致が、当為にとどまるのではなくて、現実的な一致あるいは必然的な一致になるた
めには、共同体が必要なのである。なぜなら、共同体においては、常に既に一致しているか
らである。なぜなら、これが一致すると言うことこそが、共同体が共同体であると言うこと
だからである。なぜなら、共同体は、権利と義務の一致が相互に知られ承認されているとい
うことによって、成立するからである。(これについては、もう少し論証が必要だろうとおも
います。)

4 共同体における権利と義務の一致は、選択の自由と両立する? 
 共同体の中で権利と義務が一致したとしよう。そのときにも、(第1の契機によって)我々
はその状況から身を引いてそれを反省することが可能である。共同体の中での義務も喜びも、
そのときの私には疎遠なものなのではないだろうか。我々は、共同体の関係を反省して、そ
こから距離を取ることができ、それを再び選びなおすのではないだろうか。そうだとすれば、
共同体の関係もまた「選択の自由」によって成立しているといえるのではないだろうか。
 ヘーゲルならば、これを認めないだろう。ヘーゲルはおそらく次ぎのように考える。第1,
第2、第3、の契機は、並立する関係にあるのではなくて、第1と第2の「悟性的な契機」は、
第3の「思弁的な」契機の中で止揚されているのである。つまり、第1の契機と第2の契機
の真理(真実態)が、第3の契機なのであり、この第3の契機の中で、初めて第1と第2の
契機が可能になるのである。このことを当事者が自覚すれば、共同体の中でその状況から身
を引いてそれを反省するという第1の契機はあっても、そのこと自体が共同体の中で可能に
なっているのであるから、共同体の中での義務や喜びは、彼にとってもはや疎遠なものでは
ないのである。
 第1の契機の真理が、第3の契機であること、このことは、『精神現象学』で自己が「対自
存在」〔第1の契機〕であることを承認させようとすることが、生死を賭けた闘いの中で挫折
し、その中で「生」(第2の契機)もまた本質であることを知るようになり、この二つの契機
の各々を本質とする自己意識(主人と奴隷)の関係が、相互承認に向かうということにおい
て示されている。しかし、この証明は、充分なものだろうか。
(次ぎの7では、ヘーゲルによる証明の吟味の前に、ヘーゲルを離れてその可能性を考えて
みたいとおもいます。)

          

7 相互承認関係の基底性


 契約は、人格の承認を前提する。ゆえに、人格の尊重を契約内容とすることは、必然的な
契約である。なぜなら、人格の無視を契約することは、語用論的な矛盾に陥るからである。
しかし、このような語用論的な意味での契約の必然性とは、<もし何らかの契約するとすれ
ば、人格の相互承認を契約せざるをえない>という必然性である。かりにこのように語用論
的に必然的な契約であったとしても、そこでは個人が実体である。
 これに対して、もし我々が、(契約とは言えないにしても)何らかの<約束>をつねにせざ
るをえず、常に既にしてしまっている、のだとすると、この<約束>は個人の選択によるも
のではなくて、個人はもはやここでは主体ではない、といえそうである。このことを以下で
示そう。
 ヘーゲルによる<選択の自由への批判>に依拠していうならば、契約しないという選択は、
契約するという選択肢からの復讐をうける。たとえば、Aさんから「これを上げましょうか」
と問われたBさんが、「はい、ください」と答えれば、贈与契約が成立するが、「いいえ,結
構です」と答えたとすると、このときには、Aさんの申し出を断わったというということに
ついての、相互知識が成立し、このことが、以後の二人の行為の意味を規定するということ
についての相互予期が成立する。つまり、断わった場合にも、ある種の<約束>が成立する
のである。
 たとえば、Aさんが、もう一度前回とおなじく「これを上げましょうか」といえば、これ
はもはや前回と同じ意味をもたない。それは、おそらくさらにつよく勧めるという意味にな
るだろう。また逆にAさんが申し出を繰り返すことをしなければ、それは先の申し出が儀礼
的なものであった、という意味を事後的に与えることになるかもしれない。
 つまり、契約しないという選択もまた、意味の場の一定の変容についてのある合意を形成
することになってしまう。つまり、ある種の<約束>をすることになってしまうのである。
ユダヤの格言に「黙っていても嘘はつける」というのがあるが、それは、状況によっては、
黙っていることがある約束をすることになる、ということを示している。そのような状況で
は、そのことを利用して、嘘をつくことができるということである。
 ある約束をしないことは、とりあえずはその約束をしないという約束をしたことになるの
である。約束しないときにも、別の<約束>が成立してしまうのである。
 ただし、この<約束>は拘束力が弱いので、これを約束と呼ぶのは、あるいは不適切かも
しれない。たとえば、映画の誘いを断わった者が、後で映画に行くことに気持ちを変えても、
それが約束違反として責められることはないだろう。しかし、この<約束>の拘束力をどの
ように見積もるにせよ、ある種の約束が成立しているといえるのではないだろうか。なぜな
ら、上に見たように、それによって我々には一定の相互知識や相互予期が発生するからであ
る。
 このように我々がつねに何らかの<約束>をせざるを得ない、という状況があるとすれば、
そこでは相手の人格を尊重するということが、つまり、相手の自由を承認するということが、
必然的な約束となるだろう。そして、この約束の成立が必然的である以上は、ここでは、個
人が実体であるというよりは、むしろ関係性そのものが実体であり、本質的なものである。
個人は、この関係の契機になっている。
 このような相互予期のメカニズムの中で、自分がある規定を引きうけたとしよう。たとえ
ば、私は、その規定を引きうけるつもりがなかったのに、いつのまにかそれをひきうけるこ
とになってしまった、とかんじているかもれない。このとき、私はその規定を疎遠なものと
して感じ、それから自由なものとしての自己を意識しているかもしれない。しかし、ここで、
そのようにあらゆる規定から自由な自己であることもまた、相互に予期されている。ところ
で、もし<自己意識が純粋対自存在であることもまた、相互予期の中で成立する。つまり、
自由な存在であることを他者に承認されているからこそ、私は、その情況で、その規定を疎
遠なものとして感じることができるのである>とすれば、どうなるだろうか。もしこのよう
に言えるとすれば、ここで、自分が引きうけているある規定を疎遠なものとして感じること
もまた、他者との関係の中で引きうけている自分の一つの規定であることになるだろう。

 ところで、このように必然的に生じている基底的な相互承認関係によって、共同体が成立
しているといえるのだろうか。ここに成立しているのは、非常に緩やかな共同性だけではな
いだろうか。

――――――――――――――――――――――――

付注:「共有知の基底性」について
 前回の第9回講義で「2 相互知識は、自己意識の真理(真実態)である」という見出し
だけの章で、口頭でのべたのは、次ぎのようなことでした。
「相互知識」については、より正しくは「相互予期」として捕らえたほうがよいのではないか、
と考えているが、しかし、そのように改訂しても、相互知識についてうまく表現できたという
気はしない。そこで、私は、我々の知識は、基本的に「共有された知」という形式を持ってお
り、むしろ、ある種の条件が成立しているときにのみ、「私だけが知っており、他の人が知っ
ているかどうかは判らない知」というものになるのではないか、と考えるようになった。つま
り、個人の知が基本で、ある条件を充たしたときに、共有知(相互知識)が成立するのではな
くて、逆に、共有知(相互知識)であることが知の基本で、ある条件を充たしたときに個人の
知として自覚されるのだということである。無徴/有徴という区別をつかえば、共有知が有徴
なのではなくて、個人の知の方が有徴であるということである。これをとりあえず、「共有知
の基底性」と名づけようとおもう。(あるいは「実在知の基底性」という方がよいかもしれな
い。)
 この考えを、ある研究会でのべたところ、能川元一(人間科学部助手)さんから、後日「偽
信念問題」という現象について、教えていただいた。これが大変興味深い現象なので、ここ
にメイルの一部を転載したいとおもう。

―――――――――――  能川さんからのメイル ここから
私が参照したのはRoutledgeの哲学大百科( Routledge Encyclopedia of
philosopy )の "Child's theory of Mind"という項目です。MITの認知科学百
科事典(現在翻訳が企画されていますが)にも簡単ですが説明がありました。
日本語の文献もあったように思いますがすぐに思い出せません。思い出しまし
たらお知らせいたします。

> >発達心理学に「偽信念問題」というのがあります。さまざまな年齢の子どもに
> >次のような人形劇を見せます。Aがやってきてキャンディーの箱を見つけ、な
> >かを開けるとキャンディーではなく鉛筆が入っている。次にBがやってきてや
> >はりキャンディーの箱を見つける(が、まだ開けていない)。この時、子ども
> >に「Bは箱のなかになにが入っていると思っているかな?」と聞くと、3才児は
> >「鉛筆」と答えてしまいます。「キャンディー」と(正しく?)答えられるよ
> >うになるのはより後になってからです(5、6才だったと思います。ちなみに、
> >自閉症児はこの「偽信念問題」をうまく扱えないそうです)。AとBの関係に注
> >目すれば、箱の中身が「相互知識」の主題になるわけですが、発達的には「自
> >分の知識は相互的なものではない=個人的なものである」という認識は決して
> >プリミティブなものではない、ということになります。
>
> 自閉症児は、「キャンディー」と答えるのでしょうか?

いえ、「鉛筆」と答えてしまいます。改めて文献を確認してみると、正常児の
場合4才で85%が「キャンディー」と答えられるようになります。4才児、ダウ
ン症の子ども、そして年長の自閉症の子どもを比較した実験では、自閉症児の
グループが年齢も上で、またダウン症児のグループよりも平均IQが高い(前者
が64、後者が82)にもかかわらず、ダウン症児の85%が「正解」できるのに対
して自閉症児では20%しか「正解」できなかった、とあります。したがってこ
れは一般的な知能の障害に由来するのではなく、自閉症に特有の障害ではない
かと考えられているわけです。

――――――――――――― ここまで