第11回
§5 承認と相互知識

             
7 相互承認関係の基底性(づづき)



 我々は、つねに何らかの<約束>をせざるをえず、常に既にしてしまっている。この<約束>における個人の選択は、相互予期のメカニズムによって成立するので、個人には不可避の事柄である。ここでは、個人はもはや主体ではない、むしろこのメカニズムによって、主体としての個人が成立するのである。
 私が、ある状況で選択することが不可避であるとき、たとえば結婚の申し出を受けることは、ある人との結婚という規定をひきうけることであるが、それを断わることは、何の規定も引きうけないことではなくて、別の人との結婚、あるいはとりあずしばらくの間の独身という規定を引きうけることである。このようは状況では選択肢は予め与えられている。我々にとって、根本的には選択肢は自分で作り出すのではなくて、与えられるものである。その可能的な選択肢の総体が「状況」だといえるかもしれない。
 しかし、選択の前でも、最中でも、後でも、その状況に対して、我々は距離を取ることが出きる自分を感じている。(このような自己理解がなければ、選択するという自己理解も不可能である。)しかし、この抽象的な自由な自我もまた、このように選択を迫る状況が可能にしているものであり、相互予期メカニズムの中で、成立するものである。この自我もまた、<与えられたもの>である。しかし、この<抽象的な自我>を与えられたもの、疎遠なものと感じる<自我>は、存在しない。相互予期メカニズムを、疎遠なものと感じる<自我>というものは存在しない。
 しかし、選択肢は、疎遠なものとなりうる。ゆえに、人倫性において権利と義務が一致するとしても、それらの権利や義務は、<抽象的な自我>にとっては、疎遠なものとなりうる。
 我々にとって、疎遠なものとなりえないものが、相互予期メカニズムであるとすると、その相互予期メカニズムのなかに含まれている規範のみが、我々にとって、疎遠なものとなりえない規範である。では、その規範はなにだろうか。それは、相手を自由な選択能力をもつ人格として承認するということはないだろうか。
 そして、相互予期の共同性を自体を尊重すべきであるというような共同体論的な規範は存在しないのではないだろうか。そうだとすると、ここから人倫的共同性を主張することは出来ない。ヘーゲルが考えるような人倫的共同体の規範を、主張することも出来ないことになる。(というわけで、私としては、ヘーゲルの国家論には、否定的なのですが、その特徴について、次ぎに紹介したいとおもいます。)

            

 8 ヘーゲルの国家論

 
 ヘーゲルは、このような民族における自然的な相互承認からどのようにして国家や法が成立するのか、ということを語らない。
 彼が国家論でかたるのは、国家がどのようにして成立したかではない。人倫的な国家がどのようなものになるかを語るのが、ヘーゲルの関心である。ロックは、各人がその自由をまもるために国家を作ったという前提に立って、その目的にそった国家はどのようなものであるべきかを議論した。ヘーゲルにとっても、国家は自由が実現するための形態である。故に、彼もまた、自由を実現するためには、国家はどのようなものでなければならないかを考えたのである。しかし、両者の「自由」概念は、大きくちがっている。ゆえに、それが実現される国家の姿も大きく異なることになる。とくに重要だと思われるのは、次ぎの二点である。
   1、権利と義務の一致
   2、国家は直接に個人からなるのではなくて、個人は仲間集団への帰属や身分へ
  の帰属を通して、国家に結びつく。
   
1については、既に論じたので、ここでは2について説明したい。

「国家は、本質的に、それぞれの分肢Gliederがそれ自身だけで仲間集団Kreiseであるような、そういうもろもろの分肢からなる一つの組織体Organisationである。だからして国家においてはどのひとつの契機も、非有機的な多数の衆Mengeとして振舞ってはならない。」(RPh§303訳562)
「これ(個人としての多数の人々)は、形のない大衆Masseであって、その動きと振る舞いは、まさにそれゆえに自然力のように暴力的で、没理性的で野蛮で恐ろしいものであるであろう。・・・・
 例の仲間集団という形をとってすでに存在している共同体Gemeinwesenを、それが政治の場へ、すなわち最高の具体的普遍性の立場へ入ってゆく場合に、もとどおり多数の諸個人に解体させる考え方は、まさにそうすることによって、市民生活と政治生活とを別々に切り離したままにしておき、後者をいわば宙にうかすわけである。というのは、この考え方に拠れば、政治生活の土台は、ただ恣意と私見との抽象的個別性、したがって偶然的なものにすぎず、即自かつ対自的に堅固で正当な基礎ではないであろうからである。」(RPh§303訳562修正)

ここでいう「仲間集団」とは、「地方自治団体」「職業団体」「身分団体」である。

「市民社会に属していて,国家という即自かつ対自的に存在している普遍的なものそれ自身には属さないような共同の特殊的利益に対する行政的管理は、地方自治体Gemeindeや職業Gewerbe や身分Standeの諸団体Korporationen(§251)と、それらの 管理者や長や経営者などによっておこなわれる。」§288訳545

「特殊的諸圏の権限が見とめられることによって生じる団体精神Korporationsgeistは、特殊的諸目的を保持する手段を国家においてもつことによって、それ自身のうちで同時に国家の精神に転化する。これが市民の愛国心Patriotismusの秘密であって、そこには市民が国家をおのれの実体として知るという面がある。なぜなら、国家は市民の特殊的諸圏と、これら諸圏の権限や権威や福祉を保持してくれるからである。団体精神のうちには、特殊的なものを普遍的なもののうちへ根付かせる働きが直接に含まれているから、そのかぎり団体精神のうちには、国家が市民の心術においてもつところの国家の深さと強さがあるのである。」§289訳546

注1:ヘーゲルの国家成立論


 「国家はどのようにして成立するのか」(国家成立論)という問いは、次ぎの二つの意味に理解される。
     1「国家は、どのようにして発生したのか」(国家の発生論)
     2「国家は、どのようにして存立しているのか」(国家の存立論)。
 まず、国家の発生論から検討したいところであるが、<ヘーゲルに国家起源論はない>といわなけれならない。 『法哲学要綱』(1821)おいて彼は次のように述べている。
「国家一般のあるいはむしろ各々の特殊な国家やその諸権利や諸規定の歴史的起源がどのようなものであるか、或はどのようなものであったか、国家が最初は家父長的関係から生じたのか、恐怖ないし信頼から生じたのか、職業団体などから生じたのか、・・・・・これらのことは、国家の理念には関係なく、むしろここで語られている学問的認識との関係では、現象としての歴史的事柄である。」(§258)
 彼は、ここでは、国家の理念のみを扱い、歴史的事柄については論じないという。では、彼は、国家の歴史的起源、歴史的事柄を哲学体系の中の何処で扱うのであろうか。『歴史哲学』の中であろうか。しかし、『歴史哲学』においても、国家の歴史的起源は論じられない筈である。なぜなら、「歴史哲学」は、実は、彼の哲学体系の中では、「客観的精神」の中につまり「法哲学」の中に属するからである。(このことは、ニュルンベルガー・エンチクロペディー(1808ff.)以来のことである(vgl.HW.Bd.12、S.561ff)。)
 また「法哲学」で、彼は、国家の起源は歴史以前のことであると次のように述べている。
「普通の考え方でも、家父長的状態は国家体制とは呼ばれないし、こういう状態の民族も国家とは呼ばれず、その自主性も主権とは呼ばれない。だから私心のないぼんやりした無垢の状態も、承認を求めての形式的闘争の勇気や復讐の勇気も、現実的な歴史が始まる前のことである。」(349節、追加)
そうすると、歴史哲学の中でも、国家の起源は述べられないことになる。彼の言う歴史とは、国家史であると言っても過言ではないだろう。「歴史哲学」では、「世界史に於て問題に成りうるのは、ただ国家を形成した民族だけである。」(56)と述べられている。

 では、2「国家は、どのようにして存立しているのか」についてはどうだろうか。これは、ヘーゲルの国家の原理は、人倫性という自由であり、これは、相互承認によって成立するのであるから、相互承認こそがヘーゲルの国家の原理であるといえるだろう。

注2:国家契約説批判の二つの方向(ヒュームとヘーゲル)


 ヒュームやスミスの契約論批判は、現実の国家は、契約によって成立したのではない、という批判だった。彼らは、もし契約によって国家が成立したとすれば、それは国家のあり方としてはより好ましいことである、とかんがえる。
 これに対して、ヘーゲルの契約論批判は、現実の国家は、契約によって成立した者ではない、という批判ではなく、かりに契約によって国家が設立されたとしても、そのような国家は、好ましくない、という批判である。